第2話
第2話
窓の隙間から差し込む朝の光は、昨夜の薔薇の香を残した私の髪を、無慈悲なほど白く照らしていた。
目覚めた瞬間、首筋に冷たいものが触れた気がした。指で確かめると、寝汗だった。背中まで湿っている。夜通し書き記したフラグ管理帳を、私は枕の下に押し込んだまま眠ってしまったらしい。便箋の角が頬に跡をつけていた。
化粧台の鏡を見る。瞼が腫れていた。涙ではない、寝不足のせいだ。
「お嬢様。お目覚めでございますか」
扉の向こうから、聞き慣れた声がした。侍女長マルテ。十年仕えてくれている、私が幼い頃から髪を結い、ドレスの紐を絞り、転んだ膝に薬を塗ってくれた女性。
「入って」
声がかすれた。喉が渇いていた。
扉が開く。マルテは銀の盆に紅茶を載せて入ってきた。普段と何一つ変わらない所作で、湯気の立つカップを化粧台に置く。だが——彼女のエプロンの胸元が、いつもより固く糊付けされていた。皺一つない、儀式のような白。それから、髪を結ぶリボンが、私の好きな空色ではなく、灰色だった。
『これは』
ゲームのスチルが脳裏を掠めた。侍女が辞意を告げに来る場面の、決まりきった衣裳。ヴェルテンベルク公爵家の作法では、暇乞いの際にはエプロンを糊付けし直し、リボンを灰色に替えるのだと——昨日まで知識としてしか持っていなかった作法が、今、目の前で生きた光景になっている。
「マルテ」
紅茶に手を伸ばす指が、自分でも嫌になるほど震えた。カップが受け皿に当たって、かちゃ、と小さな音を立てる。
「お話があるのね」
マルテは頭を下げた。深く、深く。
「お嬢様。長年のご恩を承知の上で、お暇をいただきたく存じます」
予想していた言葉だった。それでも、胃の底が冷えるのを止められなかった。
ゲームの分岐条件が、机の上のフラグ管理帳に書きつけたとおりに、現実の私の目の前で発動している。
──
マルテは膝を折ったまま、視線を絨毯の縁に落としていた。私が幼い頃に紅茶をこぼしてできた、薄い染みのあたり。あれをいつも見ながら、彼女は私に礼儀作法を教えてくれた。背筋を伸ばすこと、扇の角度、目線の高さ。
「理由を聞いてもよろしいかしら」
私は紅茶を一口飲んだ。熱すぎた。喉の奥が灼けたが、その痛みでかえって思考が冴えた。舌の根に渋みが残り、蜂蜜の甘さが追いかけてくる。マルテが選んだ茶葉は、いつも私が午前に好む種類のままだった。最後まで、彼女は彼女の仕事を完璧にやり遂げるつもりなのだ。
「……昨夜、屋敷の使用人頭から達しがございました。ヴェルテンベルク公爵家の名誉を守るため、お嬢様付きの侍女は順次配置換えを行うと」
配置換え、という言葉に滲んだ嘘が分かった。マルテは正直な人だ。命じられた建前をそのまま口にしている。本音は別にある。
「正直に言って」
私は紅茶のカップを置いた。マルテの肩がわずかに揺れた。
「マルテ。あなたが私に嘘をつくのは、十年で初めてよ」
長い沈黙があった。窓の外で、庭師の鋏が薔薇を剪る音が聞こえた。ぱちん、ぱちん、と小さく規則的に。
「……お嬢様付きを続ければ、わたくしの娘が困ります」
マルテの声が、ようやく素のものになった。
「娘のクリスタは、王宮の裁縫部に勤め始めたばかりでございます。聖女様のドレスを縫う部署に。母親が断罪された令嬢の侍女のままでは、あの子の立場が——」
『そういうことか』
ゲームでは描かれなかった、現実の手触り。フラグの発動条件は「侍女が離反する」という抽象的な記述だったが、それを動かしているのは、こうして一人の母親の選択だった。
胸の奥で、何かがちりっと痛んだ。マルテを責める気にはなれなかった。むしろ、十年仕えてくれた恩義を裏切らずに、こうして正面から暇乞いに来てくれたこと自体が、彼女の誠意だった。
私はマルテの前に立ち、彼女の手を取った。マルテが驚いて顔を上げる。十年、彼女が私の手を取ることはあっても、私が彼女の手を取ったことはなかったかもしれない。
働き者の手だった。爪のあいだに、糊の白い粉が少し残っていた。指の節は太く、皮膚は乾いて、何度も水仕事と裁縫をくぐり抜けてきた厚みがある。十年、私の髪を結い、ボタンを留め、転んだ膝の血を拭ってくれた手。その温度が、私の冷えた指先にゆっくりと伝わってきた。
「マルテ」
私は跪きそうになるのを堪えて、ただ彼女の目を見た。
「あなたの判断は、正しいわ」
マルテの瞳が揺れた。睫毛の根元が、わずかに濡れたように見えた。
「本当に正しい。クリスタを守るために母親が選ぶ道として、それ以上に正しい答えはない。だから——慰留はしないわ」
──
マルテの手のひらが、私の手の中で強張った。
決まり文句の慰留——「お願いだから残って」「あなたなしでは」——を予想していた顔だった。それを退けるための言葉も、彼女は用意して来ていたのだろう。
けれど私は別の提案を口にする。
「ただ一つだけ、お願いがあるの。十四日だけ、判断を保留してほしい」
「十四日……でございますか」
「宮廷裁判の日まで」
マルテは黙った。私は紅茶のカップに視線を落とす。湯気はもう立ち上っていなかった。
「十四日後の裁判で、私が負ければ、あなたの判断は揺るがず正しい。クリスタのためにも、迷わず私から離れて。退職金は今すぐ全額お渡しするわ。私の私財から」
マルテが何か言いかけた。私は手で制した。
「最後まで聞いて」
窓の外で、薔薇の鋏の音が止まった。庭師が私たちの会話の気配を察したのかもしれない。屋敷の中の誰もが、私の動きを見ている。
「十四日後、もし私が裁判に勝ったなら——その時はあなたの選択を、もう一度聞かせてほしい。私の都合で残ってほしいと言うつもりはないわ。クリスタの未来も含めて、その時のあなたが冷静に選んだ答えを、私は受け入れる」
言いながら、私は自分でも気づいていた。これは、ゲームの中のセラフィーナが一度も口にしなかった種類の言葉だ。
悪役令嬢の典型的な台詞は、「裏切るのか」「恩を忘れたのか」という詰問だった。それが醜態フラグを立て、侍女全員の離反を確定させる。前世の私はその場面を何度も見た。プレイヤーとして画面の向こうで、舌打ちしながら見ていた。なぜこの令嬢は、自分で自分の首を絞める言葉ばかり選ぶのかと。
『恩で縛らない。義務で繋ぎ止めない』
それが、私が今打つべき手だった。
マルテの呼吸が、少しだけ深くなった。エプロンの胸元が、規則正しく上下する。糊で固められた布が、息に合わせてかすかに音を立てる気がした。
「……お嬢様」
声が震えていた。
「十年、お仕えして参りましたが——そのようなことを仰るお嬢様は、初めてでございます」
私は微笑んだ。たぶん、ぎこちない笑みだったと思う。
「私自身も、初めてよ」
マルテは深く頭を下げた。今度は、暇乞いの礼ではなく——何か別のものに見えた。
「十四日、お仕え申し上げます」
その言葉を聞いた瞬間、私は気づいた。膝の裏に汗がにじんでいた。ドレスの内側で、太腿まで伝うほどに。涼しい顔で交渉していたつもりが、身体は正直だった。
──
マルテが下がった後、私は化粧台の前に座り込んだ。
羽根ペンを取り、フラグ管理帳の三つ目の項目に線を引く。「貴族社会からの孤立」——侍女の離反、ひとまず保留。
保留。確定ではない。十四日後にもう一度、ゼロから問い直される。
ペン先がインクを吸って、紙の上に小さな滴を落とした。慌てて吸い取り紙を当てる。指が、まだ少し震えていた。
「お嬢様」
扉の向こうから、もう一度マルテの声がした。今度は事務的な、いつもの調子に戻っていた。
「失礼いたします。先ほどの件で、一つだけお伺いしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
マルテが扉を細く開けた。彼女は中に入らず、隙間から私を見ていた。灰色のリボンは、まだ髪に結ばれたままだった。十四日後の選択を、自分で予約しているかのように。
「お嬢様は、十四日で——何をなさるおつもりですか」
その問いに、私は即答できなかった。
帳簿を読む。証言を集める。聖女の善行の裏を取る。打つべき手は無数にあった。けれど、それを一言で答えられる形に、私はまだ整理できていなかった。
マルテの灰色のリボンが、朝の光の中で淡く揺れた。彼女は答えを待っていた。
「……明日、お話しするわ」
私が言えたのは、それだけだった。
扉が静かに閉まる。私はフラグ管理帳の余白に、震える字で書き加えた。
——十四日で何をする。明日までに、答えを用意する。
羽根ペンの先が、紙に小さな黒い穴を残した。