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婚約破棄、辺境にて開花す

第3話 第3話

第3話

第3話

館の奥の書斎で目を覚ましたとき、最初に鼻をついたのは黴の匂いだった。

昨夜、マリアと二人で辛うじて片付けたのは玄関広間の片隅と、書斎の長椅子の周りだけだった。旅装の毛布にくるまって浅い眠りを取ると、夜半に幾度か床板の軋む音で目を覚ました。古い家が自分の重みに耐えかねて鳴る音と、鼠の足音と、それから風が壊れた窓枠を叩く音とが、代わる代わる耳に届いた。

「お嬢様。井戸の水を汲んでまいりましたが、刺すような冷たさでございます」

マリアが木の器を差し出した。受け取って顔を洗うと、指先から手首までが一瞬で痺れ、頬の産毛が逆立った。水を滴らせたまま鏡を覗き込む。王都で見慣れた顔が、そこにあった。眉間にも頬にも、まだ公爵令嬢の線がきちんと引かれている。

「今日は、旅装の茶のほうを。それから、首飾りは外してちょうだい」

「ですが、領主様のご挨拶にございますよ」

「挨拶をするのは私から、です。向こうが拝謁するのではないわ」

マリアは口を結び、黙って首飾りの留め金に手を掛けた。

昨夕、使者を立てて村長に「明朝、領主館までご足労願いたい」と伝えさせた。使者は気まずそうに戻ってきて、「承知した、とは仰いませんでしたが、拒みもされませんでした」と目を伏せた。つまり、来ない。私は諾否を待つ側に回ったつもりはなかった。待たれぬ者を呼び寄せるより、こちらから歩いて行く方が早い。

乗馬袴の裾を長靴の中に収め、上衣の肩紐を二度結び直した。公爵家の徽章の代わりに、首元には黒いリボンを結ぶ。鏡の中の自分が、ほんの少しだけ知らない顔に見えた。

館から村までは、半里ほどの下り坂だった。

石敷の道は所々で崩れ、幅のある轍はほとんど残っていなかった。歩くたびに、革靴の底に小さな石が食い込む。マリアは遅れまいと息を切らしていたが、私の歩幅はどうしても広くなった。六年間、舞踏場の歩幅しか許されてこなかった足が、坂道の傾斜を喜ぶように伸びていく。

道の中ほどで、最初の畑に行き当たった。

一面に枯れた麦の茎が立ち尽くしている。穂はすでに落ち、茎だけが痩せたまま風に傾いでいた。畝の間には雑草が根を張り、土は白茶けて乾いている。しゃがんで一握り掌に取ると、指の間から粉のように零れ落ちた。水気も、腐葉の香りもない。塩を吹いたような感触だけが、掌に残った。

「……酷いわ、これは」

マリアが呟いた。私は頷かず、土を畝に戻した。

さらに下ると、石組みの灌漑水路にぶつかった。幅三尺、深さ二尺ほど。本来なら山の雪解け水を畑へ導くはずのものだ。けれど底を覗き込むと、泥と枯葉が堆積しただけで、水の跡は乾いていた。堰を支えていたらしい横木が朽ち落ち、石組みの一部も崩れている。上流側に辛うじて一筋の淀みが残り、下流は完全に干上がっていた。

帳面を取り出し、小さく書き留めた。崩壊三箇所。堰の位置。勾配。

村の入口まで来たとき、煙突の煙が七本しか立っていないことに気づいた。木柵で囲まれた二十戸ほどの集落。井戸端で水を汲んでいた老婆が、こちらを一瞥し、無言で桶を下げて背を向けた。鋤を握っていた若者は、目だけ寄越してすぐ土へ戻った。

広場の真ん中、一段高い石の上に座っていたのが村長だった。

白髪混じりの頭髪、日に焼けた顔。六十に近いだろうか。私が歩み寄っても立ち上がらず、被った帽子の縁を上げ、片目だけを細めた。

「おまえさんか。新しいご領主って話は、伝令から聞いとる」

敬称はなかった。けれどそこにあったのは怒りではなく、長く続いた諦めの色だった。私は一歩進み、完璧な礼を取った。

「セレスティーナと申します。アーデルハイト公爵家の娘にて、本日より、この地の領主として参りました」

「……公爵家のお嬢様がな。こんな土地に、何をしに」

「立て直しに参りました」

「立て直す、ねえ」

村長は帽子を被り直し、ゆっくりと息を吐いた。

「前のご領主様も、最初はそう仰ったんだわい。三月持った。その前は半月。もうひと方は一年近く居られたが、冬の初雪で逃げなすった。ご領主様ってのは、雪より脆いお方らしい」

悪意ではなかった。繰り返し裏切られてきた者の、乾いた声だった。周囲の家々の扉の陰で、幾人かの気配が息を潜めているのが分かる。ここで何を口にしても、紙のように流されることも、分かった。

「村長殿」

私は帳面を閉じた。

「先ほど下の水路に、崩れた箇所を見ました。もう少し仔細に見たいのです。ご案内いただけますか」

「……水路、ですかい」

「堰の具合、勾配、漆喰の残り具合。直に触れぬことには、見積もりが立ちません」

村長は顎を撫でた。断る理由を探したのだろう、しばらく沈黙があった。それから、のそりと立ち上がった。

再び坂を戻る。日が中天にかかる頃、先ほどの崩壊箇所に戻り着いた。私は帳面と鉛筆をマリアに押し付け、上衣の袖を肘まで捲り上げた。

「お嬢様」

「下がっていてちょうだい。足元、汚れます」

乗馬袴の裾を膝上まで折り上げ、片足を水路に下ろした。布靴が泥に沈む。冷たい。山の雪解けを含んだ泥は、秋口とは思えぬ鋭さで、布越しに足首までを凍らせた。もう一方の足も下ろすと、泥は膝のすぐ下まで達した。両手を袖口から抜き、崩れた石組みの隙間に指を差し入れる。爪の間に泥が噛み込む感触。石の継ぎ目には、漏水を塞いだ漆喰の残骸が、辛うじて鱗のように張り付いていた。

「この水路、使われなくなって幾年になりますか」

振り返ると、村長が口を半開きにして、泥の中の私を見下ろしていた。

「……七年」

「堰が崩れたのは」

「四年……いや、三年前の春の増水じゃ」

石そのものは粗い花崗岩で、筋は悪くない。継ぎ目の漆喰が風化しているが、組み直せば使える。朽ちた横木の位置を指でなぞり、堰の高さと流路の傾きを目で測る。泥の冷たさで脹脛が痙攣を起こし始めたが、私はもう一つ上流の石にも触れた。

「上流に、水源の泉が?」

「山の中腹に、湧き水が。じゃが途中で沢に合流しとるで、雪解けの時期は決まって氾濫する」

「沢の流れを逸らし、水源から直に引けば、氾濫は防げます。堰の位置をここから二十歩ほど上流に移せば、勾配も取り直せる」

村長が、黙った。

私は水路から這い上がり、泥の染みた掌をマリアの差し出す布で拭った。指がほんの僅かに震えていたのは、寒さのせいだ。背筋だけは、まだ伸びていた。

「整備には石工が要りますね。近隣に心当たりは」

「……山向こうに、一人だけ、まだ生きとる者が」

「使いを立てます。工費は領主として、私が負担します」

村長が、帽子を取った。

昨日までの彼の振る舞いからすれば、ごく僅かな動作だった。けれど私は、帽子というものが、貴族の前でない誰にでも容易には取られないことを知っていた。六年の婚約期間に叩き込まれた所作のひとつひとつが、その一動作の重みを教えてくれる。

「……ご領主様」

村長は一度言葉を切り、喉の奥で咳払いをした。

「本気で、この地を——」

「ええ、本気です」

私は泥に汚れた袖を伸ばしたまま答えた。

「三月で帰ったりはいたしません。半月でもない。私はこの地に、骨を埋めにまいりました」

骨を、と村長は繰り返し、白い髭を幾度も揺らして頷いた。

「そりゃあ……そりゃあ、難儀でございますなあ」

難儀、という一語が、この地に積もり続けた疲労と、ほんのひとしずくの期待とを、同時に運んできた気がした。私はもう一度礼を取り、踵を返した。泥の重みを引きずったまま、坂道を上る。

午後のうちに、石工への書簡と、途絶えた交易路の調査の段取りをつけねばならない。けれど坂の半ばで、私はすでに察していた。公爵家から持ち出せた手許金だけでは、堰も、道も、麦も、何一つ満足には買えない。

手を、借りねばならない。

坂を上りきる寸前、私は一度だけ北の空を振り返った。遠く、山並みの向こう。地図の上で、指先が何度もなぞった領地の名が、今は乾いた泥の下でひそかに熱を持っていた。

ノルデンシュタイン。北辺境伯ヴォルフの領地は、ここから早馬で二日の距離にあった。

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