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魔力欠損令嬢の辺境統治録

第1話 第1話

第1話

第1話

夜会の大広間に満ちる楽の音は、私の耳にはいつも少しだけ遠い。

シャンデリアの魔灯石が幾千もの光粒を降らせ、大理石の床を黄金に染めていた。旋律に合わせて裾を翻す令嬢たち、杯を傾けながら政を語る貴族たち。王国の粋を集めたこの夜会の光景は、確かに美しい。けれどその美しさの中に、私の居場所はない。

「——ヴァルトシュタイン公爵家の長女殿は、今宵も壁の花でいらっしゃるのね」

扇の陰から漏れる囁きが、絹ずれの音に紛れて届く。聞こえていないふりはもう慣れたものだった。膝の上に開いた『辺境領における灌漑技術の変遷』の頁をめくる。インクの匂いのほうが、この広間に漂う百合の香よりよほど心が落ち着いた。

「魔力欠損の出来損ない」。それが、レティシア・ヴァルトシュタインに与えられた名だ。公爵家の嫡女でありながら魔力測定で数値が出ない——この国において、それは貴族としての存在意義を否定されるに等しい。

大広間の中央で、第二王子クラウスが手を差し伸べた。その手を取ったのは私ではなく、淡い金髪を揺らす男爵令嬢——聖女候補のリーゼロッテだった。

二人がワルツを踏み始めると、広間のあちこちから溜息が漏れる。似合いの二人だ、と。婚約者である私を差し置いて聖女候補と踊る王子に、誰も眉をひそめない。むしろ当然だという空気が、壁際の私を包む。視線を落とした先で、自分の指が書物の背表紙を強く握っていることに気づいた。

「お嬢様」

低く落ち着いた声が、右手から聞こえた。使用人頭のマルタが、銀の盆に温かな紅茶を載せてそこに立っていた。白髪交じりの髪をきっちりと結い上げた彼女の顔には、感情を窺わせるものは何もない。けれど差し出される茶器の温度が、いつも私にちょうどいいことを私は知っている。

「ありがとう、マルタ」

受け取った磁器の縁から、林檎と蜂蜜の香りが立ち上った。ヴァルトシュタイン領の特産である果樹園の林檎を使った調合茶。わざわざ王都まで持参してくれたのだろう。

「殿下が、こちらをご覧になりました」

マルタの声は平坦だったが、私には読み取れる。注意を促しているのだ。視線を上げると、ワルツの旋回の合間にクラウス殿下がこちらを一瞥した。その目には嫌悪でも愛情でもなく、ただ緩やかな侮蔑があった。壁際で書物を読む婚約者の存在が、彼にとっては小さな汚点なのだろう。

私は本を閉じず、ただ紅茶に唇をつけた。

「よろしいのですか」とマルタが言う。

「何が?」

「殿下のお気持ちを繋ぎ止める努力を、なさらなくてよろしいのかと」

繋ぎ止める。その言葉に、微かな苦味が口の中に広がった。紅茶の味ではない。

「婚約は家同士の契約よ、マルタ。殿下の気持ちがどこにあろうと、書面が残る限り効力は変わらない。それに——」

言葉を切った。広間の向こう側で、妹のアネットが侍女たちに囲まれて微笑んでいた。次女でありながら水属性の上級魔力を持つ妹。社交界の誰もが「本来ならば嫡女であるべき」と囁く存在。アネットがこちらに気づき、一瞬だけ目を伏せた。あの表情を私は知っている。憐れみだ。姉を哀れむ目。

「——それに、私が努力すべきは別のことよ」

膝の上の書物の表紙を撫でた。灌漑技術。農地改良。交易路の最適化。公爵家の嫡女として、魔力がなくとも領地に貢献できることはいくらでもある。少なくとも、私はそう信じていた。

「ヴァルトシュタインの令嬢が、また難しい本を読んでいるぞ」

男の声。聞き覚えがあった。侯爵家の嫡男ヴェルナーが、取り巻きを引き連れてこちらへ歩いてくる。口元には嘲りを隠さない笑みが浮かんでいた。

「魔力がないから書物で武装か? 健気なことだ」

取り巻きたちが声を上げて笑う。マルタの手が微かに握られたのが視界の端に映った。私は紅茶をもう一口含み、ゆっくりと飲み下してから口を開いた。

「ヴェルナー様。辺境領の灌漑水路が先月の洪水で三箇所決壊したと聞きましたわ。侯爵家の領地経営にも、こういった書物がお役に立つかもしれませんね」

ヴェルナーの笑みが固まる。辺境領の災害は侯爵家の管理責任であり、宮廷での評判に関わる。痛いところを突かれたと悟ったのだろう、彼は「フン」と鼻を鳴らして踵を返した。

「——口だけは達者だな、欠損令嬢」

捨て台詞が遠ざかる。マルタが小さく息をついた。

「お嬢様は、ああいう場面ではもう少し穏便になさっても」

「事実を述べただけよ」

そう答えながら、指先に微かな熱を感じた。ほんの一瞬——本当に刹那の間だけ、体の奥底から何かが脈打つように疼いた。膝の上の書物の頁が、かすかに震える。

呼吸を整える。指先の熱が引いていくのを確かめて、私は静かに目を閉じた。

大丈夫。まだ、抑えられている。

夜会が終わり、馬車に揺られてヴァルトシュタイン公爵邸に戻ったのは、鐘が十一を打った頃だった。

王都の邸宅は本邸に比べれば小さいが、それでも公爵家の名に恥じない構えを持つ。しかし今夜、玄関広間を照らす魔灯石の光は、どこか翳って見えた。

「お帰りなさいませ、お嬢様。旦那様が書斎でお待ちです」

侍女の言葉に、足が止まる。

父——ルドルフ・ヴァルトシュタイン公爵が、夜会の日に書斎で待つ。それが何を意味するか、この家の人間なら誰でも知っている。

長い廊下を歩く。壁に掛けられた歴代当主の肖像画が、燭台の揺れる炎に照らされて影を落としていた。その中に一枚だけ、花に囲まれた女性の肖像がある。母、エレオノーラ。柔らかな茶色の髪と翡翠の瞳は私によく似ていると、マルタはよく言う。

書斎の扉を三度叩く。

「入りなさい」

低く、けれど温かみを失わない声。扉を開けると、執務机に積まれた書類の向こうに父の姿があった。壮年の頂点にある公爵は、灰色の混じり始めた金髪を後ろに撫でつけ、深い青の目で私を見つめた。その目は今夜も変わらない。私を「欠損」とは決して見ない、この世界で数少ない目。

「座りなさい、レティシア」

促されて革張りの椅子に腰を下ろす。父が立ち上がり、棚から琥珀色の酒瓶を取り出した。私にはハーブ水を、自分には蒸留酒を。いつもの所作だった。

「夜会はどうだった」

「いつも通りです。殿下はリーゼロッテ嬢と踊り、ヴェルナー卿は嫌味を言い、アネットは私を哀れみました」

淡々と述べる私に、父は酒杯を傾けながら目を閉じた。

「……すまないな」

「父上が謝ることではありません」

「いいや、私の判断だ。お前にこの生き方を強いたのは」

沈黙が落ちた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが、書斎に響く。父の視線が暖炉の火に向いた。炎の色が、あの夜と重なっているのだろうか。

「レティシア」

父が静かに名を呼んだ。振り返ったその目に、いつもの穏やかさはなかった。代わりにあったのは、切迫した——いや、怯えにも似た光。

「あの誓い、まだ守れているか」

指先が、微かに震えた。今夜、広間で感じたあの熱。体の底から脈打った、あの疼き。十二年間封じ続けてきたものが、薄い膜の向こうで息をしている。

「——はい、父上」

嘘ではない。まだ、抑えている。けれどその「まだ」が、いつまで続くのか。

父は私の目を長く見つめ、やがて小さく頷いた。その頷きの中に、安堵と不安が等分に混ざっているのが分かった。

「もう休みなさい。明日も宮廷行事がある」

「はい。おやすみなさいませ、父上」

立ち上がり、書斎を出る。扉を閉める直前、父の呟きが聞こえた気がした。

——エレオノーラ、私はあの子を正しく守れているだろうか。

廊下を歩きながら、右手を開いて見つめた。何も宿っていない、ただの白い手。けれど私は知っている。この手の奥に、母の庭園を一夜で灰に変えた力が眠っていることを。

自室の扉を閉め、背を預ける。窓の外で、王都の夜空に魔灯石の光が瞬いていた。

あの力が目を覚ます日が来ないことを——いや、来たとしても、二度と誰も傷つけないことを。

祈るように目を閉じた私の耳に、階下から微かな足音が届いた。深夜に父の書斎を訪れる、もう一つの足音。聞き覚えのない、硬い靴音だった。

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