第2話
第2話
玉座の間の凍結は、想像より深かった。
誰も息をしていない。蜜蝋の炎が揺れる微かな音すら、今は聞こえなかった。高窓から差し込む冬の斜光が、床に長い格子の影を落としている。香炉から立ちのぼる乳香の匂いが、凍りついた空気の中で奇妙に濃く、鼻の奥を刺した。大理石の床に落ちた私の声の残響だけが、高い天井の梁に絡みついて消えていく。視線は依然として私に集まっていたが、その質が変わっていた。軽蔑でも嘲りでもない。理解できないものを見るときの、怯えに似た沈黙だった。
エルヴィンの唇が、わずかに開いた。何か言おうとして、しかし言葉が喉の奥で詰まったのがわかる。琥珀色の瞳が、私の顔の上で焦点を結び直せずにいる。長い睫毛が二度、三度と瞬いた。玉座の肘掛けに置かれた彼の手が、革の縁を無意識に撫でている。爪の下が白くなるほどの力で、彼は何かを握り直そうとしていた。
『見えている。光魔法の膜が、今だけ薄くなっている』
私は手にした扇を、音を立てずに閉じた。骨組みが絹にこすれる微かな感触が、指先に残る。象牙の骨が、冬の寒さを吸って冷たい。この沈黙の長さそのものが、既に答えだった。自らの意思で断罪を下したのなら、即座に肯定の言葉が返るはず。六度の繰り返しで、エルヴィンは一度も言葉に詰まったことがなかった。それが今、台本を失い、黙って立ち尽くしている。
最初にざわめきを立てたのは、列席する公爵家の席からだった。絹擦れの音、低い咳払い、金属の鞘が床石を叩く鈍い響き。凍結を溶かす、ごくささやかな音の粒が、広間の端から中央へと波紋のように広がっていく。
「——殿下、ご返答は」
宰相ヴァルター公が、乾いた声で促した。銀の髪を撫でつけた老貴族。普段は顔色ひとつ変えぬ男の眉間に、微かな縦皺が刻まれている。彼はこの場の進行を預かる立場にありながら、想定外の停滞に苛立ちを隠せずにいる。指先で笏を小刻みに叩く音が、静まり返った広間に乾いて響いた。
エルヴィンは拳を握り、ようやく口を開いた。
「……無論、我が意思だ。聖女リーゼロッテへの非道は、この目で確かめてきた」
声が、わずかに掠れていた。
『「この目で」——どこで、いつ、誰と共に』
問い返したい衝動を、私は喉の奥で抑え込んだ。今それを突けば、感情的な反駁と映る。筋書きの範疇に引き戻されてしまう。六度目の死で学んだことだ。怒声は相手の脚本に乗ること。涙は相手の物語を完成させること。この場で私が差し出すべきは、あちらの台本には書かれていない類の静けさだった。
代わりに、私はドレスの裾を静かに捌き、膝を折るのではなく、品位を保った角度で頭を垂れた。重ねられた絹が床をすべる、ごく低い衣擦れの音だけが、短い句読点のように空気を区切った。
「承知いたしました」
エルヴィンが虚を突かれたのがわかった。リーゼロッテの胸元で、聖印を握る白い指が、ほんの一拍だけ硬直する。
「わたくし、セラフィーナ・フォン・エーデルシュタインは、殿下のご判断を尊重いたしましょう。婚約の破棄、謹んで承りまする」
広間の空気が、再び凍りついた。今度は先ほどとは逆方向の戸惑いだった。泣き崩れるはずの悪役令嬢が、膝を床につかずに頭を垂れた。怒鳴るはずの女が、敬語で受諾した。筋書きから外れた進行に、扇の動きまでもが止まっている。夫人たちの横顔に、困惑と好奇が入り混じった色がよぎるのを、私は伏せた瞼の端で捉えていた。
「——ですが」
私は顔を上げた。声の音程を、あえて平坦に保つ。昂りも怯えも滲ませず、ただ事実を積み上げる者の響きへと揃える。
「婚約の破棄と、罪の確定は別儀にございます。先ほど読み上げられました罪状は、いずれも伝聞と証言のみで構成されておりました。物的証拠、日時、立会人——貴族院法第三十七条に定められし要件を、ひとつとして満たしておりませぬ」
空気の質が、また変わった。扇の陰で囁き合っていた夫人たちが、扇を下ろして私を見ている。先ほどまでの嘲りは、そこにはもうなかった。後列の若い伯爵が、隣席の父親の袖を無意識に引いたのが視界の端に映った。条文を暗唱する女——それは彼らの知る「令嬢」の範疇を、はみ出していた。
「エーデルシュタイン公爵令嬢の申し立ては、筋が通っておりますな」
低い声が響いた。列席者の後列、法衣をまとった老人——貴族院法務長官シュテファン侯爵。父の政敵に近い立場の男だが、法の運用においては常に筋を通すことで知られている。彼が小さく顎を撫でながら、エルヴィンに向き直った。白い顎髭の下で、唇が淡い笑みに似た形をつくる。それは私への賛辞ではなく、条文が正しく引かれたことへの職業的な満足だった。
「殿下。婚約破棄は王家のご裁量にて成立いたしましょう。しかし罪状確定となりますと、貴族院査問会の議を経ねばなりません。令嬢の申し立てに従い、異議申立手続きを開かれますか」
エルヴィンの顔に、ありありと困惑が浮かんだ。琥珀色の瞳が、隣のリーゼロッテへと流れる。助けを求めるような、縋るような視線。聖女はそれに気づかぬ振りで俯いたが、白い頬の筋肉がわずかに引きつったのを、私の目は捉えていた。うなじから耳朶にかけて、薄紅がさっと差して、すぐに引く。怒りか、焦りか、あるいはその両方か。
『あなたの台本には、ここに選択肢はなかったのでしょう』
リーゼロッテの光魔法は、人の感情を操作する。判断力を鈍らせ、好意を増幅させ、従順へと導く。だが、貴族院法という骨組みそのものを書き換えることはできない。法は血と時間をかけて築かれた石積みであり、一人の聖女の祈りで歪めるには、太すぎる。
六度の断罪で、私は一度もこの骨組みに触れなかった。感情で抗い、感情で散った。だが骨組みは、感情の外にある。冷え切った石の上に立つ今、私の足裏にその硬さが初めて頼もしく感じられた。
「異議申立手続きを、正式に請求いたしまする」
私は深く、しかし品を失わぬ角度で、再び頭を垂れた。
「潔白の証明には、三月の猶予をいただきたく存じます。領地エーデルシュタインに戻り、事実関係の精査と反証を整えたのち、貴族院査問会にて改めて申し開き仕る所存」
シュテファン侯爵が、満足げに頷いた。貴族たちの間から、同意のざわめきが静かに広がる。誰もが、この展開の異常さに気づき始めていた。悪役令嬢とされた女が、泣きも叫びもせず、貴族院法の条文を引いて猶予を求めている。その姿は、どの断罪劇の筋書きにもなかった。
エルヴィンの唇が震えた。何かを言い返そうとして、しかし口を開くたびに、それは閉じられた。光魔法の膜の下で、彼自身の僅かな理性が、私の申し立ての正当性を認めてしまっている——そう見えた。喉仏が一度、大きく上下する。彼の視線は、もはや私にも、リーゼロッテにも定まらず、玉座の脇に立てられた王笏の先端を、焦点なく彷徨っていた。
「……許可する」
絞り出すような声だった。
「三月の猶予を与えよう。査問会までの間、エーデルシュタイン領への滞在を認める」
広間に、遅れたざわめきが波のように広がった。私は再び頭を垂れ、踵を返した。
大理石の床を踏む靴音が、来たときよりも軽い。一歩、また一歩と、石の冷たさが踵から伝わってくるのに、不思議と体の芯は熱を帯び始めている。扇の陰から向けられる視線の温度が、確かに変わっていた。軽蔑ではなく、戸惑い。そしてほんのわずかな——敬意に似た何かが、そこに混じり始めている。
扉に差しかかったとき、私は一度だけ振り返った。
リーゼロッテと、目が合った。
ほんの一瞬だった。あの完璧に演出された憂いの仮面の下から、別の顔が覗いた。眉がわずかに寄り、唇の端が引きつる。聖印を握る指の関節が、白を通り越して青ざめていた。台本にない展開に直面した、生身の女の怯え。薄紅の瞳の奥で、苛立ちと計算とが素早く入れ替わる様が、遠目にもはっきりと見てとれた。
『見ましたよ、あなたの素顔』
心の内で、静かに告げる。次は、その顔を広間の全員に晒してみせる。法の骨組みの上で、一枚ずつ、あなたの光を剥がしていく。
重い扉が、私の背後で低い音を立てて閉じた。