第2話
第2話
遠くの焔から目を離さないまま、私は燭台を一段、低く下げさせた。
窓硝子に映る自分の顔が、暗闇の中に浮かび上がる。碧の瞳の奥、首飾りの翠石から漏れる微かな光が、肋骨の内側を温めていた。温めるのではなく、芽吹かせていく、と言うほうが正しい気がした。芽の先端が、心の臓の近くで小さく弾け、そこから細い根が、私の背骨の一本一本に絡みついていく。痛みではない。痛みの前触れでもない。ただ、これまで私の内側に在ったはずのない回路が、いま、何者かの指で順に引き起こされていくような、覚束ない確かさだった。
「お嬢様、お声が震えておいでです」
ノエルの指が、まだ私の袖を離さない。細い指だ。病み上がりの熱がまだ皮膚の表面に残っていて、絹越しにさえ、その火照りが私の腕へ伝わった。
「寒いのよ。それだけ」
嘘だった。寒いのは空気ではなく、骨の内側に灯った熱が、皮膚の表面を逆に冷やすからだ。自分の身体がふたつに割れていく、そんな錯覚がした。老いた執事ハインツが掲げる灯火の炎が、廊下の闇に長い影を投げる。影は、私のドレスの裾から伸び、石床の継ぎ目を越え、タペストリーに織られた古い家紋を横切って、曾祖母の肖像画の足元で途切れた。
「あの赤は、まだ村まで距離がございます」ハインツは言った。声は低く、けれど、語尾だけが、かすかに掠れていた。「北の森縁り、ガルムの巣のあたりかと」
「ガルム」
「雪狼の群れ首にございます。秋口から飢えておれば、迷わず領境を越えてまいる類」
私は硝子の向こうへ指を滑らせた。冷気が、指先の血を吸い上げていく。かつて家庭教師に叩き込まれた魔導学の章――「北方大型魔獣の襲来は、季節性に非ず」。その頁の右下、鴉の頭を持つ雪狼の挿絵が、いま瞼の裏で目を覚ます。黒い羽毛と白い毛皮の境目に、赤い絵具で描かれた細い舌。幼い私はその舌を指で撫で、教師に叱られた。その記憶の手触りが、いま、硝子の冷たさと重なる。
「ハインツ、城の常駐兵は何人」
「……六人で、ございます」
「年齢は」
「最若年が四十三歳にて」
返す言葉を、私は呑み込んだ。代わりに、ドレスの腰帯を一段、きつく締め直した。絹の下で、臍の横の皮が一瞬、赤く噛まれた。息を吸う。吸った息の先端が、咽頭のどこかで凍り、胸の底へ冷たい水のように落ちていく。それでも、手は震えなかった。震えるのは、声だけで、いい。
*
薪倉庫は、棚板の半分が崩れていた。
私はランタンを掲げ、残った薪を一束ずつ数えた。湿って黒ずんだ白樺が三十束、乾いた楢が二十に満たない。この冷えでは、城中の暖炉をひと晩点すにも足りぬ量だ。鼻腔の奥に、黴と苔の匂いが絡みつく。倉庫の奥、崩れた棚の下で、何かの小動物が身を固くして息を潜めているのが、気配で分かった。
「城の蓄えは、これで全てか」
ハインツが頭を垂れる。白い髭の先が、ランタンの光を受けて、細い銀の糸のように揺れた。
「冬を前に、公爵家より補給の書類は届きましたが……荷は、まだ」
――届くはずがない。父はそういう人だ。書類だけを寄越し、中身を忘れることで、忘れた自分すら忘れる人だ。
私は倉庫の扉を閉め、裏口から村へ続く雪の路へ足を踏み出した。ノエルは病の身体で拒む力もなく、膝掛けを被ったまま後ろをついてくる。狭い石階段を下り、家畜小屋の脇を抜けると、藁葺きの屋根が半ば雪に埋もれた集落が、ランタンの黄に浮かび上がった。屋根の雪の上に、煤けた煙突の影が一本ずつ落ち、その一本一本が、いま、この村に残された命の数なのだと、私はふと思った。
路地は、思ったよりも狭かった。戸口のひとつが、わずかに開いた。老いた男が細い目でこちらを覗き、すぐに閂を掛け直す音がした。ふたつめの家では、母親らしき女が幼児の口を手で塞いだ。三つめの窓では、白髪の女が私に向けて、指を三度、十字のように切ってみせた。
――冷血の令嬢が、夜更けに何をしに来た。
その囁きは、木戸の隙間を抜けて風に溶け、また風に戻って私の耳に届く。私は歩みを止めなかった。鼻の奥で、凍った土と家畜の糞の匂いが混ざる。先刻の晩餐で噛んだ硬いパンの苦みが、まだ舌の根に残っていた。その苦みは、いま、奇妙な味方に思えた。華美な甘さを舌に残したまま、ここへ来ることはできなかっただろう。
広場の中央、井戸の石囲みの前で、ようやく一人、逃げずに残った者があった。昼間、私のマントを掛けた少女リータの、母親だった。
「……お嬢様。こんな刻限に」
女の声は、疲労というより、諦めの色に近かった。息が白く、その白さが、頬の皺の深さを一瞬だけ、影で縁取った。
「ガルムは、何頭で来ている」
女の肩が跳ねた。
「ご存じで」
「鳴き声で、大型の群れだと分かる。何頭」
「……十三頭は、見たと、狩人が」
「前回、この村は何を失った」
女は口を閉じた。黒く乾いた血が、その唇の端に引いたままの線となって走っていた。その線が、一度、微かに開き、そしてまた閉じた。
「父は」女は小さく言った。「三年前。弟は二年前。牛は去年。残っておりますのは、娘と、夫と、家畜小屋の山羊が二頭」
「――そう」
私は井戸の縁に指をかけた。石は凍って、指の腹の皮を薄く噛む。血の代わりに、私の骨の内側の熱が、一滴、そこへ滲み出した気がした。
「この井戸は、どこまで涸れている」
「底まで、ほぼ」
「薪は」
「最後の一束を、今朝」
女の返事が終わらぬうちに、北の空で、雪が音を立てた。
*
雪が音を立てる――そんな表現が在り得るのかと、貴族令嬢教育を受けてきた私は最初、訝しんだ。けれど、確かに耳の奥まで届いた。風が雪原の薄皮のような夜気を押し下げ、その下で何か巨きいものが、一歩、踏んだのだ。雪の下の凍土が、その重みで、鈍い呻きを返した。
続いて二歩、三歩。リズムが、増える。一頭ではない。二頭でも、三頭でもない。足音と足音のあいだに、別の足音が差し込まれ、さらに別の足音が、そのまた隙間に噛み合う。森の奥で、何十という脚が、雪を踏む順番を、静かに打ち合わせていた。
「ノエル」私は振り返らずに言った。「広場の鐘を。打ち続けなさい」
「お、お嬢様、鐘は、城の物音に人を寄せるだけで――」
「だから、寄せるの」
私はリータの母の腕を掴んだ。骨の形が、冬の薄着の上からくっきりと伝わった。肩の関節の丸み、肘の尖り、手首の細さ。飢えと、失うことの繰り返しが、この女の腕から余分な肉を削ぎ落としたのだと、手のひらが先に理解した。
「家に帰って、家族と、山羊と、隣の二軒を井戸の前に集めなさい。子は母の胸、老は井戸の内側、男は外側。石と薪を高く積んで、松明を」
女は目を見開いたまま、頷くことも拒むこともできずにいる。
「これは命令よ」
私の声は低く、広場の石に返った。反響は、思ったよりも、遠くまで、素直に届いた。
「辺境を預かったのは、私。あなたがたの命を死なせないのは、今夜、私の責務」
――冷血の令嬢が、命令を下した。 ――自分の毛皮を脱いだ娘が、石を積めと。
女の瞳が、奥まで一度、揺れた。瞳の中で、何か長いあいだ凍っていたものが、薄く、ひび割れた音を立てた気がした。それから、踵を返して走った。雪を跳ね上げる小さな足音が隣家の戸口を叩く音に繋がり、次の戸口へ、また次の戸口へ移っていく。戸の向こうで、怒鳴り声と、子の泣き声と、鍋を床に置く音が、次々に起こった。
胸元で、翠の石が脈を打っていた。速く、確かに。私はドレスの襟を掴み、手首を石に当てた。骨の内側の熱が、翠を通して掌へ流れ、指先まで届く。魔力の流れ――家庭教師の古い教本に記された最初の章の一節が、いま、私の血で書き直されていく感覚があった。頁の余白に、震える筆致で、誰かが新しい注釈を書き込んでいく。その筆を握っているのは、きっと、私だ。
「お嬢様」ノエルが鐘楼の縄を掴んだまま、震える声を上げた。「いらっしゃる前に、もう、魔物は」
私は首を振った。
「手順を、組み替えるの」
「手順を」
「脚本通りには、死なない。それだけ」
*
鐘が、一打目を鳴らした。
音は石壁に跳ね返り、屋根に積もった雪を薄く震わせ、雪原の闇の向こうへ走っていった。私は井戸の縁から雪路へ戻り、村の出口――凍った街道の真ん中に、立った。踵の下で、氷が小さく鳴いた。
闇の奥に、赤い点が、四つ、六つ、増えていた。 それは焔ではなく、燃えるような双眸だった。
蹄ではない、重い肉球の音が、雪を搔き分けて近づく。先頭の影が、月のない空の下で、白い息を長く吐いた。息は霧となり、霧は雪原に這って広がり、私のヒールの先まで届いた。霧の中に、獣の体臭と、鉄錆に似た匂いと、凍った血の甘さが、層をなして重なっていた。
――問いが、骨の内側で、一度だけ、脈を鳴らした。 この力を、私は、誰のために。
背後で、鐘の二打目が鳴った。三打目が続いた。戸口という戸口が開き、松明の火が、ひとつ、ふたつ、みっつと、広場へ集い始めた気配があった。振り返らなくても、わかった。あの女の瞳で割れた氷が、いま、隣家の瞳でも、その隣家の瞳でも、順に、割れている。
私はドレスの胸元に指を差し込み、首飾りの翠石を、握った。
石は、灼けていた。