第3話
第3話
朝の光が窓枠の格子に分かれて、フラグ管理帳の紙面を斜めに切っていた。
インクの染みが、昨夜より濃く見える。乾ききる前に閉じてしまった頁が、指先でめくるとわずかに引っかかった。糊のように貼りつく紙の感触。マルテが去った後、私はそのまま化粧台に突っ伏して眠ってしまったらしい。頬の右側に、便箋の折り目の跡がくっきり残っていた。
『十四日で、何をする』
マルテの問いが、耳の奥で繰り返されていた。答えを用意しなければならない。今日じゅうに、具体的な一手を打って、それをマルテの目に見える形で提示しなければ。
羽根ペンを取る。インク壺の縁に当てて、余分を落とす。一滴が紙の上に落ちそうになり、息を止めた。
『聖女の「善行」の裏を取る』
ゲームの五周目で、私はルミエールの善行リストを全て洗い出していた。王都南地区の聖マリエン孤児院への定期寄付、王宮薬師ギルドへの治癒依頼の仲介、それから——。
そこまで書いて、手が止まった。
頭の中で検証データを呼び出すだけでは足りない。それは前世の私が画面越しに集めた情報だった。この世界で、実物の書類として、帳簿として、他人の証言として、改めて積み直さなければ、宮廷裁判では一行も通用しない。
『カタリナね』
その名前が、自然に浮かんだ。
カタリナ・リーデンドルフ。学院で三年間同席した商家令嬢。ヴェルテンベルク公爵家とは格が違うと自らを卑下する癖があったが、算術の成績では常に私の上に立っていた娘。
引き出しから新しい便箋を取る。羽根ペンを持ち直す手に、まだ昨夜の震えの名残があった。面会を請う短い文面を、装飾を削ぎ落としたまま書き上げる。封蝋を垂らす熱い蜜蝋の匂いが、胃の底までしみた。
昼過ぎ、カタリナの邸の応接間に通された。
リーデンドルフ邸は王都の商館通りにあり、石造りの建物は堅牢で、飾りよりも実用を優先した造りだった。玄関から応接間までの廊下には、各国の港を描いた海図が額装されて並んでいる。薔薇の香ではなく、乾いた羊皮紙と蜜蝋の匂いが漂っていた。
カタリナは窓辺に立って私を待っていた。紺色のドレスは装飾を抑えた実務家の装い。首元のレースだけが、かろうじて令嬢らしさを残している。
「ごきげんよう、セラフィーナ様」
彼女の声は、平板だった。歓迎でも拒絶でもない、算盤を弾く直前の職人の声。
「よくいらしてくださいました——と申し上げるべきか、迷いましたわ」
「迷わせたこと、お詫び申し上げます」
私は素直に頭を下げた。
扇を開かなかった。貴族令嬢の作法では、こうした気まずい会話では扇で口元を隠すのが常だが、今日の私はその隠し立てを自ら封じることに決めていた。顔を見せ、声を震わせず、願いを言う。
「カタリナ様。率直に申し上げます。あなたの家の力を、お借りしたいのです」
カタリナの眉が、かすかに持ち上がった。
「わたくしの家の、ですか」
「王都南地区、聖マリエン孤児院への寄付記録——そのうち、聖女ルミエール様が関わられた三年分の帳簿の写しを、入手したいのです」
応接間に沈黙が落ちた。
窓の外で、馬車の車輪が石畳を叩く音が遠ざかっていく。カタリナは紅茶のカップにも手をつけず、ただ私を見ていた。算術を解くときの、あの集中した目だった。
「……なぜ、わたくしに」
「リーデンドルフ商会は、王都南地区の慈善団体への物資納入を一手に引き受けておいでですわね。聖マリエン孤児院も、あなたの家が食料と衣料を納めている——学院の三年目、あなたが授業中に商会の仕入れ台帳をご覧になっていたのを、わたくしは覚えておりますの」
カタリナの頬が、ほんのわずか赤らんだ。
「授業中に帳簿を見ていたこと、覚えていらしたのね」
「お叱りになる代わりに、ご自分のノートを貸してくださいました。あの貸し、わたくしは忘れておりません」
短い笑みが、カタリナの口角に浮かんで消えた。警戒を完全には解いていない。けれど、私が彼女の何を見ていたかは、伝わった。
「理由を、伺ってもよろしいですか」
「聖女様の善行の記録と、実物の帳簿との間に、数字のずれがあるかを確かめたいのです」
私は、言葉を惜しまなかった。
「ずれがなければ、わたくしの疑いは誤りだったと、その場で認めます。裁判でも、この疑念は取り下げます。けれど、ずれがあるなら——その意味を、一緒に考えてほしいのです」
カタリナは紅茶のカップを持ち上げ、匙で砂糖をかき混ぜた。かちゃ、かちゃ、と小さな金属音が続いた。考える時間を稼ぐための、彼女の癖だった。学院の試験前、難問に当たるといつも同じ仕草をしていた。
「……三日、ください」
カップを置いた彼女の声は、もう平板ではなかった。
「商会の仕入れ台帳と、孤児院から預かっている支出控えを突き合わせます。ただし、お約束は一つ」
「何なりと」
「数字にずれがあろうと、なかろうと——わたくしは中立を守ります。セラフィーナ様の側にも、聖女様の側にも立ちません。見えたものを、そのままお渡しするだけ」
「それで十分ですわ」
私は頭を下げた。これも、扇で隠さない礼だった。
三日目の夕刻、カタリナの邸の書斎に、私は再び通された。
書斎の長机には、二種類の帳簿が並べて広げられていた。片側は羊皮紙綴じの古いもので、聖マリエン孤児院の支出控え。もう片側は、紙葉を革で括ったリーデンドルフ商会の納品台帳。
カタリナは机の向こうに立ち、白い手袋をはめていた。帳簿を傷めないための商家の作法。私にも同じ手袋を差し出してくる。布地に残る糊の匂いが、鼻先をくすぐった。
「手前の列から、三年分の月次を照合していきます。聖女様の署名で寄付が執行された月に、印をつけてありますわ」
彼女の声は、もう学院の頃の率直な調子に戻っていた。
並んだ数字を、左から右へ、指でなぞる。孤児院の支出控えに記されているのは、パン屋への支払い、医師への謝礼、子供たちの衣料費。月によっては薪代、蝋燭代、そして年に一度の修繕費。
リーデンドルフ商会の納品台帳には、同じ月に孤児院へ納められた物資の総量と金額が記されている。
「小麦粉——孤児院控え、月額八十二ツェラー。商会納品、月額八十二ツェラー。合致」
カタリナが淡々と読み上げていく。
「衣料——孤児院控え、年額三百ツェラー。商会納品、年額三百ツェラー。合致」
数字が重なるたび、彼女の声が単調になった。予想に反して、一致している。一致しすぎていた。
「薪代、医師謝礼——いずれも合致」
私は眉をひそめた。
『——これは』
完全に合致している。ずれがない。あまりにも、ずれがない。
指先が止まった。羊皮紙の質感が、手袋越しでもざらりと伝わってくる。支出控えの数字を、もう一度逆から辿り直した。
「カタリナ様。聖女様からの寄付の『総額』を見せてくださいませ」
カタリナが別の帳面を開いた。聖女ルミエールの署名が、各月の上段に凛として流れている。
「月額——五百ツェラー。年額六千ツェラー。三年で一万八千ツェラー」
私は息を呑んだ。
孤児院の支出控えの総額は、物資と人件費と修繕費を合計しても、年額約八百ツェラー。三年で二千四百ツェラー。
聖女の寄付額と、孤児院の実際の支出額の差は——年あたり五千二百ツェラー。三年で、一万五千六百ツェラー。
「カタリナ様」
私の声が、少し掠れた。
「寄付は、確かに孤児院に『届いて』はいるのね」
「ええ、入金記録は孤児院の金庫にも残っています。けれど——」
カタリナは帳面の別の頁を開いた。孤児院の金庫出納記録。
「届いた金の大半が、同じ月のうちに『外部へ再支払い』されている。支払先の名前は、孤児院の日常経費とは関係のないものばかり」
私は彼女の白い手袋の指先を追った。
——定期納入。薬師ヘルムート氏宛、秘薬代。月額四百二十ツェラー。
同じ行が、毎月、毎月、三年間。
支出控えには一切記載のない項目が、金庫出納記録にだけ記されている。表の帳簿と裏の金の流れが、露骨に食い違っていた。私は唇の内側を、歯で押さえた。爪が手袋の指先を食い込むほど握っていたことに、そこで初めて気づいた。
カタリナが長机の端に両手をついた。帳面を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
書斎の壁時計が、ちくたくと夕刻の半を刻んでいた。蝋燭の一本が燃え尽きかけて、芯の黒い頭を揺らしている。蜜蝋の甘い煙が、帳簿の羊皮紙の匂いと混じった。
「セラフィーナ様」
カタリナの声は、商家令嬢のものでも、学院時代の友人のものでもなかった。
「これ、流れた金の行き先……王宮の薬師ギルドじゃない?」
彼女の指先が、金庫出納記録の一行をつついた。月額四百二十ツェラー。ヘルムート氏宛、秘薬代。
私はその文字を見つめた。視界の隅で、帳簿の縁が歪んで見えた。
『——薬師ギルド』
聖女の治癒の奇跡。ゲームでは「神の恩寵」とされた、あの場面。その裏側で、毎月、決まった額の金が、同じ名前に向かって流れていた。
立ち上がろうとして、スカートの裾が椅子の脚に引っかかった。前のめりに、机の角に手をつく。手袋の白い指が、帳面の縁を強く押した。
十四日のうち、既に四日が過ぎていた。