第3話
第3話
折れた杭の樹液が、指先にまだ粘っていた。
館の机で布巾を取り、手を拭おうとしたが、繊維の隙間に赤茶けた木の脂がこびりついて落ちない。爪の縁に挟まったそれを、私はじっと見つめていた。指の腹で擦ると、微かに薬草に似た青い匂いがする。樫の幹を裂いたあの爪は、確かに今ここにある木と、同じ年代の樹を切り裂いてきたのだ。爪で削り取ろうとすると、脂はかえって指紋の溝に食い込み、皮膚の内側まで染みていくように思えた。水差しの水で濡らしても、匂いは消えなかった。
机の上の調査記録を、私はある頁で開いていた。
四十年前の大侵攻の記録。当時の代官が震える筆致で書き残した最後の頁には、「子らを地下の塩蔵に下ろすが間に合わず」とだけある。その先は、別の人間の筆で「代官以下、生存者なし」と記されていた。塩蔵——食肉を保存するための地下倉庫。今もこの村に残っているはずだった。頁の端は湿気で波打ち、墨は時の流れで薄茶色に褪せている。それでも「間に合わず」の四文字だけは、筆を押しつけたように深く、紙の裏まで黒く滲んでいた。
ペンを取った。
紙の隅に、村の見取図を描いていく。井戸、家畜小屋、鍛冶場。北の丘に薬師の家。村の中心の集会所に、確か石組みの地下室があったはずだ。昨日の朝、村を歩いた時、屋根の低い倉の前に古い鉄扉が半ば埋もれていたのを、私は確かに見ていた。扉の表面には鎖の痕と、消えかかった十字の刻印があった。あれは避難のための封印だったのだと、今になって繋がった。
外で、また遠吠えが響いた。
机に向き直る。指先がペンを握り直す。震えている。それが寒さのせいではないことは、自分でわかっていた。インクが紙の上で小さく跳ね、見取図の北の線を歪ませた。
——できるのか、私に。
問いは答えを求めず、頁の余白に滲んで消える。けれど私は、調査記録の上に、もう一本の線を引いていた。
集会所の鉄扉は、油で固着していた。
カイが鎚の柄で蝶番を叩き、私が体重をかけて押すと、ようやく重い軋みを上げて開いた。中は石組みの階段が下に伸び、壁には塩の結晶がびっしりとこびりつき、五十人ほどは収容できそうな広さだった。冷えた空気が地底から這い上がってきて、私の頬をかすめていく。肉を保存する冷気と、何十年も閉じ込められていた沈黙の匂いが、一緒に昇ってきた。
「ここに、村の者を全員集めます」
集会所の前に駆けつけた領民たちは、私の言葉に反応しなかった。ただ私の背後の、開いた地下倉の口を、黙って見つめていた。松明の炎が揺れ、彼らの顔に濃い影を落としている。誰も口を開かない。その沈黙が、遠吠えよりも重く耳に残った。
「家畜小屋にいる者を呼び戻してください。年寄りと子どもから先に下ろします」
「あんたが指図するのかい」
中年の女が、低く言った。井戸端で水桶を抱えていた女だった。桶の縁を握る指の関節が、松明の光で白く浮かんでいた。
「指図ではありません。お願いです」
私は頭を下げた。髪の先が地面の霜に触れた。
——けれど時間がない。
顔を上げて、続けた。
「四十年前の大侵攻の記録に、子らを下ろすのが間に合わなかったとあります。今度は、間に合わせたい」
女が口を開きかけた、その時だった。
村の南——昼に羊が裂かれた家畜小屋の方角から、木の砕ける轟音が響いた。続いて、家畜の悲鳴。短く、断ち切られるように消える。
風向きが変わり、血の匂いが鼻を突いた。鉄錆と獣脂と、それから何か——焦げた油に似た、知らない臭気。喉の奥が、その臭気に反応して反射的に収縮した。
「来た」
カイが鎚を握り直した。
私は走り出していた。
「全員、集会所に! 子どもから! 家ごとではなく、年齢の順で!」
声を張り上げながら、家々の戸を叩いて回った。扉を開けた母親の腕から、私は赤子を引き取る。腕の中の子の体温が、薄い夜着越しに私の腕に染み込んだ。集会所まで五十歩。走るたびに子どもの頭がかくんと揺れ、一度泣きかけて、それから私の鎖骨に額を押しつけて黙った。赤子の髪から、乳と石鹸の匂いがした。その匂いを嗅ぎながら、私は走った。
次の家では老人の手を引いた。杖を取り落とす老人を、私は腰を屈めて支えた。膝の関節が硬く、一段下りるごとに彼は呻いた。塩の階段を踏み外しかけたところを、下から伸びてきたマルタの手が掴んで引いた。マルタはいつの間にか地下倉に降りていて、入り口で薬瓶を握りしめ、入ってくる者を一人ずつ点呼していた。その声は低く、冷静で、村人たちの呼吸を整えるための錨のようだった。
外では、カイと数人の男が鍬と棒を構え、家畜小屋の方角を睨んでいた。低い影が、闇の中で蠢いている。月明かりが時折、その背の毛並みを照らした。狼に似て、もっと大きい。肩までの高さが、私の腰を超えていた。濡れた毛の先から、何か黒いものが滴り落ちていた。
「まだだ。まだ柵の外側だ」
カイの声は、震えていなかった。
私は次の家へ駆けた。腕に毛布の子を抱え、背に老婆を負い、足元には怯える幼児がしがみついた。スカートの裾が踏まれ、何度も倒れかけた。老婆の息が耳元で短く繰り返され、その一呼吸ごとに私は自分の脚に鞭を打った。
最後の家を覗いた時、私の喉が干上がった。
戸口に立っていた母親が、蒼白な顔で私を見た。腰には五歳ほどの女の子がしがみついている。
「うちの上の二人が、いません。夕方、薪を拾いに森の縁に行ったきり——」
母親の指が、私の袖を掴んだ。その指は氷のように冷たく、骨ばった関節が布越しに食い込んだ。
「迎えに行こうとしたら、もう柵の南が——」
私は柵の南を見た。家畜小屋を喰い荒らした影が、こちらに向かって低く滑るように移動している。柵の杭が一本、また砕ける音がした。
森の縁。子どもが、二人。
頭の中で、四十年前の代官の筆跡が、滲んだ墨の文字となって浮かんだ。
——間に合わなかった。
「この子を集会所へ。マルタに渡してください」
腕の中の女の子を母親の胸に押し戻し、私は振り返って走り出した。手の中に、女の子の小さな背骨の感触がまだ残っていた。
「ご令嬢!」
カイの声が背後で聞こえた。私は振り向かなかった。振り向けば、足が止まる。
集会所の脇に立てかけてあった薪割り用の手斧を一本、走りながら掴み取った。柄は手に余り、刃は錆びていた。それでも何もないよりはましだった。手斧を担いで、村の北側の柵の壊れた箇所——昨夜杭が折れた場所——から、私は黒い森に踏み込んだ。
森の中は、夜よりも夜だった。
頭上の枝が空を完全に覆い、月明かりは届かない。足元は腐葉土の堆積で、踏むたびに足首まで沈んだ。湿った土の匂い、苔、そしてどこかから漂ってくる獣の体臭。手斧の柄を両手で握りしめ、息を殺して進んだ。自分の心臓の音が、耳の奥で太鼓のように鳴っていた。
「誰か! 返事をして!」
声を張り上げる。返事はない。風だけが枝を撫でて応じた。遠くで、木の枝が何かに踏まれて折れる音がした。獣か、それとも——。
地面に、小さな足跡があった。
二つ。サイズの違う、子どもの素足の痕。霜の上に薄く残り、北西の方角へ続いている。私はその痕を追った。腐葉土の上では痕跡が消えるが、霜の張った窪地ではかろうじて読み取れる。社交界で一度だけ、狩猟番に見せられた野兎の足跡の見方が、奇妙な巡り合わせで私を導いていた。絹のドレスでサロンに座っていた私と、今、手斧を抱えて霜を読む私が、同じ人間であるとは思えなかった。
百歩ほど進んだ時、低い泣き声が聞こえた。
「動かないで! そこにいて!」
走り寄ろうとした、足の裏。
土が、無かった。
——え。
腐葉土の下、何かが空洞だったと気づいた瞬間、地面が崩れた。
落ちた。
腐葉土と石と、折れた根が一緒に降ってきた。背に何かが当たり、腰が捻れて、肘が硬いものを擦った。一瞬で、息ができなくなった。空中で胸郭が圧縮される感覚——肺の中の空気が、強引に喉から絞り出される。
落下は長かった。長すぎた。
頭の中で、母親に押し戻した女の子の温もりだけが、奇妙にくっきりと残っていた。あの温度が消える前に、私はあの兄妹を抱えて戻らなければならなかった。
背が、ようやく地面に叩きつけられた。
息を吸い込めない。胸の奥で何かが軋み、喉に鉄錆の味が広がる。指先を動かすと、冷たい石の床に触れた。腐葉土ではない。整えられた、石組みの床だった。指の腹で床を撫でると、目地の溝に細かな砂の粒が詰まっていて、その砂が指先で微かに震えているのが分かった。何かが、この地の奥で脈打っている。
薄く、光があった。
開いた瞼の先、はるか頭上に星のように見えるのは、私が落ちてきた穴。そして足元の方角から——青白い光が滲み出していた。蝋燭でも、月でもない、何かが脈打つように呼吸する光。その光は、一定の間隔で強くなり、弱くなる。まるで、地の底で誰かが息をしているかのようだった。
頭上で、子どもの泣き声が、遠くなっていく。
私は、手斧を握り直した。