第1話
第1話
婚約破棄の言葉が、まだ耳の奥で鳴っている。
「セラフィーナ・ヴァルトシュタイン。貴女との婚約を、本日をもって破棄する」
殿下の声は冷たく、けれど震えてすらいなかった。大広間に居並ぶ貴族たちの視線が突き刺さる中、私はただ背筋を伸ばしていた。唇の内側を噛んだ。血の味が舌に広がっても、表情を崩すわけにはいかなかった。隣に立つ聖女が殿下の腕にそっと手を添え、憐れむような微笑みを浮かべているのが視界の端に映った。あの笑顔こそが、私への最後の一撃だった。膝が笑いそうになるのを、長いスカートが隠してくれたのは幸いだった。
馬車が大きく揺れて、回想が途切れる。
窓の外に広がるのは、見渡す限りの荒野だった。王都の石畳も、整えられた庭園も、もうどこにもない。灰色の空の下、背の低い雑草だけが風に靡いている。御者台から聞こえるのは馬の蹄と車輪の軋みだけで、護衛の騎士は一人もいない。公爵令嬢の移送に護衛をつけない——それが、王宮の下した判断だった。
「悪役令嬢」。
その烙印がどれほどの重さを持つか、私は宣告されるまで知らなかった。社交界で私に逆らう者はいなかった。公爵家の権威を盾に、邪魔な者は排除し、都合の悪い者には口を閉ざさせた。すべては家門を守るためだと信じていた。いや——信じたかっただけかもしれない。夜会の席で泣き崩れた男爵令嬢の顔が、不意に蘇る。あの時、私は何と言ったのだろう。思い出せないことが、何よりも恐ろしかった。
馬車が止まった。
御者が無言で扉を開ける。降り立った先に広がっていたのは、朽ちかけた館だった。壁の漆喰は剥がれ、屋根の瓦は何枚も欠け落ちている。雨樋は錆びて半ばちぎれ、壁を伝った雨水の跡が黒い筋となってこびりついていた。門柱に刻まれたヴァルトシュタイン家の紋章だけが、かろうじてここが公爵家の領地であることを示していた。
「お荷物はこちらに。では」
御者はそれだけ言い残し、馬車を走らせた。砂埃が舞い上がり、私の髪に降りかかる。振り返っても馬車はもう小さくなっていて、私は荷物の入った革鞄を一つ、握りしめているだけだった。
館の前には数人の領民が立っていた。出迎え——ではない。その目が語っていた。冷えた視線、口元に浮かぶ嘲り。一人の女が隣の男に耳打ちする。聞こえないふりをしたが、風が声を運んでくる。
「あの令嬢だよ。王都で好き勝手やって、追い出されてきたんだ」
「こんな辺境に厄介者を押しつけるとはね。王都も随分だこと」
言い返す言葉を、私は持たなかった。彼らの怒りには根拠がある。この辺境に暮らす者たちの中には、私が——いや、私の判断によって王都を追われた者がいるはずだった。社交界の勢力図を守るために切り捨てた駒。あの頃の私にとって、彼らはそれ以上の存在ではなかった。
館の中はさらに酷かった。埃が積もった調度品、蜘蛛の巣が張った暖炉、軋む床板。使用人の姿はない。当然だ。追放された令嬢に仕える者など、この辺境にはいない。
革鞄を寝室らしき部屋に置き、窓を開けた。錆びた蝶番が悲鳴を上げる。
窓の向こうに、黒い森があった。
陽が傾き始めた空の下、針葉樹の密集した森が地平線まで続いている。木々の隙間から漏れる光はなく、まるで闇がそのまま大地に根を張ったような、異様な存在感だった。王都にいた頃、辺境の報告書で読んだことがある。魔物が棲む森。討伐隊を送っても被害が絶えない、王国の未解決問題。
それが今、私の領地の目の前にある。
夕暮れが深まるにつれ、森から風が吹いてくるようになった。風に混じるのは獣の匂い——いや、それより鋭く、金属的な臭気。魔物の体臭だと、本能が告げていた。
夜が来た。
館には蝋燭が数本あるだけで、暖炉に火を入れる薪もろくにない。寒さに耐えながら毛布を引き寄せていると、外から声が聞こえた。
子どもの泣き声だ。
窓辺に駆け寄ると、館と村の境にある木の柵のあたりに、小さな影が二つ見えた。五つか六つほどの子どもたちが、柵にしがみついて震えている。その向こう——黒い森の方角から、低い唸り声が断続的に聞こえていた。
領民の家々には灯りが見える。けれど子どもたちのそばに、大人の姿はなかった。柵の内側は一応安全とされているのかもしれない。だが子どもたちの怯えようは尋常ではなく、声を殺して泣いている様子が、凍えた空気の中に痛々しく浮かんでいた。
私は何ができる?
剣は持っていない。魔法の素養はあるが、実戦で使えるほどの訓練は受けていない。公爵令嬢に必要なのは社交の技術であって、戦う力ではない——そう教えられて育った。
けれど。
押し入れの奥に、古い毛布が何枚か畳まれていた。虫に食われてはいるが、まだ使える。私はそれを抱えて、館の玄関を開けた。
夜気が肌を刺す。春はまだ遠いのか、吐く息が白くなった。足元の地面は霜が降りていて、室内履きの薄い底を通して冷たさが伝わってくる。つま先の感覚がすぐに消え、踏み出すたびに凍った草が硝子のように砕ける音がした。
柵のそばまで歩いていくと、子どもたちが怯えた目でこちらを見た。追放されてきた悪役令嬢——その噂は子どもにも届いているのだろう。一人が兄の袖を掴んで後ずさる。蝋燭の灯りも届かない暗がりの中で、その瞳だけが濡れた光を宿していた。
「寒いでしょう。これを使いなさい」
しゃがんで、毛布を差し出した。子どもたちは動かない。怖いのだ、私が。
王都では、私の声一つで人が平伏した。命じれば望みはすべて叶った。けれど今、この小さな手を差し伸べることすらできない。権威で人を動かしてきた私には、信頼の結び方がわからなかった。
だから私は、毛布を柵の杭にかけて、数歩下がった。
「置いていくから。温まったら、おうちに帰るのよ」
しばらく立ち尽くしていると、年上の子がおそるおそる手を伸ばし、毛布を取った。弟らしき子を包んでやり、それから小さな声で何かを言った。聞き取れなかった。ありがとう、だったのかもしれない。そうでなかったのかもしれない。
子どもたちが家の方へ駆けていくのを見届けてから、私は柵に手をついた。
指先が触れた杭の表面に、深い傷があった。
三本の溝。何かが鋭い爪で引き裂いたような痕。木の繊維が抉り取られ、まだ新しい——樹液が乾ききっていない。
魔物の爪痕だ。
柵のすぐ外まで、来ている。
森の方角を見つめた。暗闇の中に、何かが蠢いている気配があった。枝が折れる音。低く、地を這うような唸り。一つではない。複数の気配が、木々の間を移動している。
足が竦んだ。喉の奥が干上がる。
私には何もない。剣も、魔法も、兵も、権威も。王都で振りかざしていた公爵家の名は、ここでは何の盾にもならない。
それでも——この柵の内側には、あの子どもたちがいる。さっき毛布を受け取った手は、あんなに小さかった。
背筋を伸ばした。震える足を叱りつけるように、一歩、館へ向かって踏み出す。
今の私にできることは何もない。けれど、何もしないままでいることだけは——もう、選べないと思った。
館に戻り、玄関の錠を下ろす。鉄の閂が噛み合う音が、静まりかえった廊下に硬く響いた。寝室の窓から、もう一度だけ黒い森を見た。
森の奥で、遠吠えが響いた。
一つ、二つ、三つ——やがて数え切れなくなるほどの声が重なり、夜の空気を震わせる。それは獣の声ではなかった。もっと深く、もっと冷たい、知性のある何かの咆哮。窓硝子が微かに震え、蝋燭の炎が横に倒れるほど空気が揺れた。
柵の爪痕が脳裏に浮かぶ。あの傷は昨日のものか、今日のものか。明日にはあの柵が破られたとして、誰がこの村を守るのか。
王都は援軍を寄越さないだろう。追放した令嬢のために兵を動かす道理がない。
蝋燭の炎が揺れる。壁に映る自分の影が、ひどく小さく見えた。
革鞄の留め金に手をかけた。冷えきった指が金具に滑り、二度、三度と失敗してからようやく開いた。荷物の中には、追放の日に侍女が密かに忍ばせてくれた一冊の書物がある。辺境の植生と地勢を記した古い調査記録。あの時は何の気なしに受け取ったが、今はこの一冊が私に残された唯一の武器かもしれなかった。
遠吠えはやまない。むしろ近づいている。