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純白の婚約破棄、亡国の花嫁衣装

第3話 第3話

第3話

第3話

渡り廊下の大理石は、広間の暖気を振り切るように冷ややかだった。夜空を切り取った丸窓から洩れる月光が、純白のドレスの裾を仄かに青く染めた。

辺境伯ラインフェルト卿は、私の半歩後ろに控え、馬車寄せへと続く通路を共に歩んでいた。絹擦れの音よりも、革靴の踵が石を踏む音の方が、よほど私の歩調を支えてくれた。広間から届く奏楽は、もはや遠い海鳴りのように朧に滲んでいた。

「——マリエル! 待て、マリエル!」

背後から、絹を裂くような声が追ってきた。

振り返るまでもなかった。先刻のエドガー卿の、婚約者として整えられたあの澄んだお声ではない。追い詰められた者の、羞恥と焦燥が滲む、掠れた呼び声であった。

私は歩を緩めた。無視するのではない。無視するには、あの方のお声が、あまりに見苦しゅう御座いました故。

渡り廊下の中ほどで、私は静かに振り返り、扇を胸の前に立てた。

淡い金の髪を乱し、公爵はこちらへ駆け寄ってきていた。冴えた青の瞳の周りには、うっすらと汗の玉が浮き、整えられていた襟元も、いまはわずかに歪んでいた。公爵家の当主として常に磨き上げていらしたあの体裁が、夜会の燭光の下で、静かに剥がれ落ちていた。普段、氷の彫像のごとく完璧であられたそのお姿が、今宵に限って、こうも容易く崩れて御座います事が、却って、私の胸の底に、冷えた疑念の滴を、一つ、落とした。

「——いかなる御用でいらっしゃいますか、エドガー卿」

私は、膝こそ折らなかった。捨てられた旧き婚約者としての、ぎりぎりの礼をそこに置いた。

公爵は、私の三歩前で立ち止まった。肩で息をつきながら、青い瞳は、私の顔ではなく、やはり裾の銀糸に縫い込まれた一羽の小鳥を、ただ凝視していた。凝視する、というよりも、魅入られていた、と申し上げた方が、よほど正確で御座いました。まるで、そこに縫い込まれた小鳥が、今まさに絹の地から抜け出して羽ばたこうとしているのを、必死に縫い止めようとなさるかのように。

「……そのドレスを、脱げ」

声は低く、命令の体裁こそ整えていた。けれど、語尾がわずかに震えていた。

私は、扇を握る指先に、ほんの少しだけ力を加えた。扇の骨が、乾いた音を立てて軋んだ。

「お聞き返しをお許し下さいませ。——なんと、仰せで御座いますか」

「脱げと申しておる。今、ここで。私が屋敷の者を呼び、すぐに替えの衣装を届けさせる。そなたは別室にて、この一着を私の者に渡せ」

「別室にて、此のドレスを、閣下の御家中の者に、御返しせよと」

「左様である」

「三ヶ月前、あの夜会の場で、私を『力不足』と御退け下さいました閣下が——ですか」

公爵の喉が、一度、上下した。言葉を探しておられた。けれども、お探しの言葉は、あの青い瞳の奥には、最早、一つも残っていないように見えた。唇がわずかに動いて、また結ばれる。その仕草を、私は、幼き日に幾度となく拝見して御座いました——お父上の書斎で、難問を前に言葉に詰まっておられた折の、あの癖で御座います。

渡り廊下の向こう、夜気の冷えた庭の方から、馬の鼻息と、鞍金の擦れる微かな音が届いた。私を待つ、クレスフィール家の馬車で御座いました。

「マリエル。頼む。——頼むから、そのドレスを、私に返してくれ」

その声に、公爵家の誇りは、もはやひと筋も残っていなかった。

私の隣で、辺境伯ラインフェルト卿が、一歩、前に出ようとした。それを、私は扇の先で、ごく静かに制した。これは、私の話で御座います。

「エドガー卿」

息を整えた。胸元の、純白の絹地の下で、心の臓が打つのを、自分の掌で押さえるようにした。

「三ヶ月前のあの夜、閣下は広間の真ん中で、幾百の御目の前で、私に『そなたでは力不足である』と仰せ下さいました。私は涙ひとつこぼさず、『承知いたしました』と御返事申し上げました。私は、あの夜以来、クレスフィールの旧姓にて、領地にて、静かに過ごしておりました」

「——知っておる。知っておるからこそ、頼んでおるのだ」

「三ヶ月の間、公爵家からは、このドレスを返せとの沙汰は、一度として御座いませんでした」

公爵の顔が、燭火の下で、さらに一段、白くなった。

「——御自身で、御選び下さった一着ではなかったのですか」

私は、静かに問うた。

青い瞳が揺れた。揺れて、そして、私の言葉の意味を正しく受け取ってしまわれたことが、その狼狽の深さから、明らかであった。

「マリエル、それは——」

「本日、あの広間に入りました折、閣下の御顔色を拝見し、私は漸く察しました。閣下は、このドレスを、御自身で御選び下さったのではない。否——御自身で御選び下さったことには、なっているのでしょう。けれど、その意匠が何を意味するかを、閣下は、今宵、初めて御覧になった」

「違う、そうではない——」

「あるいは、今宵、この広間に、お見えになるはずのなかった御方が、お見えになった。その御方の御目に触れてしまった。そのことにこそ、閣下は狼狽しておいでに御座います。左様では、御座いませんか」

爪が、掌に食い込んだ。扇の陰で、指の関節が白くなっていた。けれども、声は——不思議なほど、凪いだ湖面のように、平らかに保てた。掌の奥で、三ヶ月分の涙が、今ごろになって、小さな熱い粒となって集まろうとしていた。けれど、それを瞳まで届かせはしない、と、己に誓った。此の渡り廊下で、この御方の前で、流すべき涙は、もう一滴も、私には残されて御座いませんでした。

公爵は、答えなかった。答えられなかった、というべきで御座いました。

私は、胸の奥で、三ヶ月の月日を、ひと巻きの絹のように巻き取った。

領地の窓辺で、繕い物の針を手に、過ぎた日々を思い返しては吐息を漏らした夜々。鏡の前で、旧姓を取り戻した己の姓を、口の中でそっと転がしてみた朝。——あれらは、全て、何で御座いましたのか。

あの夜、私は、この純白のドレスを纏い、公爵の前に立った。あの夜でなければ、ならなかった。このドレスを纏わせた状態で、衆目の中、私を婚約の座から突き落とさねば、ならなかった。

何故なら。

この純白のドレスを、何食わぬ顔で、私の手元に残しおく為に。

「——破棄の宣告は」

声が、喉の奥で、ひどく細く震えた。けれど、音にする時には、その震えは、石のように硬くしてのけた。

「私を、このドレスから引き剥がす為の、芝居で御座いましたのね」

公爵の唇が、微かに、開いた。

否定の言葉は、出なかった。

渡り廊下の燭火が、夜風にいちど、ふわりと揺れた。私の純白の裾が、それを追うように、静かに翻った。銀糸の小鳥は、今宵もまた、燭の光を鈍く弾いた。

「……承知いたしました、閣下」

私は、扇を閉じた。閉じて、公爵の胸元ではなく、その喉元の少し下、かつて私が幼き日に贈った小さな銀の留め金を差し上げた辺りへ、視線を落とした。今宵、そこに、銀の留め金は、御座いませんでした。

「此のドレスは、私が御返しすべきものならば、然るべき手順をもって、然るべき場で、御返し致しましょう。——ただし、今宵、この渡り廊下で、閣下の御家中の者の手に渡すことは、致しかねます」

「マリエル!」

「御機嫌よう、閣下。夜気が冷えて参りました。薔薇色の御方がお待ちで御座いましょう、広間へお戻り下さいませ」

私は、膝を折った。捨てられた旧き婚約者として、最後の一度だけ、完璧な礼を形作った。

顔を上げたとき、公爵の青い瞳は、縋るでも、怒るでも、既になく——ただ、喪ったものの大きさに、ようやく気づいた者の色を、していた。

馬車寄せの階段を、私はひとりで下りた。辺境伯ラインフェルト卿は、階段の上で、静かに頭を垂れておられた。「本日はここまで」と、扇を閉じる音で、私は御伝えした。卿は、心得顔で、一礼を返して下さった。

御者が扉を開ける。クレスフィールの紋の刻まれた馬車の、革張りの座席の冷たさに、身を預けた。扉が閉まる。馬車が、ゆるりと走り出す。

——車輪の音が、石畳を打つ度に、胸の奥で、何かが一つずつ、硬く凝っていった。

膝の上に、純白の裾を広げた。銀糸の小鳥は、馬車の中の暗がりの中で、もはや光を弾くこともなく、ただ、静かに翼を広げていた。十年前、地上から失われた国。その花嫁衣装を、私は、知らぬままに纏わされていた。三ヶ月のあいだ、捨てられた身と嘲られながら、この絹の下で、何を守らされていたのか。

指先で、そっと、小鳥の翼をなぞった。刺繍の糸は、思いのほか、細く、強かった。

(……領地へ、戻らねば)

嘆く為に、ではない。知る為に。

窓の外、王都の夜の灯が、ゆっくりと後ろへ流れていった。

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