第2話
第2話
馬車の扉が閉まる音は、舞踏会の喧騒を完全に切り落とした。
従者が黒塗りの扉を外から閉めた瞬間、大広間の残響も、石畳を往来する招待客のざわめきも、遠い水面の向こうに沈んだ。代わりに、車内の静寂が耳を圧してくる。四頭立ての馬が首を振る際に響く轡の金属音と、車体を支える板バネがゆるやかに軋む音だけが、私の世界を区切っていた。
座席の革に背を預けると、ひやりとした感触が肩甲骨まで這い上がった。ヴェルテンベルク公爵家の紋章が刺繍された膝掛けを引き寄せ、太腿の上に広げる。夏の終わりの夜気は、ドレスの薄い絹地を容易く貫いてくる。コルセットは肋骨の下縁を相変わらず押し上げていて、深く息を吸い込むたびに内側から鯨の髭が軋んだ。
「——出してちょうだい」
御者にそれだけ告げた。返事を確認するより早く、鞭の鳴る音が響き、車体が一度、前方へ強く引かれた。石畳を踏む蹄の乾いた打音が四重奏のように重なり始め、やがて一定の律動に収束していく。窓の外では王宮の白亜の壁が後方へと流れ、橙色の街灯が等間隔に光の粒を残していった。
指先はまだ、震えていた。
寒さではない。これは前世で何度も覚えた、あの震えだった。未盗掘の副葬墓の木棺を開けた夜。一階分の土砂を掘り下げた末に赤彩陶片の縁が日の光に晒された昼下がり。手の甲の産毛まで逆立つ、発見の予感。
『落ち着きなさい。まずは、見たものを正確に書き留める』
膝の上の小振りな夜会用バッグから、銀細工の扇と一緒に押し込んでおいた手帳と鉛筆を抜き取る。公爵令嬢の持ち物としては無作法な代物だったが、今夜ばかりはこれを忍ばせていた自分を褒めたかった。
鉛筆の先を唇で湿らせ——ああ、この動作も前世の癖だ——手帳を開く。揺れる車内で文字を書くのは、発掘現場のテントで台風をやり過ごしながら野帳を付けていた夜に比べれば、造作もなかった。
私は天井の紋様を記憶のままに写し始めた。
渦巻き。直線。二重の円弧。等間隔に配された六つの結節点。中心から放射状に伸びる十二本の補助線。その線の端に、また小さな紋様が鎖のように連なっていた。基本単位と思しき紋様は、確認できただけで十七種類。
書き終えたとき、紙の上の配列は、紛れもなく「文」の形をしていた。
『星詠みの聖女の魔法体系と、まったく違う』
前世でやり込んだ『星詠みの聖女』で描かれていた魔法は、ただ一つの系統で完結していた。聖女が天上から授かる「祝福」。それを媒介する神殿の祝祷。攻略対象たちが扱う剣技と、わずかな補助魔法。基礎原理は神意の伝達であり、術者から対象へ一方的に力が「与えられる」構造だった。設定資料集で読んだ教会の見解を、今でも一字一句思い出せる。——『聖女の祈りは天の慈悲を地に降ろす導管である』。
だが、あの天井の紋様は違う。
鉛筆の尻で、写した図の中心を軽く叩く。渦巻きと対になる逆巻きの渦。放射線と対になる収束線。対称性だ。記号の配列が、入力と出力の両方を想定している。
『双方向……循環、かしら』
呟いた声に、自分で頷いた。
前世で遺跡の紋様を分類したとき、真っ先に確認したのはその点だった。祭祀目的の紋様は、ほぼ例外なく一方向の構造を持つ。天と地を結ぶ縦軸、あるいは境界を画する閉じた円。対して、共同体内部の物流や暦を記録する紋様は、双方向の対称性を備えていた。与え、受け取り、再び与える循環の図形だ。
あの魔法陣は、後者の文法で書かれている。
ならば、あれは「祝福」とは全く別系統の魔法だ。神が人に授ける片道の奇跡ではなく、術者と世界のあいだで何かを循環させる技術。攻略情報が一行も触れなかった、古代の体系。
手帳の余白に、走り書きする。
——『聖女魔法:一方向/天授型。古代紋様:双方向/循環型。系統が異なる』
文字を書き終えた瞬間、馬車が石畳の段差を乗り越え、座席が軽く跳ねた。額が揺れた銅製の天井飾りに触れそうになり、慌てて身を引く。膝の上の手帳を両手で押さえながら、私は自分が微笑んでいることに気づいた。
前世で査読者から「仮説の飛躍が大きすぎる」と突き返された論文が、二本あった。そのどちらも、最終的には他の研究者の追試によって裏付けられた。——今度は査読者もいない。追試してくれる同業者もいない。仮説を育てるのも、潰すのも、全部この手一つだ。
窓の外を見る。王都の城壁をくぐり抜けた馬車は、もう郊外の街道に入っていた。街路樹の黒い影が等間隔に流れ、地平の端に残る王宮の灯りが、ひと握りの銀砂のように見える。あの灯りの下で、私を断罪した王太子は今ごろ、聖女と踊っているのだろう。
不思議と、胸は痛まなかった。
この身体の以前の主——本物のセラフィーナが抱えていた執着は、前世の記憶が蘇った瞬間に霧のように散った。残ったのは、十八年分の肉体の記憶と、公爵令嬢としての素養。語学、歴史、礼儀作法、そして魔術の基礎。
『そう。魔術の授業は、聖女魔法の初歩だけだった』
王立学院の魔術教本には、祝福の発動条件と媒介詞しか載っていなかった。古代の循環型魔法について、ただの一文も。教会の検閲か、あるいは単純に失伝したのか。前世の歴史学で言うなら、後者の方が圧倒的に多い。文字は読み手を失った瞬間から、加速度的に滅びていく。
手帳を閉じ、胸の上に押し当てた。指先でバッグの留め金を弄びながら、私は記憶の奥を探った。
ヴェルテンベルク公爵家。領都レーヴェンホルムの北翼に建つ、築三百年を越える本邸。その地下に——。
『書庫があったはず』
セラフィーナの記憶が、ゆっくりと像を結ぶ。幼い頃、父に連れられて一度だけ降りたことがある。螺旋階段を二階分下った先の、石灰岩を刳り抜いた巨大な空洞。湿気を嫌う古文書のために、四六時中、魔導の除湿具が低く唸っていた。棚は天井まで届き、梯子を動かしながらでなければ上段に届かなかった。
蔵書の大半は、建国期の行政文書と、初代公爵の治世録と、そして——誰も読み解けないまま保存されている古代文献。
当時の父は言った。「これらは読めぬとも、失われれば二度と戻らぬ。家が守る意味はそれだけで足る」。幼い私は退屈そうに頷いただけだったけれど、今になって父の言葉が別の重みを伴って蘇る。
『守ってくれていたのね。誰かが読み解く、その時まで』
指先が、また震えた。
地下書庫の古文書群の中に、あの天井の紋様に連なる手がかりがあるかもしれない。いや、必ずある。三百年保存されてきた膨大な未解読文献と、あの大広間の天井に刻まれた使用中の——まだ光る——魔法陣。この二つを繋ぐ糸が、どこかにあるはずだ。
私は膝の上で、両手を組み合わせた。絹の手袋越しに、指先同士が冷たく触れる。
当初の目的は、破滅の回避だった。ゲームの筋書きから逸脱し、国外追放を免れる。せいぜいその程度の目標で、地方の領地に引き籠り、身を慎んで時が過ぎるのを待つつもりだった。
けれど、違う。
回避は結果に過ぎない。あれを解く。誰も解けなかった古代の体系を、この手で読む。破滅を遠ざけるのではなく、未踏の領域を、踏む。
『——それが、私の、研究テーマ』
前世で論文の序章に幾度も書いた言葉を、心の中で言い直した。指導教授に「君の取り柄は執念だ」と呆れられた朝のことを、身体の奥が覚えている。三年掛けて掘り起こした遺構の、最後の層から無傷の銘文が出てきた夜明け前。東の空が薄紫に染まり始める、あの色。あの色を、もう一度、見たい。
馬車が大きく揺れて、我に返る。
窓の外はもう、完全な闇夜だった。王都の街灯は遠く沈み、街道沿いに点在する宿場の灯りだけが、遠ざかる蛍のように流れていく。公爵領まで、急ぎの駅替えでも二日はかかる。
二日。
考えることは山ほどある。仮説の整理、書庫への立入手順、両親への説明、使用人の配置、時間の確保。婚約破棄の報は早馬で明日には領都に届く。父の対応。母の取り乱し。社交界の余波。それら全てを捌きながら、同時に地下書庫での作業に入るための段取りを、頭の中で組み立て始める。
鉛筆を、もう一度握り直す。
手帳の裏表紙に、私は縦書きで一行記した。
——『第一段階:地下書庫、全古文書の目録化。期間、一ヶ月』
一ヶ月で読めるとは思っていない。だが、目録化なら可能だ。前世で助手時代に、大学の文書庫で半年かけて二万点を分類した経験がある。あの頃の私の手は、紙の厚みと黴の匂いで年代を当てられるようになっていた。あの手の感覚は、この身体にも移せるはずだ。
馬車が再び、街道の段差を踏んだ。車体が揺れ、座席の上で膝掛けが少し滑り落ちる。私はそれを拾い直し、窓の外に広がる公爵領の方角へ目を向けた。
星が、驚くほど多かった。
王都の光害では見えなかった、淡く細かな星々までもがそこに広がっている。どこかに、あの天井と同じ紋様の夜があるのだろうか。
『——ごきげんよう、過去の私。ここから先は、私が歩くわ』
車輪は、北へ、淡々と回り続けていた。