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魔力欠損令嬢の辺境統治録

第2話 第2話

第2話

第2話

扉の木目に背を預けたまま、私は息を殺していた。

靴音が階段を一段、また一段と上ってくる。父のものではない。もっと硬く、踵を床板に叩きつけるような歩き方。この邸で深夜にそんな歩き方をする者は限られている。王宮からの伝令だ。

廊下を照らす魔灯石の光が、扉の隙間から細く差し込んでくる。私は扉に耳を寄せた。石造りの壁越しに、くぐもった男の声と、それに応じる父の低い言葉が聞こえた。内容までは拾えない。けれど、父の声が途中で一度、ほんの短く息を呑むように途切れた。あれは父が動揺したときの癖だ。二十年近くこの人の娘をやってきた私には、分かる。

右手の指先に、また、あの熱が灯りかけた。紅茶を飲み終えた手のひらに、なぜか汗が滲んでいる。私は手を握りしめ、もう片方の手で胸元の銀の鎖を辿った。母の形見。小さな種子が封じられた硝子の護符だ。冷たい金属と硝子の手触りが、肌の奥でざらついた熱を押し戻してくれる。

靴音が去っていく。玄関広間のほうへ。父が書斎に戻る気配はなく、むしろそのまま追いかけるように階下へ降りていった。

——何が起きている。

寝台へ戻る気にはなれなかった。私は窓辺の椅子に腰を下ろし、硝子越しに王都の夜を見る。屋根の向こうに見える王宮の尖塔が、魔灯石の光でぼんやりと浮かび上がっていた。

その青白い光が、いつかの炎と重なる。

目を閉じた途端、喉の奥に煤の味が戻ってきた。

八歳の夏だった。

母エレオノーラが亡くなって、三月が過ぎた頃。私は母の庭園にいた。ヴァルトシュタイン本邸の南翼、石畳の小径に囲まれた、母だけの小さな楽園。薔薇、矢車菊、白百合、名も知らぬ南方の花々。母は魔力で花の季節を少しずつずらし、一年中どこかの花壇で何かが咲いているように整えていた。

その日、私は一人で花壇の端にしゃがんでいた。

「お母様はなぜ、いなくなってしまったの」

答える人はいなかった。乾いた土を指で掘り返すと、爪の間に黒い粒が詰まる。母が去年の秋に蒔いた百合の球根。翡翠色の芽が、土の下から頭を覗かせていた。ここだけは、まだ母が生きている。そう思った途端、胸の奥で何かが裂けた。

悲しみではなかった。もっと、濁ったもの。なぜ置いていったのか、という幼い問いかけが、怒りに似た熱に変わっていく。

指先が、痺れた。

最初は虫に刺されたのかと思った。けれど痺れはすぐに掌に広がり、腕を走り、肩まで駆け上がってきた。服の内側が、急に熱を帯びる。汗ではない。皮膚そのものが湯気を立てているような、妙な熱さだった。

「——レティ?」

乳母の声が遠くから聞こえた。振り向く前に、掌から何かが溢れた。

光、ではなかった。赤でも橙でもなく、透明な揺らぎ。空気そのものが歪み、視界がぐにゃりと曲がった。歪みは花壇の上を撫でるように広がり、触れた先から白百合が黒く萎れた。次の瞬間、萎れた花弁が内側から爆ぜるように燃え上がった。

悲鳴が聞こえた。自分の声だったのか、乳母の声だったのか、今でも分からない。

炎は花壇を跳ねるように伝っていった。薔薇が枯れ、矢車菊が灰になり、南方の花々は咲いたまま黒い影に変わる。火の粉が私の髪を舐め、頬を焼いた。けれど痛みは遠かった。私は膝をついたまま、自分の指先から立ち上り続ける透明な揺らぎを見つめていた。止め方を、知らなかった。

石畳が熱で罅割れ、庭園を囲む低い生け垣が根元から炎を上げる。熱波が顔を押し返し、息を吸うたびに喉の奥に煤が絡んだ。視界の端で、ベンチの脚が赤熱し、母が好きだった白大理石の水盤がひしゃげて溶け始める。

「レティシア!」

父の声だった。

誰かに抱き上げられる感覚。強い腕が私を締めつけ、庭園の外へ引きずり出していく。父の外套の裾が炎を受けてじりじりと焦げていくのが、視界の隅に見えた。父は走りながら詠唱を刻み、自身の水属性魔力で周囲の炎を押さえつけていた。けれど、火は私の指先から溢れ続けている。父の魔力より、私の暴走のほうが速い。

父が立ち止まり、私を地面に下ろした。庭園の入口、母が去年の春に植えた樫の木の根元。父は両手で私の手を包み、額を私の額に押し当てた。

「息を吐け、レティシア。長く、ゆっくり」

震える声だった。私の父が、震えていた。

息が続かなかった。吐こうとするほど、胸の内側から熱が突き上げてくる。父の掌越しに、私の指先の揺らぎが父の手を焼いていた。革手袋の指先が、黒く焦げていく。

「父上、離して——」

「離さん」

父の青い目が、私を真っ直ぐに捉えた。母と私を繋いでいた、あの深い青。

「レティシア。お前の中に流れているのは、母方の血だ。ヴァルトシュタインの水属性ではない。ずっと奥の、もっと古い血筋だ。お前の祖母の、そのまた祖母の」

父は庭園を背にしていた。炎の赤が父の後ろで躍り、父の輪郭を縁取る。

「この国では、その血は忌まれる。お前がこの力を使うたび、王家はお前を狙う。いずれ殺しに来る」

幼い私に、言葉の半分も理解できていたとは思わない。けれど父の声の震えが、重さだけを伝えてきた。これは、生きるか死ぬかの話だ、と。

「封じろ、レティシア。今、ここで。二度と、誰の前でも、開くな」

父は右手で自分の胸元を探り、小さな硝子の護符を取り出した。銀の鎖に通された、母の形見。中に母が集めた花の種が封じられている。父はそれを、焦げた指先で私の首にかけた。

「母さんの種だ。お前が力を抑えるたび、この石は種に熱を分ける。いつか、お前が選んだ場所で、これを蒔け」

護符が胸に触れた瞬間、体の内側の熱が、ほんのわずか、硝子の中へ流れ込むのを感じた。指先の揺らぎが、少しずつ収まっていく。

「誓え、レティシア」

父の声が、懇願に近かった。

「この力は、二度と使わないと。父に、誓え」

庭園は、もう灰だった。母が一年中咲かせていた花たちは、一輪残らず黒い影に変わり、焦げた石畳から白い煙が上がり続けていた。乳母が遠くで泣いている。使用人たちの足音が駆けつけてくる。

私は父の焼けた手を握り返し、護符を強く胸に押し当てた。硝子の内側の種が、カラリ、と乾いた音を立てた。

「——誓います、父上」

その声は、自分のものとは思えないほど平らだった。八歳の私は、その瞬間から「魔力欠損の令嬢」になることを決めた。ヴァルトシュタインの嫡女として、何の力も持たぬ者として生きることを、選んだ。

父は私の頭を胸に抱き寄せた。外套の焦げた匂いの奥に、水属性の湿った魔力の名残があった。父の心臓が、速く、重く打っていた。

「……すまない。お前に、父親が押しつけていい重さではない」

父が呟いたその一言を、私は十二年、誰にも話していない。

灰になった庭園の端、熱で歪んだ土の中から、翡翠色の芽が一つだけ、頭を出していた。母が去年の秋に蒔いた、最後の百合。私は父の腕を解いて歩み寄り、土ごと指で掘り上げた。小さな球根を護符の隣に握りしめる。火で温められた球根は、人肌のようだった。

目を開けた。

窓硝子に映るのは、二十歳になった私だ。胸元の護符は今も銀の鎖の先で冷たく、中の種はあの日より少し色褪せた程度で、まだそこにある。あの球根は結局、翌年の春を越えられなかった。それでも種は、硝子の中に残った。

寝台の脇の小卓に、林檎の皮を剥いた痕が残っている。マルタが寝る前に用意してくれたものだ。私はそれに手を伸ばすこともなく、窓の外を見続けた。

扉が叩かれた。三度、短く。

「入りなさい」

入ってきたのはマルタだった。銀の盆に、封蝋のされた一枚の書状。盆の上の蝋が、魔灯石の光を受けて鈍く光る。王家の紋章。鷲と剣。

「ただいま、王宮より勅使が参りました」

マルタの声は平坦だったが、盆を支える彼女の指先に微かな力が入っているのを、私は見逃さなかった。

書状を受け取る。封を切ると、簡潔な文面が一行、私の目に飛び込んできた。

『明朝十時、王宮大広間に出頭せよ。第二王子クラウス直筆。』

理由は、書かれていない。時刻だけが、夜明けの向こうに刻まれていた。

胸元で、護符の中の種が小さく鳴った気がした。私はゆっくりと立ち上がり、寝台の脇の衣装櫃へ足を向けた。明朝の支度を、今から始めなければならない。

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