第3話
第3話
翠の石が、掌を灼く。
灼熱という言葉では足りなかった。鍛冶場の炉に指を突き込んだほうが、まだ温度の見当がつく。石は、温度のかわりに「意志」を私の掌に押し付けてきた。目覚めよ、と。あるいは――開けよ、と。掌の皮膚の下で、無数の細い針が一斉に逆立つような感覚があった。痛みではない。痛みであれば、私はもっと冷静でいられた。それは、私の骨と血のひとつひとつに、見覚えのない名前を呼ばれているような、奇妙な親しさを伴う灼け方だった。
雪を踏む肉球の音が、街道の両脇から回り込んでくる。一頭、二頭では、もうなかった。先頭のガルムが、脚を止めた。夜気に長く伸びる白い息の向こうで、双眸が私を値踏みしている。赤ではなかった。赤の底に、沈んだ金が差している色だった。雪狼の群れ首は、私が毛皮のマントを脱いだ娘であることを、あるいは、首飾りに何が宿っているかを、獣の直感で嗅ぎ分けたのかもしれない。獣の毛並みからは、雪解けの土と、古い血と、それから焚き火の煤に似た、奇妙な甘さが匂った。あれは何頭、何十頭の小動物を喰らってきた匂いだろう、と頭の片隅で私は考えていた。
背後で、鐘の四打目が鳴った。
「お嬢様……っ」
ノエルの声が、風に薄く千切れて届く。私は振り返らずに、片手を背中へ回した。下がっていろ、の合図だ。絹手袋の指先が、凍った空気を一度だけ掻く。
家庭教師の古い教本を、瞼の裏に呼び戻す。第三階梯、静性防壁。第四階梯、凍結結縛。第五階梯――そこから先は「公爵令嬢の教養にあらず」と赤い筆で朱線が引かれていた。いま、私の指先で目覚めようとしているのは、その朱線の、向こう側にある何かだった。
先頭のガルムが、喉の奥で低く唸った。音は地を這って、ヒールの下から膝裏へ昇り、骨の継ぎ目を一つずつ検めていく。吸った息が、胸の内側で翠の脈動と噛み合い、一度、心臓を掴み直した。指先が痺れるほど冷えているのに、掌の中央だけが、燠火を握り込んだように熱い。その温度差が、私の身体の輪郭を、いつもより、奇妙に明瞭にしていた。
私は魔導書の最初の章から、順に呼び出すことにした。冷血の令嬢は、脚本通りには、死なない。それだけは、もう、決めてある。
*
「来なさい」
声は、自分のものではないように低かった。喉の奥に、見知らぬ女が一人、座って囁いているような響きだった。
第三階梯。掌を地面へ向け、指の内側で魔力の糸を編む。街道の両脇、雪面の薄皮の下で、凍土が応えた。透明な壁が、爪先から三歩先で立ち上がる。目には見えぬが、白い霧の流れがそこで不自然に折れた。先頭のガルムが一歩踏み込み――弾かれて、後脚から崩れる。
悲鳴に似た咆哮が、夜を裂いた。二頭目が仲間を踏み越え、壁へ頭から突っ込む。壁は軋んだ。奥歯も、同じ音で軋んだ。教本の章は、貴族の庭園で一匹の猟犬を止めるために編まれたものだ。十三頭の飢えた群れを止めるには、そもそも設計が違う。指先で編んだ糸は、手繰るそばからほどけ、ほどけたそばから編み直さねばならなかった。額に、汗が浮く。冬の夜に、汗。それが頬を伝う前に、まつ毛で凍る感触があった。
三頭目が壁を迂回した。畑の畝を跳ね、雪を噴き上げながら、広場の方角へ駆ける。
「――ノエル、井戸の内側へ下がれっ」
振り向きざまに叫ぶ。松明を振り上げた村の男たちが、農具を構え直す。山羊の鳴き声、子の短い悲鳴、それを母の掌が半分に折る音。鋤の刃が松明の橙を撥ね返し、誰かが歯の根を噛み合わせる音まで、なぜか、はっきりと耳に届いた。
踵を返しながら、第四階梯を重ねた。畑を横切った三頭目の四肢に、湿気が氷の鎖となって絡む。獣は雪に沈み、牙を剝いた。残り十頭が、壁の外側を蛇のように回り込みはじめていた。
数が、合わない。
「アリシア様、魔力は水と同じ。器を超えた水は、器を割ります」。家庭教師の声が、蘇る。銀の水差しから溢れた水が大理石の床で跳ねた、あの日の粒の散り方を、指はまだ覚えていた。いま、私の器がどれほどの水を湛えられるのか、私自身、知らない。知らないまま、汲み続けるしかない。汲み上げるたびに、胸の奥でなにかが軋み、軋みながらも、もう一段、深い井戸の在処を私に教えていた。
四頭目が、横から飛んだ。牙の曲線が、ランタンの光を切り裂いて、肩先へ届く――その寸前、ノエルの薄い身体が、私と獣のあいだへ割って入った。
「ノエルッ」
彼女が掲げたのは、城の旧い銀の燭台。病人の細腕がそれを獣の眼に叩き込んだ。銀が瞳を焼き、咆哮が鼓膜を殴る。ノエルの膝が、雪に沈んだ。肩から袖の縫い目が裂け、赤が滲む。
「……お嬢様」
擦れた声が、微笑んでいた。
「私、役に、立てました、か」
胸元で、翠の石が、破裂するように脈を鳴らした。その瞬間、骨の内側の熱が、背骨に沿って一気に駆け上がる。
*
ノエルの血の匂いが、鼻腔の奥で、何かを開いた。
それは、鉄錆の匂いというよりも、私の中にある古い扉の、錆び付いた蝶番の匂いに近かった。蝶番が、軋んで、開いた。
胸骨の裏、ちょうど心臓の位置――そこで、見知らぬ紋章が内側から皮膚を押し上げて灼け上がった。黒い線が、肋骨の隙間を辿って背中まで走る。ドレスの襟ぐりから、紋章の尖端がわずかに覗く。月光でもランタンでもない、漆黒の、けれど確かに発光している線だった。線の一筋一筋が、私自身の鼓動と、ほんのわずかにずれた律動で、脈を打っていた。
視界の縁が、墨を落としたように暗くなった。音が、一瞬、遠ざかった。そして、奇妙なことに、恐怖が消えた。
――この力を、私は、誰のために使うのか。
馬車の中で零し、井戸の前で噛みしめた、あの問い。いま、逆向きに私へ返ってきた。問うているのは、私ではない。私の内側で目覚めた「誰か」が、問うているのだ。答えろ、と。答えなければ、この力は私を呑む、と。
「ノエルの、ために」
唇が動いた。吐いた息は、出る先から、黒く燃えた。
第五階梯の、さらに先。朱線の向こう側。教本が拒んだ章。
雪路の上で、両の掌を合わせる。隙間から、漆黒の焔が、細い糸となって、ひとすじ昇った。炎ではなかった。色は黒、けれど輪郭の縁だけが、翠の脈を持っていた。祖母の首飾りと、同じ色。
「リータの、ために」 昼間、マントを掛けた少女の、紫に近い爪の色が、瞼の裏を過ぎる。 「この村の、家族の、井戸の底の、涸れた水の」
焔は、唱えるたびに太くなった。細い糸が束になり、束が縄になり、縄が柱になる。背後で、女たちが息を呑む音が、一つ、また一つ、重なった。誰かが「聖女様」と呟き、別の誰かが「違う、あれは」と言い直した。言い直して、続きを、誰も、言えなかった。
十頭のガルムが、一斉に壁を跳ねた。透明な第三階梯の防壁は、獣の重みに耐えかねて、細い硝子の鳴る音を立てて砕ける。
私は、掌を、開いた。
漆黒の焔が、雪原を、薙いだ。
音はなかった。雪が蒸発するときの白い悲鳴すら、なかった。ただ、街道の両脇に押し寄せていた十頭分の影が、黒い波の通った後、静かに、消えた。毛皮も、骨も、赤い双眸も、焦げた匂いさえ残さなかった。雪原に、黒く細長い一条の焼き跡だけが、月のかわりに光っていた。
焔は、人を避けた。女たちにも、井戸の中の老人たちにも、畑に伏せた子どもにも、指一本触れなかった。ノエルの血の滲む肩も、黒い舌は、撫でなかった。まるで、誰を焼き、誰を焼いてはならぬかを、私よりも、その焔のほうが、よく弁えているかのようだった。
掌の焔が、静かに萎んでいく。私は、膝から、雪へ崩れた。
*
絹のドレスを通して、雪の冷たさが、膝蓋骨に噛みついた。
遠く、鐘が、鳴り止んだ。村人たちの松明の明かりが、広場の方角で、凍ったまま動かない。誰も、近寄って来なかった。助けに来るのでも、怯えて逃げるのでもなく、ただ、言葉を失った生き物の群れのように、そこに立っていた。
ノエルが、雪を這って、傍らに来た。病の薄い肩が、自分の裂けた袖よりも、私の胸元の紋章を見つめていた。瞳の奥で、私の知らない色が、静かに、けれど確かに、揺れている。憐れみでも、恐れでもない色。
「お嬢様」
ノエルの声は、擦れていた。
「――お話、しても、よろしいでしょうか。あなた様の、御身に、流れている血のことを」
祖母の首飾りの翠石は、焔を吐ききって、ただの冷たい石に戻っていた。胸骨の裏、灼けた紋章の線だけが、皮膚の下で、まだ微かに、脈を打っている。
血の意味を、私が初めて知る夜になるのだと――擦れた侍女の声の、その薄い震えが、先に、教えていた。