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七度目の断罪、涙は捨てた

第1話 第1話

第1話

第1話

「——よって、セラフィーナ・フォン・エーデルシュタイン。貴女との婚約を、ここに破棄する」

七度目だった。

王太子エルヴィンの声が玉座の間に落ちる。冷たく、硬く、まるで勅令でも読み上げるかのように。声が大理石の壁に反射し、幾重にも重なって天井へ昇っていく。その残響が消えきらぬうちから、静寂が広間を満たした。誰もが息を詰め、次の言葉を待っている。その横で聖女リーゼロッテが目を伏せ、白い指先で胸元の聖印を握っている。控えめに震える肩、涙を堪えるように噛まれた唇——完璧な被害者の姿だった。長い睫毛の先に光る雫すら、計算され尽くした位置にある。あれは悲しみの涙ではない。観客に向けて配置された舞台装置だ。

私はその光景を、夢の中で繰り返し見た映像のように眺めていた。

大広間の高い天井からシャンデリアの光が降り注ぎ、居並ぶ貴族たちの宝飾品をきらめかせている。蜜蝋の甘い匂いが漂い、磨き上げられた大理石の床には炎の揺らめきが映り込んで、まるで足元にもうひとつの広間があるように見えた。誰もが私を見ていた。軽蔑、嘲り、あるいは哀れみ。扇の陰で囁き合う夫人たち、腕を組んで薄笑いを浮かべる若い貴族、目を逸らしながらも好奇心を隠しきれない令嬢たち。表情の種類は違えど、向けられる視線の温度はどれも等しく冷たい。

知っている。この光景を、私は知っている。

一度目は、何が起きたのかわからず泣き崩れた。膝が床に着いた音が広間に響いて、それが合図だったように嘲笑が広がった。二度目は必死に弁明しようとして、かえって醜態を晒した。言葉が震えて途切れるたびにリーゼロッテが心配そうに首を傾げ、私の狼狽が深まるほど彼女の慈愛が引き立つ構図だった。三度目は怒りに震え、四度目は諦めの中で無言のまま退場した。五度目も六度目も、結末は変わらなかった。何をしても、どう振る舞っても、この断罪だけは覆せない。

そう——思い込んでいた。

刹那、頭蓋の奥を灼熱が貫いた。

『——っ』

視界が白く弾け、膝から力が抜けかける。こめかみを押さえた指先が微かに震えた。シャンデリアの灯りが万華鏡のように散乱し、大広間の景色が歪んで見えた。耳の奥で高い音が鳴り響いている。心臓の鼓動が喉元まで跳ね上がり、呼吸が浅く速くなる。唇の内側を噛んだ。鉄の味が舌に広がり、それがかろうじて意識を繋ぎ止めた。

だが、これは痛みではなかった。

奔流だ。

堰を切った濁流のように、記憶が流れ込んでくる。セラフィーナ・フォン・エーデルシュタインではない、別の誰かの記憶。別の世界で、別の名前を持ち、別の人生を送った——前世の記憶が。蛍光灯の白い光、指先で滑らせる薄い板のような機械、画面の中で動く色鮮やかな人物たち。それらの断片が濁流に乗って押し寄せ、この身体の記憶と絡み合い、溶け合っていく。

『ああ——そうだ。私は、知っている』

ここは、物語の世界だった。

前世で幾度も画面越しに眺めた乙女ゲームの世界。プレイヤーが攻略対象との恋を楽しむための舞台装置として用意された箱庭。そして私——セラフィーナは、ヒロインの引き立て役として配置された悪役令嬢。

断罪は、この物語における確定イベントだった。どのルートを辿っても、どの攻略対象を選んでも、悪役令嬢は必ず糾弾され、排除される。それがこの世界の筋書き。

けれど、前世の記憶はそれだけではなかった。

リーゼロッテ。この世界で聖女と呼ばれ、光の祝福を受けた清らかな乙女と讃えられるあの女性。彼女の「浄化の祈り」——あれは浄化などではない。光属性の魔法を媒介にした感情操作。対象者の判断力を鈍らせ、好意を増幅させ、従順へと導く魅了の術。

ゲームでは描かれなかった裏側の設定が、前世の記憶とともに鮮明に浮かび上がる。公式サイトの開発者インタビュー、ファンが考察掲示板に書き連ねた推理の数々、そしてアップデートで追加された隠しルートで断片的に語られた真実。それらが今、ひとつの絵として組み上がっていく。

王太子エルヴィンが私を冷たく見据えるあの目。かつては剣術の稽古のあとに笑いかけてくれた、あの温かな琥珀色の瞳。今そこに宿っているのは彼自身の感情ではない。側近たちが異口同音に私の非を挙げるあの不自然な一致。すべてが、リーゼロッテの魔法によって歪められた結果だった。彼らは自分の意思で判断しているのではない。光魔法に感情を操られた操り人形に過ぎない。

そして——もうひとつ。

私の中に眠っていた、この世界の古い記憶。エーデルシュタイン家は単なる公爵家ではなかった。世界の均衡を守る古い血筋の末裔。聖女とは本来、その血筋から選ばれるべき存在だった。リーゼロッテは正統な継承者ではない。彼女の力は、どこか別のところから引き出されたまがい物だ。

頭痛が引いていく。万華鏡のように散っていた視界が、ゆっくりと焦点を結び直す。

大広間は変わらずそこにあった。シャンデリアの光、冷たい大理石の床、居並ぶ貴族たちの視線。王太子エルヴィンの氷のような双眸。リーゼロッテの完璧に演出された涙。

何も変わっていない。七度目の断罪は、寸分違わず同じ筋書きで進行している。

だが——私は変わった。

すべてを思い出した。この世界の成り立ちを。リーゼロッテの正体を。自分が何者であるかを。そして、六度の繰り返しで何が間違っていたのかを。

不思議なほど心は凪いでいた。涙は出なかった。怒りも、悲しみも、もはやこの断罪劇に差し出すつもりはなかった。胸の内にあるのは、湖底に沈んだ石のような静かな重み。六度分の感情はすべて使い果たした。七度目の私に残されたのは、透徹した認識だけだった。

かつての私は感情で応じた。泣いて縋り、怒鳴り、あるいは沈黙で抗議した。だがそのすべてが、この断罪劇の筋書きの中にあった。涙も怒りも沈黙も、悪役令嬢に許された振る舞いの範囲を一歩も出ていなかった。

『感情では、この舞台は壊せない』

玉座の間にエルヴィンの声が反響している。まだ続いていた。聖女リーゼロッテへの数々の嫌がらせ、学園での孤立工作、茶会での侮辱——覚えのない罪状が次々と読み上げられていく。私が反論するたびに、証人として貴族の子女が進み出て涙ながらに証言する手筈になっている。それも知っている。六度見た芝居だ。

一度目から六度目まで、罪状の文言は一字一句変わらなかった。リーゼロッテの涙を拭う仕草も、エルヴィンが眉を顰めるタイミングも、貴族たちが嘲笑をこぼす順番も。寸分の狂いもなく繰り返される光景は、もはや人の営みではなく、精密に組まれた歯車の回転に見えた。

だからこそ、確信できる。これは判断ではなく、演出だ。

エルヴィンが最後の罪状を読み終えた。大広間が静まり返る。蜜蝋の燃える微かな音だけが、天井の高みで揺れている。次の筋書きでは、私が泣き崩れるか、あるいは激昂して叫ぶ。どちらでもリーゼロッテが慈愛に満ちた声で「お可哀想に」と呟き、周囲の同情を一身に集める。

私はゆっくりと背筋を伸ばした。涙も、怒りも、見せるつもりはなかった。

ドレスの裾を軽く整え、一歩だけ前に出る。大理石の床を踏む靴音が、静寂の中で不自然なほど大きく響いた。その音が壁に跳ね返り、広間の空気を一瞬だけ揺らした。

エルヴィンがわずかに眉を動かした。想定外の反応に対する、微かな戸惑い。リーゼロッテの瞳が一瞬だけ鋭くなったのを、私は見逃さなかった。聖女の仮面の下から覗いた、剥き出しの警戒。それは六度の断罪では一度も見せなかった表情だった。

深呼吸をひとつ。胸の奥に残る前世の記憶の温もりを確かめるように。冷えた広間の空気が肺を満たし、吐き出す息とともに最後の迷いが消えていく。

そして、七度の断罪で初めて——私は問い返した。

「殿下。ひとつだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」

声は思いのほか静かに、しかし大広間の隅々まで届いた。天井の高みに吸い込まれていくその響きは、六度の繰り返しのどの声とも違っていた。震えも、怒気も、媚びもない。ただ真っ直ぐに、問いかけるための声だった。

エルヴィンの眉間に皺が寄る。台本にない台詞に対する困惑。その背後で、リーゼロッテの指先が聖印を握り直すのが見えた。白い指の関節が僅かに変色するほどの力で。

『怯えている。あなたの筋書きが、初めて狂ったから』

私は真っ直ぐにエルヴィンを見据えた。この七度のうち、初めて涙のない目で。かつて温もりを交わしたあの琥珀色の瞳に、今は光魔法の薄い膜がかかっている。それを見抜ける目を、私はようやく手に入れた。

「——殿下、その判断は、ご自身の意思ですか?」

玉座の間が、凍りついた。

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