第3話
第3話
蒼い払暁の冷気が、鎧戸の隙間から私の枕辺に滑り込んでいた。
マルタが黙って差し出した白磁の盥に、両手を浸す。湯ではない、井戸から汲み上げたばかりの冷水。指先を凍らせ、瞼を引き締めるための、ヴァルトシュタイン家の婦人が出頭の朝に行う作法だった。
「お嬢様、髪を」
私は背筋を伸ばし、鏡台の前に座った。マルタの櫛が、水気を含んだ茶色の髪を一房ずつ梳いていく。彼女は何も問わない。書状の中身も、勅使の用件も、私が答えなかったことを承知している。代わりに彼女の指は、いつもより一段だけ深く頭皮に触れた。それが慰めの代わりだった。
胸元に銀の鎖を回す。母の護符の硝子に、朝の光が宿って小さく揺れた。
「父上は」
「夜半より、王宮に呼ばれておいでです。お戻りはございません」
櫛の音が、半拍だけ遅れた。それが答えだった。父は、私の出頭の前に切り離されている。
私は深紅の式典服を選ばず、灰青の地に銀糸の刺繍を入れた地味な絹織を選んだ。罪人めいた色は王子の手に塗り絵を渡すようなものだ。出頭する者の格を、こちらから整える。袖口を留める螺鈿の留具を、マルタが指先で確かめた。
馬車に乗り込む直前、玄関広間で妹のアネットと擦れ違った。寝衣の上に肩掛けを羽織った姿だった。妹は私を見上げ、口を開きかけ、結局何も言わずに視線を床へ落とした。憐れみではなく、怯え。妹がもう何かを知っているのだと、その瞬きで分かった。
「行ってまいります、アネット」
返事はなかった。ドアが閉まる音だけが、私の背中を押した。
王宮大広間の白い両扉が、内側から開かれた。
楽器の音はない。香もない。あるのは、両側に整列する貴族たちの視線と、奥の玉座前に組まれた陪席の長椅子に腰を下ろす聖職者たちの黒い法衣だった。私の足音が大理石を鳴らすたび、扇の揺れが波紋のように広がっていく。天井の薔薇窓を透かした朝陽が、床の紋章石に斜めの格子を落とし、私はその格子の縦線を一本ずつ踏み越えるようにして中央へ進んだ。左手の柱の陰で、誰かが扇の陰から息を呑む音がした。右手の遠い隅では、若い令嬢が袖で口元を隠したまま、視線だけをこちらに固定している。広間に満ちた沈黙は、静寂ではなかった。百の呼気が同時に止められて、天井の高みで凝り固まっている、重たい沈黙だった。
中央に進み出て、規定通り片膝を折った。絹の膝が石に触れた瞬間、ひやりとした冷たさが骨の奥まで抜けた。
「ヴァルトシュタイン公爵家、レティシア。第二王子殿下のお召しにより、罷り越しました」
「面を上げよ」
クラウス殿下の声は、夜会で耳にしたどの瞬間よりも硬かった。顔を上げると、玉座の二段下に殿下が立ち、その斜め後ろに淡い金髪の聖女候補リーゼロッテが控えていた。彼女の手には、白絹に包まれた何かが捧げ持たれている。殿下の青い瞳は私の顔を見ていなかった。正確には、私の額の一点——貴族の紋を刻んだ位置——だけを見ていた。そこを削ぎ落とすために視線を据えているのだと、すぐに分かった。
「レティシア・ヴァルトシュタイン。汝に三つの嫌疑がある」
殿下の指が、一本ずつ立てられていく。ひとつ、ふたつ、みっつ。指が立つたびに、広間の左半分で小さな衣擦れが起きた。誰かが身を乗り出し、誰かが隣に耳打ちをする気配。
「一、聖女候補の食卓に毒草を混入させた疑い。二、神殿の聖典写本を切除した疑い。三、王家の血統に関わる文書を私的に閲覧した疑い」
広間の空気が、ひと巡り凍った。三つ目の嫌疑が読み上げられた瞬間、陪席の端で老貴族のひとりが、ほんのわずかに背を反らした。血統、という言葉が持つ重さを、その年代の者だけが正しく量れる。
私は唇を動かさなかった。三つとも、私には覚えがない。けれど筋書きは即座に組み上がる。一つ目の毒草は、私が夜会で読んでいた灌漑書の頁を「薬草の頁」と曲解すれば成立する。二つ目は、母が神殿に寄贈した写本を、誰かが切り取ったのだ。三つ目は——書斎で父が私だけに見せてくれた族譜を、覗いていた目があった。
筋書きが見えた瞬間、私はかえって楽になった。これは私を裁く儀式ではない。私を「裁いた」という事実だけが必要な舞台だ。脚本は既に書かれ、配役も終わっている。私は自分の台詞を、自分の速度で喋ればいい。
「証拠を、提示いたします」
リーゼロッテが進み出て、白絹を解いた。中から現れたのは、乾いた紫の花弁と、頁の縁が荒く切られた革表紙の写本、そして黒い封蝋の押された封筒。彼女の薄い唇が、わずかに引き結ばれていた。憎悪ではない。儀式に従事する祭司の顔だった。白絹の上で花弁が震えたのは、彼女の指が震えたからだ。それを見逃さなかった自分に、私は小さく驚いた。
「殿下、これらは私の手元から発見されたものではございません」
私は静かに告げた。声を震わせない。語尾を上げない。広間の一番奥の壁に届く、ちょうどの大きさで、一音ずつ置いていく。
「ヴァルトシュタイン公爵家の名にかけて、申し上げます」
「家の名で」
殿下が片頬で笑った。口の端だけが引き上げられ、目は笑わない。そういう笑い方を、この人がいつ覚えたのか、私は知らなかった。
「魔力を持たぬ嫡女が、家の名を語るか」
笑い声が、広間の左半分から起きた。けれど右半分は黙していた。古い貴族家、辺境の領主たち。私の言葉の重さを量る目が、確かにあった。彼らの沈黙は同意ではない。判断の保留だ。判断を保留できる者がまだ広間に残っている——その事実を、私は胸の奥に小さく書き留めた。
「殿下」
長椅子の中央から、神殿の高位聖職者が立ち上がった。白に金糸の祭服。神官長アルブレヒト猊下。
「嫌疑の三件は、いずれも当事者証言に依る物。物証は当人の管理外で発見されたものばかり。爵位剥奪を申し渡すには、神殿としては不足を感じまする」
殿下の眉が、わずかに動いた。だが彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、神官長の前に翳した。
「父上の裁可は、すでに頂いた」
国王陛下の朱印。広間が再び沈黙した。神官長は羊皮紙を一瞥し、目を閉じた。彼は一度だけ私を見て、それから玉座のほうへ向き直った。その一瞥に含まれていたのは、謝罪でも憐憫でもなく、ただ「覚えておく」という意志だった。神殿は、抵抗しない。最初から、抵抗するつもりがない設計だった。けれど、記憶はする。それだけを、猊下は私に差し出した。
「レティシア・ヴァルトシュタイン」
殿下の声が、台本の最後の頁を開いた。
「汝の公爵令嬢の位を剥奪する。ヴァルトシュタイン公爵家の本領継承権を放棄させ、北方辺境領ヴァルトシュタイン荒廃地区の代官として、明朝、王都を発つことを命ずる」
辺境領の名前を、私の家の名と同じ音で呼ぶ。家から名を剥がし、土地の名前だけを残して私を埋める。誰が考えた筋書きか、巧緻だった。音だけを残す。音は空洞だ。空洞に何を詰め直すかは、詰める側の自由になる。
「異議は」
「ございません」
私の声は、自分でも驚くほど凪いでいた。
殿下が一瞬、黙った。彼が望んだのは、私の絶叫か、涙か、命乞いだったのだろう。それらを与えないことが、私が今日この広間に持ち込めた唯一の武器だった。
陪席のどこかから、押し殺した嘲笑が漏れた。それを合図に、広間の左半分が再び波打ち始める。アネットが——いつの間にか後方の臨席席に座っていた妹が——両手で口を覆い、肩を震わせていた。憐れみでも怯えでもない。安堵だった。「自分ではなかった」という、ただそれだけの安堵。その安堵を責める気は、もう湧かなかった。妹は妹で、別の筋書きの中を生き延びねばならない。
私は片膝を折ったまま、目を伏せた。
胸元の護符が、肌に冷たい。中の種が、カラリ、と微かに鳴った。十二年前の誓いを、今日も守れている。封じたまま、私はここを去る。父上、ご安心を。あなたが押しつけたとお思いの重さを、私は今も背負っております。
「下がってよろしい」
殿下の声を背に、私はゆっくりと立ち上がった。膝の絹が大理石を擦る音が、不思議なほど大きく響いた。踵を返し、扉に向かって歩き出す。両側の貴族たちが、半歩ずつ後ずさるのが視界の端を過ぎた。汚染を避けるように。あるいは、汚染そのものから距離を取るふりをして、自分の立ち位置を王子に向けて表明するように。
——その時、背後の柱の影で、空気がねじれた。
夜会の広間で感じた、あの感触と同じだった。指先ではなく、肩甲骨の間。皮膚一枚下に、誰かの魔力が照準を合わせている。揺らぎではない。圧。重さを伴った、固体に近い魔術の塊。息を吸うと、鉄の匂いに似た微かな臭気が舌の奥に貼りついた。
私は足を止めなかった。足を止めれば狙いが定まる。ただ歩幅を半寸だけ崩した。絹の裾が、床の紋章石の継ぎ目を一つぶん、余計に舐める。
護符の中の種が、今度ははっきりと鳴った。カラ、カラ、と二つ。
肩甲骨の間で、空気が裂けた。