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断罪の後で、私は古代魔法を解き放つ

第3話 第3話

第3話

第3話

二日の旅路の終わりに、公爵領レーヴェンホルムの領都を囲う樫の並木が見えてきたとき、私はまだ手帳の最後の頁に目を落としていた。

 街道の砂塵が窓枠の隙間からわずかに吹き込み、紙の端を黄色く染めている。鉛筆で書き付けた十七種の基本紋様は、二日かけて三十二種に増えていた。思い出すたびに像が鮮明になり、新しい変異記号が浮かび上がってくる。王宮の大広間から遠ざかれば遠ざかるほど、逆にあの天井は私の網膜に焼き付いて離れなかった。

 馬車が速度を落とした。蹄の律動が減速し、石畳特有の硬い反響が鋼の箱枠に伝わってくる。窓の外では、鉛色の瓦を戴いた邸宅の尖塔が木立の上にせり上がり始めていた。築三百年のヴェルテンベルク公爵家本邸。この身体の、十八年分の帰るべき家だ。

 けれど、身体が自動的に覚えていた安堵は、もうどこにもなかった。

 私は手帳を膝のバッグに収め、銀細工の留め金をきつく閉めた。指先が微かに痺れている。旅の疲労ではない。王都から遠ざかる二日のあいだ、私はほとんど食事を摂らなかった。駅替えの宿で宿番が運んできた麦粥の匙を、二口運んだところで手が止まり、そのまま手帳に戻してしまうことが三度続いた。

『——興奮しすぎね、私』

 自分を苦笑いで宥める。発掘現場で徹夜した翌朝、助手の同期が私の隈を見て笑った顔を思い出す。「食べないと倒れるよ」。あの声が、遠い世界の窓越しに聞こえた気がした。

 車寄せの玉砂利を踏む音が高まり、馬車は玄関前の大階段の前で止まった。扉が外から開かれる。差し込む光は、王都のそれより白く、北の土地特有の硬質な明るさを帯びていた。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 執事のコンラートが差し出した手を取って降り立つ。彼の手袋は染み一つなく、私の手を支える角度は何十年と変わっていない。けれど、その視線が一瞬、私の顔に留まって揺れるのを、私は見逃さなかった。

 ——報せは、もう届いているのだ。

 玄関広間の白大理石を踏んだとたん、父の声が上階から降ってきた。

「セラフィーナ、書斎へ」

 抑揚の削ぎ落とされた、抜身の刃のような声。私は旅装のまま、螺旋階段を上がった。

 父の書斎には、先に母もいた。ヴェルテンベルク公爵オスカー・フォン・ヴェルテンベルクは窓を背に、夏の終わりの光を肩に載せて立ち、母エレオノーラは暖炉脇の長椅子にすでに腰を下ろしていた。母の目許は赤く、化粧の下の泣き跡が微かに粉を浮かせている。私が室内に入ると、母は半ば立ち上がりかけ、けれど父の視線に制されて、また沈むように座り直した。

「状況は」

 父がそれだけを問うた。私は旅の埃を払いもせず、王宮大広間での一部始終を、罪状の列挙から退出までを、淡々と時系列で述べた。感情の解釈は加えなかった。前世で教授に状況報告を求められたときと同じ流儀だ——事実を先に、評価は後に。

 父は最後まで口を挟まず、私の言葉が途切れると窓に向き直り、しばらく庭の方を眺めていた。夏薔薇の終わりの、わずかに黒ずみ始めた花弁が風に揺れている。

「——王家は、聖女の権威を固めるために我が家を使った。想定の範囲だ」

 父の背中が、初めて鈍い疲労を見せた。

「徴税権の一部返上、国境警備隊の指揮権移譲、それと——縁談の白紙化に伴う違約金の請求。明日、王宮の使者が条件書を持って参る。二ヶ月、社交界は凌がねばならん」

『二ヶ月で、家の体面を立て直す見取り図を作った、ということね』

 私は父の横顔に、前世の指導教授の癖を重ねた。最悪の事態を先に計算し、次に退路を引く人間の呼吸。嘆きはしない。この人は、嘆く暇を自分に与えない。

「セラフィーナ」

 長椅子の母が、震える声で私の名を呼んだ。絹のハンカチを膝の上で握りしめ、縁飾りの刺繍が指の力でほつれかけている。

「……北のマインハルト辺境伯の次男が、まだ独り身でいらっしゃるの。三十二歳で、確かに少しお歳だけれど、堅実で、学問を好まれる方だと聞いたわ。今すぐではなくても、一年、二年のうちに、新しい縁を——」

 母は最後まで言い切る前に、扇で口許を覆った。覆っても、声の端が裂けていく。母にとって社交界は信仰だ。娘を王太子妃にする席を取り損ねたことは、信仰の喪失に等しい。

 私は母の前に歩み寄り、長椅子の脇に膝を軽く曲げて目線を合わせた。

「お母様」

 絹の手袋の上から、母の手を取った。震えている指が、私の掌の中で一瞬だけ止まった。

「そのお話は、お受けいたしかねます」

 母の目が見開かれる。扇が膝の上に落ちた。

「どうして。あなた、この家を背負う覚悟があるのでしょう。なら——」

「背負いますとも。ただ、縁談ではない方法で」

 声を落とした。部屋の反対で父が身じろぎする気配を、背中で感じる。

「しばらく、領地に留めていただきます。王都には、もう戻りません。社交界の復帰は、少なくとも数年は望みません。代わりに——地下書庫の利用と、夜間の燭台と、侍女一人。それだけ、お許しいただきたいのです」

「書庫、ですって」

 母の声が震えた。娘の気が触れたと疑っている顔だった。私は微笑んで、母の手の甲を、絹越しに一度だけ撫でた。

「お母様。私、断罪されても涙ひとつこぼさなかった娘ですよ。ご心配には及びません」

『——むしろ、今日まででいちばん、生きている心地がしているわ』

 心の声は、口には出さなかった。

 父が窓辺から振り返った。窓の光を背負ったまま、父の顔は逆光で表情が読み取れない。けれど、その沈黙は、王宮の糾弾とは全く別の質を帯びていた。

「お前が選ぶ道なら、好きにしろ」

 父はそれだけ言った。声は低く、短く、けれど私の身体の芯まで届いた。

「ただし、家名を汚すな。——これは、父としてでなく、公爵としての言葉だ」

「承知しております、お父様」

 私は深く、公爵令嬢としての最も丁寧な角度で頭を下げた。旅装のドレスの裾が、絨毯の薔薇模様の上に広がった。

 書斎を辞し、自室で湯浴みを済ませ、粗い麻のガウンに着替える頃には、本邸の時計塔が十一時を打っていた。窓の外、庭園の向こうの森は完全な黒の帯になっていて、林冠の上にだけ、月の薄い輪が懸かっていた。

 私は燭台を一つ手に取り、ゆっくりと部屋を出た。

 螺旋階段を二階分下り、厨房脇の通用口を抜け、石灰岩の廊下を奥へ進む。途中で一度、侍女のマルテとすれ違った。年若い侍女は私の燭台を一瞥し、何かを言いかけて、結局何も言わずに深く頭を下げた。

『賢いのね、あなたは』

 心の中だけで礼を言った。

 地下書庫の扉は、記憶より小さく、そして重かった。鉄の把手を両手で引くと、湿気を嫌う魔導具の低い唸りが、扉の隙間から這い出してきた。足を踏み入れた瞬間、皮膚が一度に冷えた。乾いた石と、古い羊皮紙と、かすかな樟脳の匂い。——これは、前世の文書庫と、同じ匂いだ。

 燭台を掲げる。石灰岩の天井まで届く書架が、闇の奥へ、どこまでも続いているのが見えた。棚一面の背表紙は、金箔が剥げ、革が白く粉を吹き、題字の読めないものがほとんどだ。幼い日に父と降りたとき、梯子で届かなかった上段の棚が、今日は梯子なしで視線の高さに収まっている。身体が、大きくなっていた。

 私は最も手近な書架に歩み寄り、指先で背表紙の埃を一本、撫でた。指先が灰色になる。前世の手の感覚が、肌の下で蘇る——このくらいの黴と湿気の抜け具合なら、二百年は下らない。紙ではない。羊皮紙だ。

 一番下の段の、手前の一冊。なぜそれを最初に選んだのか、自分でも説明できない。前世の発掘現場で、何十と並んだ木棺のうちどれを最初に開けるか、身体が勝手に決めた夜と同じ感覚だった。

 両手で、その一冊を引き抜いた。

 革の表紙は指先の下でわずかに撓み、背の糊が乾いた音で鳴った。床に膝をつき、燭台を脇に置き、そのまま表紙を開く。

 扉頁の、中央。

 古代語の掠れた銘文の下に、一つの図が描かれていた。

 渦巻きと、逆巻きの渦。放射線と、収束線。

 ——王宮大広間の天井で、蒼く明滅した紋様の、確かにその一部が、そこにあった。

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