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追放令嬢の断禍流~辺境で拾った禁忌の剣~

第2話 第2話

第2話

第2話

夜明けの色が、窓硝子にゆっくりと滲んでいた。

蝋燭はとうに燃え尽き、芯の焦げた臭いだけが部屋の空気に残っている。机の上に広げた調査記録は、最後の頁まで読み切った。指先が紙の乾いた縁に擦れる感触が、まだ皮膚の上に残っていた。眠れなかったと認めるしかなかった。遠吠えは夜半に一度収まり、それからまた波のように押し寄せて、暁方になってようやく途切れた。その一度ごとに、私は耳を澄ませ、柵の方角へ神経を張り巡らせていた。疲労が顔の筋肉をこわばらせ、鏡を覗く気にもならなかった。

書物には、この辺境の地勢と植生、そして過去に記録された魔物の襲撃事例が淡々と並んでいた。四十年前の大侵攻、十五年前の狼群、七年前に館を焼かれた駐在の子爵——読むほどに、この土地が王都の辺境地図では単なる黒い塗りつぶしとしか扱われてこなかった理由がわかった。誰もここを守ってこなかった。名を残すことすら、惜しまれてきたのだ。

書物の隙間から一枚の紙が滑り落ちた。侍女の筆跡で、「鍛冶師・薬師の在住名簿」と書かれている。王都を離れる前夜、彼女が最後に渡してくれたものだった。冷えきった指で拾い上げる。紙の上に並ぶ名前を、私は一人ずつ読み上げた。

——カイ・エステン。 ——マルタ・ブレンネ。

どちらの名にも、覚えがあった。私がかつて、社交の駆け引きの中で潰したものの名だった。

朝霧の中を、私は領民の村へ下りていった。

スカートの裾に凍った草が擦れ、薄い布地にすぐ露が染み込んでくる。すれ違う者は誰も頭を下げなかった。視線を外される方がまだましで、多くは真正面から冷たい目で私を見返してきた。井戸端の女たちは水桶を抱えたまま押し黙り、私が通り過ぎるまで身じろぎもしなかった。

鍛冶場は村の外れにあった。屋根から白い煙が細く立ち昇り、鎚を打つ音が規則正しく響いている。扉は開け放たれていて、炉の熱気が外まで漏れていた。

鍛冶師は、振り向かなかった。背を向けたまま、赤熱した鉄塊を鉄床に据え、鎚を振り下ろし続けている。鉄の弾ける音が空気を切り裂くたび、火花が宙に散った。王都にいた頃、私が社交界の派閥争いの末に潰した工房の名を思い出す。エステン工房。看板に刻まれた金文字まで、私はまだ覚えていた。

「仕事の依頼を、したいのだけれど」

静かに声をかけた。鎚の音が止まった。鍛冶師が、ようやく振り返る。煤で汚れた額の下、灰色の瞳が私を射抜いた。

「あんたに鍛える鉄はない」

声は低く、迷いがなかった。怒鳴るでもなく、突き放すでもなく、事実を告げる声音。それが一番応えた。爪が掌に食い込むのを感じた。

「必要なのは武器です。魔物が、柵のすぐ外まで来ています」

「知ってる。知ってるから、余計にあんたには渡せない」

カイは鉄床の縁に鎚を置いた。鉄と鉄が鳴った。

「親父の工房、潰したのはあんただろう。公爵家の肝煎りで王宮御用達の看板が取り上げられて、職人が八人路頭に迷った。親父は翌年の冬に死んだよ。咳が止まらなくて、薬も買えずにな」

胸の奥で何かが軋んだ。扇の骨が折れるような、鈍い痛み。私は唇を開きかけ、言葉が見つからずに閉じた。謝罪という形はこの場では安っぽく響くと、本能でわかった。何より私自身が、讒言の発端となった社交場での一言を、正確に思い出せないでいた。父の派閥を守るためにした助言のどれがカイの父の死に繋がったのか、私は特定することさえできなかった。

「出てってくれ」

カイは背を向け、鎚を取り上げた。赤熱した鉄を、また打ち始める。火花が、先ほどより激しく散っていた。

薬師の家は、村の北端の丘の上にあった。扉は閉まっていたが、乾いた葉と煎じた湯気の青臭さが、隙間から漏れてきた。

「入りな」

扉越しに、しわがれた声がした。

踏み込むと、天井から束ねられた薬草が無数に垂れ下がっていた。老婆が炉の前で、石臼を挽いている。振り返らない。視線だけが、鋭く私を捉えた。

「マルタ・ブレンネ」

「王都のご令嬢が、よくぞここまで」

石臼を回す音は止まらない。擦り潰される薬草の青い汁が、臼の縁から滴っていた。

「薬師ギルドの、元長と聞きました」

「過去形だね。ギルドが潰されたのは、あんたが十四の頃だ」

老婆の手が、ようやく止まった。

「覚えているかい。社交界で、治療薬の献上を巡って競い合った派閥争い。あんたの父上の派が勝ち、我々のギルドは特許を剥奪された。私はこの辺境に流れてきて、ここで薬を煎じている。まだ生きてるがね、仲間のうち三人はもう土の下だよ」

石臼の石と石が擦れ合う低い音だけが、部屋に充ちている。

「今さら、詫びに来たのかい」

マルタの目が、はじめて真正面から私を見た。濁ったようで、底に鋭い光を宿した瞳だった。

「そうではないと言えば、嘘になります。けれど今日は——薬を譲っていただきたくて」

「自分のためかい」

「領民のためです」

老婆は鼻で笑った。だが石臼を脇に退け、棚から小さな陶器の瓶を取り出し、私の前に置いた。

「消毒と止血だけの、ありふれた薬だ。……あんたのためじゃない。あの子供らが怪我をした時のためだよ」

瓶を受け取る手が、わずかに震えた。マルタは私を見送ろうともせず、また石臼に向き直った。

日が傾き始めた頃、私は館に戻ろうとしていた。

カイの背中と、マルタの濁った瞳。どちらも、私を許す言葉を一つも寄越さなかった。当然だった。私が切り捨てたものは、ここまで長い影を曳いて私を追ってきていた。

館の門をくぐろうとしたその時、村の方角から悲鳴が上がった。

女の声だった。続いて、男の怒号。走る足音。木の裂ける鈍い衝撃。

私は瓶を胸に押し込み、走った。

村の南にある家畜小屋——そこから、煙ではなく血の匂いが立ち昇っていた。十数人が集まっている。輪の中心で、羊が三頭、喉を裂かれて横たわっていた。内臓が引きずり出され、地面に黒い血溜まりが広がっている。鼻の奥に鉄錆の臭いが差し込み、喉の奥でえずきそうになるのを、唇を噛んで堪えた。

杭が一本、根元から折れていた。太い杭だった。人の腕ほどある樫の柱が、爪か牙で一息に断たれている。

「柵を越えてきやがった……」

誰かが呟いた。

「昨日までは、外の爪痕だけだった。今夜は、中に入って来やがった」

領民たちが私を見た。冷たい敵意ではなく、もっと別の——追い詰められた獣が、視線の置き場を探すような、そんな目をしていた。

カイが、群衆の後ろから歩いてきた。鍛冶場の煤を顔につけたまま、折れた杭を無言で検分している。私を一瞥したが、何も言わなかった。

マルタも来ていた。老婆は膝を折り、羊の傷口に顔を近づけ、鼻先を寄せている。

「この爪痕……一頭じゃないね。少なくとも三頭。大型の影狼だ」

老婆の声は低かった。

「明日の晩は、家畜じゃすまないよ」

風が吹いた。黒い森の方角から、金属を擦り合わせるような遠吠えが、一つ、また一つ響く。昨夜より、近い。明らかに近い。領民の子どもが一人、母親の腰にしがみついて泣き始めた。その泣き声が、夜気に薄く散った。

私は折れた杭の前に立っていた。

木の断面に指を這わせる。樹液がまだ濡れていた。ついさっき、この繊維の上を爪が通ったのだ。触れた指先に、微かな熱が残っている——魔物の体温か、あるいは私の指の方が凍えていたのか、判別がつかなかった。

領民は散らなかった。誰も家に戻ろうとしない。女たちは子どもを抱き寄せ、男たちは鍬や棒を手に立ち尽くしている。武器らしい武器は、誰の手にもなかった。

カイが、ふいに折れた杭を肩に担ぎ上げた。

「運ぶ。繕わなきゃ、今夜もやられる」

私と視線が交わった。一瞬だけだった。敵意ではないと言えば嘘になる。それでも、昼間の鍛冶場の時とは違う、重たい何かが、そこにあった。

マルタは、羊の血で汚れた指を布で拭っていた。その視線は私の背後へ——黒い森の方角へ、じっと据えられている。

遠吠えが、また響いた。先刻より、確かに一歩、近い位置から。

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