第1話
第1話
「——シャルロット・フォン・エーデルハイト。貴様との婚約を、此処に破棄する」
王太子レオンハルトの声は、水晶灯の光を裂くように広間へ響いた。
私は扇を閉じ、静かに顔を上げた。金糸の刺繍を施した夜会服の裾が、磨き抜かれた大理石を撫でる。視界の端で楽師が弓を止め、旋律が途切れる。その隙間に、数百の瞳が一斉に私へ注がれるのを感じた。
「罪状は、そこなる男爵令嬢マリーを虐げたこと。公爵令嬢たる身でありながら、使用人に命じて彼女の私物を焼き、夜会の階段から突き落とした」
殿下の隣で、薄紅の髪の少女が目を伏せ、頬を紅潮させていた。
身に覚えはない。私は魔法書の頁を繰るのに忙しく、男爵令嬢の私物がどこに置かれていたかさえ知らない。けれど此処で抗弁しても、用意された筋書きは変わるまい。扇を握り直し、私は唇の端だけを持ち上げた。
「殿下。そのご判断、たしかに承りました」
「申し開きはせぬのか」
「事実無根であると述べれば、殿下はお聞き届けくださいますか」
レオンハルトの蒼い瞳が、僅かに揺れた。答えはない。それが答えだった。
「ならば、承るのみです」
広間に、ざわめきが波のように広がる。あの氷のような公爵令嬢が、反論もせず跪きもしない。期待された醜態は、どこにも存在しなかった。
「貴様は本日より王都追放。エーデルハイト領に蟄居せよ。王家への復帰は、二度と許さぬ」
礼をした。完璧な角度で、かつて礼法師範が「貴女は教え子の中で最も冷淡だ」と苦笑した角度で。
扇の陰で、私は小さく息を吐く。——やっと、自由になれる。十三の夏、初めて魔法書を開いた日の昂揚が、ふと胸の奥で蘇った。
◇
馬車の揺れは、夜会の拍手より遥かに心地よかった。
車窓の外、王都の灯が遠ざかっていく。輝く尖塔、蒼い屋根の貴族邸、そして私が生まれ育った公爵邸——過ぎ去る景色に、未練は呆れるほど薄かった。
「お嬢様……ほんに、よろしかったのでしょうか」
向かいの席で、老いた侍女のマルタが毛布の端を握りしめていた。皺の深い指先が小刻みに震えている。私は自分の膝掛けをそっと外し、彼女の肩にかけた。
「泣かないで、マルタ。私はまだ、何ひとつ負けていないわ」
「ですが、あのような……」
「あのような、は王家の台本よ。私は役者でなかっただけ」
マルタは唇を噛んだ。私は車窓の鎧戸を少し押し開ける。春の夜気が、香油の匂いに染まった髪を撫でた。涼やかで、正直な風だった。
思い返せば、私の人生は常に誰かの筋書きの上にあった。六歳で王太子の婚約者に選ばれ、七歳で礼法を叩き込まれ、十の年に社交界デビュー。笑顔の角度、扇の動かし方、挨拶の言葉——すべてが「公爵令嬢」という役のためだけにあった。
けれど十三の夏、父の書斎で一冊の魔法書を開いた瞬間、世界は別の色を持った。
『魔力は血液の如く巡り、詠唱は血管の如く方向を与える』
古代魔法師の記した一行に、私は雷に打たれた。社交界の綺羅びやかな装飾よりも、その簡潔で冷たい真理の方が、ずっと私の鼓動を速くした。それから私は、魔法書を抱えて地下書庫に通う娘となった。父は眉を顰めたが、止めはしなかった。「嫁ぐまでは」と条件をつけただけだ。
嫁がなくて済む。
私は、細く笑った。
「マルタ。エーデルハイト領の地下書庫には、曾祖父君の蔵書が残っていると聞いたことがあるの」
「……左様で、ございますが」
「禁書扱いで閉じられた魔法書も、相当数あるそうね」
マルタの肩が、微かに震えた。
「お嬢様。あの書庫は、開けてはならぬものが眠る場所と、先代様が——」
「だからこそ開けるのよ」
扇の縁で口元を隠す癖が、また出た。これは貴族の笑みではなく——研究者の笑みだ。
振り返れば、王太子の隣でマリーと名乗った少女の瞳も、不思議と澄んでいた。陥れる側の怯えではなく、信じきっている者の光。あの子は誰かに利用されているのだろう。誰に、何のために——そう考え始めた途端、ひとつの違和感が胸の底で疼いた。
私の魔法は、火属性の名家として申し分ない水準にあった。王立学院では首席、戦闘魔法では近衛を退けたこともある。そんな私を、派閥争いの一点だけで追放する必要があっただろうか。王家は私の「何か」を、他にも恐れたのではないか——。
馬車が大きく跳ねる。車輪が石畳を離れ、舗装の粗い街道に入ったのだと知れた。王都の結界を越えた合図だ。御者台の兵が、低く声を上げる。
「お嬢様、これより先は辺境領。護衛はここまでにございます」
王家の護衛は、国境までついてこない。野盗に襲われても魔物に食われても、王家は知らぬ存ぜぬで済ませる腹づもりということだ。
◇
街道は細く、月は薄かった。
二刻ほど馬車は進んだ。森の梢から梟の声が断続的に響く。マルタは毛布を肩にかけ直し、膝の上で祈祷書を繰っている。唇が小さく動くたび、古い紙の匂いが車内に漂った。
私は目を閉じ、指先の魔力を確かめた。
魔力循環は、血液の流れに似ている。心臓から送り出された熱いものが、肩を経て肘、手首、指先へと届く。その循環の順序を意識できるようになったのは、十五の頃だった。以来、詠唱が不発に終わったことは一度もない。けれど——今夜は、少し違う。
指先に集めた熱のその奥に、ほんの小さな、冷たい点があった。
いつもなら気付かない、微細な揺らぎ。黒く、無音で、けれど確かに「ある」もの。目を凝らせば凝らすほど、それは意識から逃げていく。幻聴に近い感覚だった。
「——マルタ」
「はい、お嬢様」
「母上は、闇属性の魔力を帯びていた、と聞いたことがある?」
祈祷書が止まった。マルタの視線が、ひどくゆっくりと私の方へ持ち上がる。皺に埋もれた瞳の奥に、一瞬だけ鋭いものが光った。
「……どこで、そのようなお話を」
「噂よ。社交界に出たばかりの頃、老婦人方の扇の陰で」
「お嬢様。それは、口にしてよい話ではございません」
「ええ。だからこうして、街道の真ん中で口にしているの」
マルタは頬を引き結び、沈黙の後、首を横に振った。
「……屋敷に戻られ、必要とあらば。それまでは、どうかお胸の内に」
答えを得たようなものだった。私は頷き、扇の代わりに袖口を直した。車窓の外、森の闇はますます深い。しかし胸の内は、奇妙なほど静かだった。
馬車の揺れに身を任せながら、私は小さな誓いを編み上げる。
——エーデルハイト領に戻ったら、地下書庫を開けよう。先祖が残した禁書を一冊ずつ解いていこう。枯れた鉱山を、魔物の瘴気を、そして私自身の血を、研究対象として見据えよう。
貴族の令嬢ではなく、魔法研究者として。
「マルタ。着いたら、まず書庫の鍵をいただくわ」
「……最初にですか」
「最初に、よ。屋敷の掃除より、晩餐の献立より、何よりも早く」
老侍女の唇が、微かに震えた。震えを押し殺して、彼女は深く首を垂れた。
「仰せのままに、お嬢様」
私は車窓を少し開けた。春の夜気が流れ込み、車内の蝋燭の炎を揺らす。同時に、遠く——街道の進行方向から、低い声が響いた。獣の遠吠えにも、風の軋みにも聞こえる、尾の長い音。
マルタが頭巾の縁を握りしめた。
「お嬢様。あれは——」
「大丈夫。まだ遠いわ」
まだ遠い。けれど、確実に近づいている何か。胸の奥の冷たい点が、そこへ向けて、微かに一度だけ脈を打った。
◇
馬車が再び夜闇の中を進む。
車窓を半ば閉じ、私は袖の水晶触媒に触れた。月光に照らされた刃のように、冷たく澄んでいる。
──王家が恐れたのは、本当に派閥争いだったのだろうか。
夜会で婚約破棄を告げた王太子の、一瞬だけ揺れた瞳。あの奥にあったのは、怒りではなく、怯えに近い色ではなかったか。私の何を。家柄か、炎の魔法か、それとも——私自身さえ知らぬ、もっと別の何かを。
胸の奥の冷たい点が、今夜二度目の脈を打った。黒く、無音で、飢えている。
私はそれに、そっと問いかけた。
あなたは、何。
答えは返らず、代わりに遠吠えが、また一つ、尾を引いて響く。エーデルハイト領は、もうすぐそこだ。