第1話
第1話
光が、来なかった。
祭壇の上で両手を差し出したまま、私は息を止めていた。白い石の台座に刻まれた紋様が青白く脈打ち、周囲を囲む神官たちの詠唱が大聖堂の天蓋に反響している。聖女召喚の儀式——異世界から喚ばれた私がこの手に聖なる力を宿すための、最後の工程だった。
香炉から立ち昇る白檀の煙が、祭壇の上まで薄く漂っていた。その甘い匂いが鼻の奥にまとわりつき、頭がぼんやりと重くなる。差し出した両手の指先が、微かに痺れていた。緊張なのか、冷えなのか、自分でもわからなかった。ただ、力が降りてくるその瞬間を、全身で待ち構えていた。
けれど、指先には何も起こらなかった。
紋様の光が一つ、また一つと消えていく。詠唱の声がまばらになり、やがて途切れた。大聖堂を満たしていた荘厳な空気が、砂のように崩れていくのがわかった。天蓋のステンドグラスから差し込む光だけが、何事もなかったかのように祭壇を照らし続けていた。
最初に動いたのは神殿長だった。白い法衣の裾を翻し、祭壇の前に立つ。深く刻まれた皺の奥から、冷たい灰色の瞳が私を見下ろした。
「——偽聖女である」
その一言が、大聖堂の沈黙を割った。
石壁に反響した声が消えるより先に、ざわめきが広がった。列席していた貴族たちの間から、まず小さな笑い声が漏れた。扇の陰で口元を隠す女性、隣の者と目を見合わせて肩をすくめる文官。そのどれもが、祭壇の上に立つ私を——まるで見世物でも眺めるように見ていた。
「やはりな。召喚の兆しからして怪しかったのだ」
「異世界の娘ごときに聖女の器があるはずもない」
声は遠いのに、一つ一つが耳の奥に刺さった。反論しようにも、この手には何の証拠もなかった。聖なる力など、影すら宿っていない。
私は自分の掌を見つめた。白い、何の変哲もない手のひら。この世界に喚ばれたとき、「あなたは聖女です」と告げられた。それだけが私の拠り所だった。故郷の記憶はない。名前すら、目覚めたときに神官から与えられたものだ。リーゼ、と。それが本当の名なのかさえわからない。
神殿長が祭壇に背を向けた。もう用は済んだとでも言うように。
「国外追放の手続きを進めよ。護衛は最低限でよい」
大聖堂の扉が開かれ、外の冷たい風が頬を打った。季節はもう秋の終わりに差しかかっていた。枯れた落ち葉の匂いが風に混じり、大聖堂の香の残り香をかき消していった。
独房とは名ばかりの、城の端にある小さな石室に通された。窓は高い位置に一つだけ。鉄格子の向こうに、暮れかけた空の色が見えた。
護衛の騎士が四人ついていた。そのうち三人は、私と目を合わせようともしなかった。廊下を歩く間も、まるで穢れたものに触れまいとするように、一定の距離を保っていた。ひとりなどは、すれ違う侍女に向かって肩をすくめてみせた。——こんな任務に当たるとは、運が悪い。その仕草は、そう語っていた。
石室の寝台に腰を下ろしたとき、膝が震えていることに気がついた。儀式の間は無我夢中だった。神殿長の宣告も、貴族たちの嘲笑も、どこか他人事のように聞いていた。けれど今、ひとりになって初めて、喉の奥から熱いものがせり上がってきた。
泣くまい、と思った。泣いたところで何も変わらない。この世界に知り合いはいない。味方もいない。力もない。泣く資格さえ、私にあるのかわからなかった。
奥歯を噛み締めた。石壁の冷たさが、薄い衣を通して背中に伝わってくる。寝台の藁は古く、湿った匂いがした。ここに何人の罪人が寝たのだろう。私は罪人ではないはずだった。けれどこの扱いは、それと何が違うのだろう。
——こんこん。
石の扉を叩く音がした。控えめな、けれどはっきりとした二回の打音。
「失礼します」
低い声だった。扉が開き、一人の騎士が入ってきた。銀色の髪が、廊下から差す灯りを受けて淡く光った。護衛の中で唯一、私が名前を聞いていなかった四人目の騎士。
彼は片手に私の旅装の包みを持っていた。儀式の前に預けさせられた、わずかな身の回りの品。
「お荷物をお持ちしました。明朝の出立までに、必要なものをお纏めください」
そう言って、彼は包みを寝台の脇に静かに置いた。乱暴に放るのでも、床に落とすのでもなく、丁寧に。それから一歩下がり、右手を胸に当てて軽く頭を下げた。
——騎士の正式な礼。
それが何を意味するのか、私にもわかった。この国の騎士が、守るべき対象に対してとる礼だ。偽聖女と断じられた私に対して、この騎士はまだ規定通りの作法を崩していなかった。
他の三人の騎士は、廊下で壁に寄りかかって雑談をしていた。その笑い声がくぐもって聞こえてきた。それと対比するように、この石室の中だけが静かだった。
「あの」
思わず声が出た。自分でも驚くほど、掠れた声だった。
「お名前を——聞いてもいいですか」
彼は顔を上げた。灯りの加減か、瞳の色がよく見えなかった。ただ、その目が私を見ていることだけはわかった。嘲りでもなく、憐れみでもなく、ただ真っ直ぐに。
「アルヴィン。第三騎士団所属、アルヴィンです」
短い名乗りだった。それ以上何かを語るでもなく、彼は再び礼をとって石室を出ていった。扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
私は自分の右手を見た。彼が包みを渡してくれたとき、指先がほんの一瞬だけ触れた。その箇所だけが、不思議にあたたかかった。石室の空気は冷え切っているのに、そこだけが——まるで小さな灯をともしたように。
窓の外に目をやった。鉄格子の隙間から、遠い地平線の方角にぽつぽつと灯りが見えた。あの光は隣国のものだと、護送の道中で誰かが言っていた。エルディアという名の国。この国とは山脈を隔てた向こう側にある国。
明日、私はあの方角へ追われていく。何も持たず、何者でもないまま。
けれど今この瞬間、たった一つだけ確かなことがあった。あの騎士の手のぬくもり。他の誰もが目を背けるなかで、ただ一人、規定通りの礼を崩さなかった人。
名前を、覚えておこうと思った。
アルヴィン。
——それがこの世界で、私が自分の意志で記憶に刻んだ最初の名前だった。
石室の灯りが燃え尽きかけていた。蝋燭の芯が短くなり、炎がちりちりと揺れている。
眠れなかった。横になっても、天井の染みを数えても、意識は冴えたままだった。繰り返し蘇るのは、祭壇の上での光景だった。
掌を差し出した瞬間、本当は何かが起こると信じていた。聖女として喚ばれたのだから、力があるはずだと。根拠はなかった。ただ、そう信じなければ、自分が何者なのかわからなくなるから。
——そして、何も起こらなかった。
あのとき、一瞬だけ指先が熱くなった気がした。光が宿る直前のような、かすかな脈動。けれど次の瞬間にはもう消えていた。あれは本当にあったことなのか。それとも、あってほしいという願いが見せた幻だったのか。今となっては確かめようがなかった。
寝台の上で身を起こし、膝を抱えた。冷たい石壁に背中を預けると、骨の芯まで寒さが沁みた。この国の秋は短いと聞いた。もうじき雪が降り始める。国境の荒野は、冬になれば魔獣が活発になるとも。
追放される先に、何が待っているのだろう。考えても仕方のないことだった。けれど、考えずにはいられなかった。
ふと、右手の指先に視線が落ちた。あの騎士——アルヴィンの手が触れた場所。もうぬくもりは消えているはずなのに、意識を向けると、まだかすかに残っているような気がした。気のせいだとわかっていた。わかっていて、それでも——
私はその手を、胸の前で握りしめた。
何も持っていない。力も、記憶も、帰る場所も。
でも、この手だけは、あの一瞬の温もりを知っている。
窓の外で、隣国の灯りがまたたいた。小さく、頼りなく、けれど確かに。あの光の下にも、誰かが暮らしているのだろう。追われた者を受け入れてくれる場所が、あるのだろうか。
わからない。わからないけれど。
——明日、あの光の方へ歩いてみよう。
そう思った瞬間、廊下の向こうからかすかな足音が聞こえた。規則正しく、静かな歩調。見回りの騎士だろうか。足音は石室の前で一度止まり、それからまた遠ざかっていった。
あれが彼の足音だったのかどうか、確かめる術はなかった。けれど私は、あの足音が——石室の前で止まった、あのわずかな間が——どうしようもなく、心に残った。