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婚約破棄、辺境にて開花す

第2話 第2話

第2話

第2話

馬車の車輪が石畳の継ぎ目を拾うたびに、肘掛けに置いた手が微かに揺れた。

王都の大門を出てから、もう半刻が経っている。

旅装に改めたドレスの襟元は高く、公爵家の徽章を刻んだ銀の留め具が喉のすぐ下で光っていた。その留め具の冷たさを、私は無意識に指先で確かめていた。昨夜の宴が終わって以降、姿勢を崩したことは一度もない。背筋を伸ばし、膝を揃え、両手を膝上に重ねる——令嬢としての基本姿勢を、誰も見ていないこの箱の中でも続けていた。

窓の外では、王都の街並みがゆっくりと遠ざかっていく。朝霧に霞む塔の影、市場へ向かう荷車、井戸端で水を汲む女たち。それらのすべてが、もう私とは関わりのない風景になろうとしている。

御者台の向こうで、御者が軽く手綱を捌いた。馬車はやや速度を上げ、郊外の街道へ入っていく。石畳が砂利へ、砂利が固い土へ——路面が変わるたびに、車輪の音も微かに変わった。

……もう、見えない。

城壁の尖塔が森の陰に隠れたのを確認して、私はようやく右手を上げた。指先で頬に触れる。冷たい。一睡もしていない頬は、紙のような温度になっていた。

深く、息を吐いた。

すると、頬の筋肉が痙攣するように震えた。完璧な微笑を保ち続けていた筋肉が、ようやく本来の位置を思い出したらしい。私は片手で口元を覆った。笑いが漏れたのか、あるいは別の何かが漏れそうになったのかは、自分でも判然としない。

「……長かった」

唇からこぼれたのは、その一言だった。

座席の隅で両膝を抱えるような、令嬢にはあるまじき姿勢を、私はほんの一瞬だけ自分に許した。それから背筋を戻し、膝掛けを整える。

旅は長い。北のヴァイセン領まで、最短でも十四日はかかると聞いていた。

馬車の揺れに身を委ねながら、私は六年間のことを、初めて順に思い返した。

十歳で婚約が決まった日、父は私の肩に手を置いてこう言った。「この国で二番目に尊い椅子が、おまえのものだ」。母はすでに亡く、父は私を娘ではなく公爵家の一部として扱っていた。私は頷いた。拒むという選択肢があることすら、当時は知らなかった。

それから私は、王太子という人物を観察し続けた。観察し、合わせ続けた。

アルベルト殿下は、紅茶に砂糖を三つ入れる。彼の前で紅茶を嗜むときは、私も三つにした。殿下は狩猟の話を好む。ゆえに私は、嫌悪感を抑えて狩猟学の書を三冊読み込み、猟犬の品種と鹿の生態について会話できるようにした。殿下は詩人を気取る癖があり、自作の詩を披露するのを好む。私は宮廷詩集を十二冊暗記し、いつどの一節を褒めれば彼が最も満足するかを把握した。

殿下が好む菓子の種類を、私は十四通り記憶していた。

殿下が嫌う話題は、二十六項目。

殿下の機嫌の波を、私は彼の足音の響きだけで予測できるようになっていた。

そして——殿下は、私の好きな花の名前を知らなかった。

茶会の席でふとそれに気づいたのは、婚約して四年目の春だった。侍女が庭の薔薇を卓に飾ったとき、殿下は「セレスティーナは花がそれほど好きではないのだろう。書物ばかりの令嬢だからな」と笑って仰った。私は学問を愛する令嬢などではなかった。ただ、殿下が好む話題を絶やさぬために、毎夜父の書斎の蝋燭を継ぎ足していただけだ。花は、好きだった。幼い頃、母が庭で育てていた白い鈴蘭の香りを、まだ覚えていた。

けれど私は、その場で微笑んで頷いた。「ええ、殿下の仰る通り」——と。

その一言を口にした自分のことを、今もよく覚えている。

殿下の誕生日に贈った絹のマフラー。王妃陛下の肖像画の前で、一時間立ち尽くして髪型を研究した午後。殿下が戦史に興味を示したと聞き、古の戦術書を六冊取り寄せて読み込んだ夜。そのどれもが、振り返ればすべて一方通行だった。殿下からの贈り物は、公式行事における形式的な花束が数度きり。それすら選んだのは彼ではなく、側近だったと後で知った。

私は馬車の天井を仰いだ。

怒りはなかった。悲しみも、もう薄い。ただ一つ、強い疲労だけが胸に残っていた。六年間、私は一体何を育てていたのだろう。二番目に尊い椅子のために、私は自分の好みをひとつずつ捨てていった。白い鈴蘭も、幼い頃に熱中した星図の写本も、北方の寒冷地農法を論じた古い論文を面白いと感じた自分も——全部、奥の抽斗に仕舞った。

仕舞ったままの抽斗を、今ようやく開けていいのだ。

十四日目の夕刻、馬車はついに北の国境を越えた。

景色は徐々に変わっていった。豊穣な麦畑は減り、痩せた牧草地が広がる。石造りの村が木造の集落に変わり、やがて、集落そのものがまばらになっていった。空は高く澄んでいたが、風はすでに夏のものではなかった。秋の気配を通り越して、冬の舌先が頬を舐めていくような冷たさがある。

「お嬢様、まもなくヴァイセンの境界にございます」

御者の声が窓越しに届いた。私は窓の革帯を下ろし、外を覗いた。

目の前に広がったのは——灰色だった。

なだらかな丘陵の連なりは、初秋だというのに既に枯れ色を帯びている。畑らしき区画はいくつか見えたが、耕された形跡は古く、雑草が膝丈まで伸びていた。遠くに集落の屋根が見えるが、煙突から立ち上る煙は数えるほどしかない。街道の両脇には、かつて植えられたらしい白樺の並木が、半ば枯れたまま取り残されている。

旧領主の館だという建物の前で、馬車は停まった。

石造りの二階建て。屋根の一部が崩れ、正面玄関の扉は蝶番が歪んでいた。かつて庭だった場所には雑草が茂り、石の噴水は水が涸れて、底に枯葉が堆積している。玄関脇の壁には、前領主の紋章を削り取った跡が白い傷として残っていた。——逃げる際に、削っていく余裕すらあったらしい。

「これは……」

侍女のマリアが、言葉を詰まらせた。王都からただ一人、私に付いてきてくれた古参の侍女だ。老いた肩が、微かに震えている。

私は馬車を降り、玄関までの七歩を歩いた。石畳は割れ、雑草が縫い目から突き出している。風が前方から吹きつけ、枯葉を足元に運んできた。乾いた葉の匂いと、どこか遠くから漂う家畜の臭気が混じり合っていた。

崩れかけた扉の前で、私は一度立ち止まった。

指先を扉の木目に這わせる。長年風雨に晒された木肌はささくれ立ち、触れると乾いた棘がほんの少し指に刺さった。この痛みが、現実の温度だった。大広間の燭台の熱でも、絹のドレスの滑らかさでもない、荒れ果てた辺境の触感だった。

そして私は、静かに笑った。

声は立てなかった。ただ、肩が微かに揺れるだけの、内側に向かう笑いだった。

「——これが、殿下の恩情」

呟きは風にさらわれた。マリアが心配そうに背後から私を見ている気配がする。

恩情。結構な恩情であった。半ば朽ちた館、耕されていない畑、逃げ出した前領主。これを与えることで、王太子は己の「寛大さ」を満たしたつもりなのだろう。そして同時に、二度と社交界に戻ってこられぬよう、私を地図の端へ押しやったつもりなのだろう。

けれど——と、私は乾いた棘を指先から抜いた。

与えられたのが朽ちた館と荒れた土地であるならば、磨くべき対象が明確だということだ。何もない場所で、私は何かを作ればよい。王太子妃という椅子のために削ってきた六年間とは違う。この土地は、私が手を掛ければ掛けただけ、応えてくれる。

冷たい風が、束ねた髪の後れ毛を揺らした。

「マリア」

私は振り返らずに侍女の名を呼んだ。

「明朝、村長のもとへ使いを出してちょうだい。新しい領主として、挨拶に伺うと」

「……かしこまりました、お嬢様」

マリアの声は、まだ戸惑いを含んでいた。

私は館の扉に手を掛けた。歪んだ蝶番が軋み、抗うような音を立てる。両手で押すと、ようやく半ばまで開いた。中から、長らく閉ざされていた空気が——黴と埃と、そしてかすかな冬の気配の混じった空気が——溢れ出してきた。

一歩、踏み込んだ。床板が鳴った。

振り返ると、遠く離れた丘の向こうに、小さな灯りが二つ、三つ、揺れているのが見えた。集落の家々に、夜の火が入り始めたのだろう。あの灯りの下にいる誰かが、明日、この朽ちた館の新しい主と顔を合わせることになる。

歓迎されぬことは、もう分かっていた。

それでも、構わない。歓迎されぬ場所で歓迎される人間になる——その仕事を、私はこれから始める。軋む扉を閉めようと両手に力を込めると、古い木は最後に一度だけ大きく鳴いて、私を辺境の闇の側へと迎え入れた。

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