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氷の闇姫は辺境で禁書を開く

第2話 第2話

第2話

第2話

東の空が乳白色に染まる頃、馬車はようやく山あいの隘路を抜けた。

車輪が石を踏むたび、座席の下から低い軋みが伝わる。一晩中走り通した馬の鼻息は荒く、御者台で兵が手綱を握り直す気配がした。私は袖口で目元を拭い、車窓の鎧戸を押し開けた。

冷たい朝霧が、頬を刺すように流れ込む。

「お嬢様、ご覧くださいまし」

向かいの席で、マルタが祈祷書を膝に伏せた。皺の刻まれた指先が、震えながら窓の外を指す。

霧の切れ間に、灰色の屋根が見えた。低い石垣に囲まれた集落。煙突から細い煙が一筋、空へ昇っている。その奥、なだらかな斜面に黒々と口を開けているのが、エーデルハイト鉱山——かつて王国一の銀鉱を産した、私の領地の心臓だった。

「……ずいぶん、静かね」

私は呟いた。この時刻なら、坑口へ向かう坑夫の隊列が街道を埋めていてもおかしくない。十年前、父に連れられて視察に来た折は、夜明け前から松明の列が斜面を這い上がっていた。今は、その光が一つもない。

「五年前から、出が悪くなったと聞いております。三年前にはついに、坑夫の半分を解雇せざるを得なかったとか」

「父上は、何ひとつ仰らなかったわ」

「お嬢様のご縁談に、影を落とすまいと」

口の中で、苦い笑いが転がった。私が王太子に追放された今、影どころか、領地そのものが日陰へ落ちたわけだ。

馬車が緩やかな下りに入る。遠く、村の入口で人影が一つ、こちらを見上げて立ち尽くしているのが見えた。鍬を手にした老人だった。馬車の紋章を認めた瞬間、彼はその場に膝をついた。

挨拶ではない。崩れ落ちたのだ。

私は扇を握り直した。骨が、軋んだ。

村の広場で、馬車は停まった。

家令のフリッツが、息を切らして駆けつけてきた。白髪混じりの巻き毛、縁の擦り切れた燕尾服。礼の角度は完璧だったが、靴底が泥で固まっているのが見えた。

「ご無事のご到着、衷心より——」

「フリッツ。挨拶は後でかまわない。村の様子を見たいの」

「は、しかし、お嬢様。長旅でお疲れの——」

「歩けるうちに歩くわ」

私は手袋を外し、御者の手を借りずに馬車を降りた。靴底に、痩せた土の感触が伝わる。足元の轍には、雨水が泥のまま溜まっていた。

広場に集まった領民は、二十人ほどだった。女が多い。男たちは坑山か畑かに出払っているはずだが、その畑も、見渡す限り耕作の跡が薄い。皆、こけた頬で私を見上げ、それから慌てて目を伏せる。一人の幼子が、母親の裾をつかんだまま、私の銀の刺繍を不思議そうに見つめていた。

「フリッツ。坑山の出が悪くなったと聞いたわ。鉱脈が枯れたの?」

「……はい。三年前から、銀の含有が極端に下がりまして。今では、鉛と方鉛鉱が僅かに出る程度で」

「鉱脈図を見せてくれる? 曾祖父の代に作成したもの。書庫にあるはずよ」

家令の目が、丸くなった。礼法に則した驚き方ではない、心からの当惑だった。マルタが背後から、控えめに咳払いをした。私は構わず続けた。

「それから、領内の魔法師の名簿。生存者だけで構わない。あと、過去十年の魔物出没記録」

「お嬢様……あの、何を、お始めになる御つもりで」

「研究よ」

私は袖口を直し、フリッツの目を真っ直ぐに見た。

「公爵令嬢としての私は、王都に置いてきたわ。これからエーデルハイトに在るのは、魔法研究者シャルロット。鉱脈を調べ、瘴気を測り、書庫の禁書を一冊残らず開ける。あなたには、その協力をお願いしたい」

家令の喉が、ごくりと動いた。彼の視線がマルタに流れる。マルタは、ただ静かに首を縦に振った。

「……承知いたしました。書庫の鍵は、本日中にお渡しいたします」

「ありがとう」

私が頷くと、広場の隅で、痩せた女が小さく声を上げた。

「お嬢様。あの——お屋敷に戻られても、夜はお出ましにならないでくださいまし」

「どうして」

「月のないころは、特に危のうございます」

女は私の方を見ず、地面を見たまま続けた。

「ひと月前、東の村で、若いもんが二人さらわれました。骨も、見つからんとです」

広場が、しんと静まり返った。鍬を立てかけていた老人が、無言で頷く。幼子の母親が、子を抱きしめる手に力を込めた。

私は腰の触媒を、袖の上から押さえた。冷たい水晶の感触が、布越しに指先へ伝わる。それから昨夜、街道の終わりで聞いた遠吠えが、耳の奥で蘇った。あれは野犬の声ではなかった。

「魔物ね」

「……はい。国境の向こうから、年々、数が」

フリッツが声を絞り出すように補足した。

「王軍の駐屯隊は、二年前に引き上げられました。以後、領兵だけで対応しておりますが、もう、限界に近うございます」

私は深く息を吸い込んだ。痩せた土の匂いと、煮炊きの煙と、人の汗の匂い。それから、その奥に、ほんの僅かに、鉄錆のような臭気が混じっている。瘴気の残滓だ。書物で読んだ通りの、舌に苦い匂い。

——王家は、ここを見殺しにする気だ。

理解した瞬間、胸の奥の冷たい点が、また一度脈を打った。今度は、はっきりと、飢えたように。

領主館は、村から馬で半刻ほど登った丘の上にあった。

古い石造りの三階建て。蔦が壁の半ばまで這い、北側の塔は屋根の一部が崩れていた。父が王都の屋敷に手をかける一方、こちらの修繕費を切り詰めていたのは知っていたが、想像より荒れていた。

それでも玄関広間に踏み入った瞬間、私はかすかに頬を緩めた。

正面の壁に、古びた家紋——鴉と剣を組み合わせたエーデルハイトの紋章——が、磨き込まれて掛かっていた。床のタイルには塵一つない。少ない使用人たちが、限られた手で、誇りを守ってきたのだとわかった。

「ようこそ、お帰りなさいませ」

整列した使用人は、合わせて七人。最年長の家政婦が、震える声で挨拶した。私は一人ひとりの目を見て、頷いた。

「迎えてくれてありがとう。これから、世話をかけることになるわ」

それから、フリッツに向き直った。

「書庫へ案内して」

「お召し替えが先では——」

「最初に、と言ったでしょう」

家令は、小さく息を吐いた。今度は、当惑ではなく、降参の息だった。

地下書庫の鍵は、重い鉄製で、鍵穴に差し込むと低く軋んだ音を立てた。扉が開く。冷えた空気が、紙の埃と古い革と、それから——微かに、墨の匂いを運んできた。

蝋燭を掲げ、私は階段を下りた。

書架は天井まで届き、暗がりに沈んでいる。ざっと見渡しただけで、千冊は下らない。背表紙の金箔が、ところどころ剥げ落ちて鈍く光っていた。父も祖父も、ここへは滅多に下りなかったと聞く。「公爵家にふさわしからぬ書物が混じっている」と。

私は、最寄りの書架へ歩み寄った。指先で背表紙をひとつ撫でる。皮の感触が、ひんやりと指紋に貼り付く。

『辺境呪詛史』『瘴気構造試論』『失われし第七属性に関する考察』

——失われし第七属性。

その背表紙の前で、指が止まった。喉が、自分の意思とは無関係に動いた。胸の奥の冷たい点が、肋骨の内側で、小さく震えた気がした。

「お嬢様」

階段の上から、フリッツの声が降りてくる。

「ただ今、村より報せが入りましてございます。東の国境にて、また、遠吠えが」

私は本に伸ばしかけた手を、ゆっくりと下ろした。

「方角は」

「東の国境、第三の鐘の刻ほど前から、断続的に」

蝋燭の炎が、地下の冷気に揺れた。書架の影が、私の足元を黒く撫でる。その影は、私が動いていないのに、ほんの少しだけ、こちらへ伸びてきたように見えた。

階段を上り、私は北の物見台へと向かった。

崩れかけた石壁の隙間から、夜気が頬を撫でる。眼下には、村の灯がぽつぽつと、申し訳程度に瞬いていた。その向こう、黒々と続く森の彼方——国境の山並みの稜線が、月のない闇に沈んでいる。

風が、止んだ。

その一瞬の静寂を縫って、低い声が響いた。

ひと声。ふた声。みつの声が重なり、夜の底で、長く尾を引く。

獣ではない。少なくとも、私の知るどんな獣の喉からも、あの音は出ない。

マルタが背後で、祈祷書を握りしめる音がした。フリッツが言葉を失ったように立ち尽くしている。

私は石壁に手を置き、遠吠えの方角を見据えた。袖の中の触媒が、わずかに熱を帯びる。同時に、胸の奥の冷たい点が、応えるように脈を打った——飢えたものが、飢えたものへ、呼びかけるように。

「フリッツ。明日の朝、領兵全員と話すわ」

声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

「炎魔法では、おそらく足りない。別の手立てを、私が用意する」

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