第2話
第2話
辺境伯ジルヴェスターは、私の問いを受けて、ほんのわずかに目を伏せた。
「——ここでは、些か、人目が多うございます」
紫紺の瞳が、広間の中央を泳ぐ淑女たちの薄絹をかすめ、再び私の足元へと戻った。低く抑えられたその声には、驚くほどの自制が含まれていた。声を高めればたちまち十数の扇がこちらを向くであろうことを、この御方は誰よりも心得ていらっしゃる、と感じた。
「では、回廊へ」
私はそう答え、扇の先で広間の脇、円柱の連なる薄暗い回廊を指した。捨てられた令嬢が初対面の異国の貴人と二人で広間を抜けてゆく——その光景がさらに新たな噂の薪となるであろうことは、もはや恐れる気にもなれなかった。
絨毯から大理石の冷たさへ、足の裏の感触が変わる。回廊の燭台は広間に比べれば数も乏しく、揺れる炎の輪が私たちの足元に縞を引いていた。背後では奏楽が遠ざかり、代わりに、自分自身の胸の鼓動だけが、不躾なほど確かに耳の奥を打ち始めた。
「失礼ながら、今一度、お確かめいたしたく」
立ち止まった辺境伯は、片膝こそ折らぬものの、深く頭を下げた。
「そのドレスの裾、銀糸に紛れた一羽の小鳥の紋章——どちらでお求めになりましたか」
「……婚約者であった御方より、贈られたものでございます」
声は低く保てた。「であった」と過去形で口にする際の、喉の浅いひりつきには、自分でも気づかぬふりをした。
「贈り主の御名を、お聞きしてもよろしゅうございますか」
「アッシュリード公爵家、エドガー・アッシュリード卿でございます」
辺境伯の瞳が、ほんの一刹那、揺れた。
「——左様で、ございましたか」
その「左様で」の、間合い。私は気づかぬふりを致しかねた。
回廊の柱と柱の間から、ふと夜風が忍び込んだ。広間の暖気を一息に拭うような、北の冷気を含んだ風だった。蝋燭の炎が一斉に身を捩り、私の純白の裾がほのかに翻った。銀糸の刺繍の隙間から、確かに、翼を広げた一羽の小鳥が、燭の光を受けて鈍く瞬いた。
「クレスフィール嬢」
辺境伯は、再び裾の紋章へ視線を落とした。紫紺のはずの瞳が、燭火を映してそこだけ、ふいに古い葡萄酒のような深みを湛えた。
「これは、エルツヴァインと申しました小さな国の、王家の花嫁衣装の意匠でございます。十年前、北の戦乱に巻き込まれて地上より姿を消した、国の」
エルツヴァイン。
私は心の中で、その響きを一度、丁寧に転がした。聞き覚えはなかった。否——あるいは、幼い頃に乳母が口ずさんでいた古い子守歌のひとつに、似た国名が紛れていたような気もした。けれど、その確証は、霧の中の灯のように頼りなかった。
「十年前、と仰せでございますか」
「左様にございます」
「それが、どうして、私の身の上に……?」
私は静かに問うた。声を荒げる気はなかった。胸の内には、突きつけられた事実を一つひとつ、針箱に針を仕舞うように整える作業が要った。
「エルツヴァインの花嫁衣装は、王家の血筋に連なる姫君のためにのみ、縫われるものでございました。意匠は門外不出、一着を仕立てるに十二人の縫い手が三月を要したと伝わります」
辺境伯の言葉は、低く、淡々と紡がれた。語尾の一つ一つが儀礼の章句を読み上げるかのように整っていた。それゆえ余計に、内容の重さが、私の胸の底に静かに沈んでいった。
「亡国の花嫁衣装が、いかなる経緯にて、十年の時を越え、我が国の公爵家の手に渡ったのか。——それを存じ上げたく、私はこの十年、追ってまいりました」
(……十年)
私は唇を噛みかけて、辛うじて止めた。爪の先を、扇の柄に深く食い込ませた。骨が軋む小さな音が、自分の指の内側で響いた。
婚約破棄を告げられたあの夜、私が纏っていたのは、まさにこのドレスである。エドガー公爵が「本日の夜会にお召しくださいませ」と添え書きを付して贈ってきた、純白の一着。あの夜、私はこれを纏ったまま広間の真ん中で「力不足」と告げられ、衆目の中で旧姓に戻された。そして——返却を、求められなかった。
返却を求められなかった、ということは。 このドレスを、私の手元に残しておかねばならなかった、ということ。 あるいは——私の手元から、決して取り戻してはならなかった、ということ。
(……だからこそ、あの方は今夜、あれほどの蒼白を浮かべておられるのか)
「ラインフェルト卿」
私は、呼吸を一つ、深く整えた。
「卿は、このドレスをご覧になった瞬間に、エルツヴァインの意匠と見抜かれた。……ということは、卿のお手元には、その意匠を見極められる根拠が、確と御座いますのね」
辺境伯は、わずかに目を細めた。私の問いの行間に、何か、彼が予期していなかったものを認めたかのようであった。
「——ご明察に、ございます」
低く、けれど、確かな声であった。
そのとき、回廊の入口に、新たな足音が立った。
絹のすれる音、革靴の踵が大理石を打つ音、その後ろから慌てた廷臣の制する声。聞き慣れた——いや、聞き慣れていた、というべき足取りであった。
「マリエル」
呼び捨てに、私の名を呼ぶ声。
ゆるりと振り返れば、広間の燭光を背に、エドガー・アッシュリード公爵が立っていた。先ほどまで腕に絡めていた薔薇色の令嬢の姿はない。淡い金の髪は、急いで歩いてきたためか、ほつれが額に張りついていた。冴えた青の瞳は、しかし、私を見てはいなかった。私の隣に立つ黒衣の異国の貴人を、そして、その視線の落ちる先である私の裾の紋章を、凝視していた。
「——エドガー卿」
私は、扇を胸の前に立てた。
「いかがなさいまして。本日は薔薇色の御方をお連れでいらっしゃいましたでしょう。捨てられし旧き婚約者に、何ぞ御用向きが御座いますか」
声は、震えなかった。
公爵の唇がわずかに開き、何事かを言いかけて、閉じた。額の汗を拭うこともせず、青い瞳はただ、私の裾の銀糸に縫い込まれた小鳥を捉えて離さなかった。
その表情は、もはや、隠しようがなかった。
別離を惜しむ男の顔ではない。捨てた女の凛々しさに見惚れる男の顔でもない。これは——「あってはならぬ場所に、あってはならぬものを目にした」者の、顔である。
「……マリエル。そのドレスを、今夜のうちに、屋敷へ届けさせよ」
ようやく絞り出された声は、掠れていた。
「いかなる理由で、で御座いましょうか」
「理由は問うな。そなたが纏うべきものではない」
「左様で、ございますか」
私はゆっくりと扇を閉じ、その先で、自らの裾を軽く払った。銀糸の小鳥が、燭火を受けて、ひと翔ばたきの幻を見せた。
「——閣下。三ヶ月前、力不足と仰せ下さいましたあの夜、私はこのドレスを纏うてお側に立ちました。お手ずからお選び下さった一着でございますれば、捨てられし身が、せめて思い出として大切にいたしておりました次第。今夜お返しせよと仰せならば、せめて、しかるべき沙汰をもって、しかるべき手順を、踏まれませ」
声を高めはしなかった。けれど、回廊の冷気のせいか、自分の言葉が、思いのほか凛と響いて、私自身、わずかに驚いた。
エドガー公爵は、私の言葉を遮ろうとして、口を開きかけた。が、その視線が再び黒衣の辺境伯へと滑った瞬間、頬の筋肉が、明らかにこわばった。
「貴殿は——いずれの御方か」
公爵は、ようやく辺境伯へ顔を向けた。
辺境伯ジルヴェスターは、胸に手を当てた。所作は変わらず慎ましく、けれど、頭は深くは下げなかった。
「カルンフェルトが辺境伯、ジルヴェスター・フォン・ラインフェルトと申します。アッシュリード閣下に、お見知り置きを賜りとう存じます」
その名を聞いた瞬間、エドガー公爵の喉仏が、一度だけ、上下した。
「——失礼する」
絞り出されたその一言を最後に、公爵は踵を返した。一礼すらないまま、足早に広間へと戻っていく背中は、薄暗い回廊の燭光の中で、いくらか細く、疲れて見えた。
絹擦れの音が遠ざかり、再び、私と辺境伯だけが、柱の影に取り残された。
胸に立てた扇を、ゆるりと下ろす。指先が、自分でも驚くほど冷えていた。
「ラインフェルト卿」
私は、紫紺の瞳に向き直った。
「本日のことは、私の中で必ずや、しかるべき形に整えねばならぬと存じます。卿の十年と、私の三ヶ月。並べて見れば、私の側が、あまりに短こう御座いますれば」
辺境伯は、ほんの一瞬、目を瞠り——それから、ふっ、と口の端を緩めた。
「短くとも、嬢のものは、嬢のものに、ございます」
低く返されたその一言が、回廊の冷えた石壁に、思いのほか温かに沁みた。
私は、振り返らずに、馬車寄せへと続く渡り廊下へと歩み出した。背後で、エルツヴァインの花嫁衣装の裾が、夜風に小さく、けれど確かに、翼を広げた。