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偽聖女と銀の騎士

第2話 第2話

第2話

第2話

石室の扉が開かれたのは、夜が明けきらぬうちだった。

 鍵の軋む音で、私は目を覚ました。いや、目を覚ましたというのは正しくない。一睡もできていなかった。寝台の藁の上で膝を抱えたまま、夜明けを待っていただけだった。

 扉の向こうに立っていたのは、昨夜と同じ銀髪の騎士だった。アルヴィン。片手に私の旅装の包みを携え、もう片方の手には薄い外套を持っている。

「出立の時刻です」

 低い声だった。それから、彼は外套を少しだけ差し出した。受け取るか受け取らないか、選ばせるような控えめな動作だった。

「朝は冷えます。荒野に出るまで、これを」

 薄い布地は、見るからに質素なものだった。騎士団の支給品のように思えた。誰のものなのか、なぜ一枚余っているのか、訊ねる気力は残っていなかった。ただ私は、手を伸ばしてそれを受け取った。

 外套の裏地に、微かな体温が残っていた。誰かがつい先ほどまで身につけていたような、そんな残り香。鼻先に近づけると、革の油と、それから日向の匂いがした。私は何も言えず、肩から羽織った。

 アルヴィンは、待つでもなく急かすでもなく、扉の脇に立っていた。右手を胸に当てるでもない、かといって崩すでもない、中途半端な姿勢で。ただ、視線だけは床に落としていた。見ないでいてくれているのだと気づくのに、少し時間がかかった。

 私が髪を直し、頬を拭い、膝の震えを抑えるまでの、その短い時間を——彼は見ないでいてくれていた。

 王都の門までは、馬車ではなく徒歩だった。

 罪人同然の扱いなのだから、当然なのかもしれなかった。護衛の騎士が四人。先頭に二人、後方に一人、そして私のすぐ脇にアルヴィンが一人。隊列の組み方一つとっても、私は既に囚人だった。

 大通りに出たとき、朝霧がまだ地面の低いところに薄く這っていた。石畳の上を歩くたび、革靴の踵が湿った音を立てた。商店はまだ開いていないはずの時刻なのに、通りの両脇には人がいた。噂は夜のうちに広がったのだろう。眠る間も惜しんで、この見世物を待っていたのだろう。

 ——最初に飛んできたのは、小石だった。

 ぱん、と鈍い音が響いた。外套の裾に当たって跳ね返ったのが、気配でわかった。痛みはなかった。ただ、その音だけが妙にはっきりと耳に残った。

「偽聖女!」

 誰かが叫んだ。若い男の声だった。続いて、くぐもった罵声が波のように押し寄せてきた。野菜の芯が一つ、肩のあたりをかすめて飛んでいった。腐った匂いが一瞬だけ鼻をついた。

 私は顔を伏せなかった。伏せれば、それが正しいことのように思えてしまう気がした。けれど目線は下げた。人の顔を見れば、自分が何を感じるかわからなかった。怒りか、悲しみか、それとも——許しを乞いたくなってしまうか。そのどれになっても、私は私を保てなくなるだろうと思った。

 そのときだった。視界の端で、銀髪が揺れた。

 アルヴィンが一歩、私の左側に出た。風の吹いてくる方角だった。民衆は主に左手側の歩道に集まっていた。投げられる石の軌道が、私に届く前に——彼の背中に遮られた。

 ごつ、と鈍い音がした。

 私は思わず息を呑んだ。彼の肩口に、拳ほどの石が当たって落ちたのが見えた。鎧の上からでも、あれは痛いはずだった。けれど彼は振り返らなかった。歩みの速度さえ変えなかった。ただ、ほんの少しだけ歩幅を私に合わせて、私の左手の斜め前を歩き続けた。銀の肩当てに、一筋、石が擦った跡が白く残っていた。

「やめろ、聖騎士まで汚れるぞ」

 前方の騎士が声を張り上げた。民衆に対してではなく、アルヴィンに対してだった。アルヴィンは応えなかった。ただ、聞こえなかったわけではないことは、耳の縁がわずかに赤らんだ様子から伝わってきた。

 もう一つ、石が飛んできた。今度は小さな女の子が投げたもののようだった。幼い腕の力では、届くはずもなかった。それでもアルヴィンは身体の向きをわずかに変え、その軌道の上に自分を置いた。石は彼の腕当てに当たり、からんと乾いた音を立てて石畳に転がった。女の子は投げた自分の手を見つめ、それから母親らしき女に肩を抱かれて、人垣の奥へと消えた。

 ——どうして。

 喉元まで、その言葉が出かかった。けれど声にはならなかった。訊いたところで、彼はきっと「任務ですので」としか答えないのだろうという予感があった。そしてそれは、半分正しくて、半分は嘘になるのではないかという予感も、同時にあった。任務なら、石を避けて隊列の外側に下がることだってできたはずなのだ。護衛の役目は、私を国境まで届けることであって、私の代わりに痛みを引き受けることではない。

 通りを抜けるまでの、ほんの数百歩。私はその間ずっと、彼の背中の角度ばかりを見ていた。風が髪を乱した。冷たい空気が頬を刺した。けれど私の身体には、一つの石も、一言の罵声も、届かなかった。届く前に、全て彼が遮っていた。

 王都の門が背後に遠ざかる頃、ようやく民衆の声が途絶えた。

 街道は、朝日が斜めに射し込む荒れ地を緩やかに下っていた。枯れた夏草がまだ斜面に残り、霜が白く結んでいた。先ほどまで聞こえていた罵声の余韻が、風の音にかき消されていくのがわかった。

 先頭の騎士たちは、もう口を開かなかった。任務の不快さを愚痴るでもなく、ただ黙々と歩を進めている。アルヴィンは風上の位置を崩さなかった。私の歩幅が乱れるたび、そっと合わせてくる。声はかけない。目も合わせない。それでも、そこに確かに彼がいた。

 肩の上で外套が揺れた。朝の寒さが緩み始めていた。

 私は、昨夜独房の鉄格子の向こうに見た光のことを思い出していた。点々と、遠くに瞬いていた隣国の灯り。エルディア、と誰かが呼んでいた名前。あの灯りの下にも、朝は訪れているのだろうか。罵声の代わりに、朝の挨拶が交わされているのだろうか。

 わからなかった。わからないまま、私はその方角を目指している。護衛の者たちに引かれるようにではなく——もう、自分の意志でそうしているのだという感覚が、ゆっくりと腹の底に降りてきた。

 追放されたのではない。向かっているのだ。

 言葉の置き換えにすぎないとわかっていた。けれどその一字の違いが、私の背筋を支えた。追われて歩くのと、向かって歩くのとでは、同じ一歩でも重さが違う。前者は誰かに決められた歩であり、後者は自分の名前で刻む歩だった。背中を丸めて石を避けていた時間は、もう終わりにしようと思った。どうせ飛んでくるのなら、顔を上げて受ける。そう決めた瞬間、風がふっと弱くなった気がした。

「——リーゼ様」

 少し前方で、声がした。アルヴィンだった。王都を出てから、初めて彼が名を呼んだ。私は顔を上げた。彼は視線をまっすぐ前に据えたまま、歩みを止めずに続けた。

「この先の峠を越えれば、国境の荒野に入ります。日が落ちる前に、最初の野営地まで届かせます」

 事務的な報告だった。けれどその声の調子には、昨夜と同じ静けさがあった。嘲りでも憐れみでもない、ただ私を守るべき対象として扱う、揺らぎのない声。

「ありがとう」

 自然に、その言葉が口をついた。何に対する礼なのか、自分でもわからなかった。道案内に対してか、石を遮ってくれたことに対してか、それとも、名前を呼んでくれたことに対してか。

 アルヴィンは答えなかった。ただ、ほんのわずかに、歩幅が緩んだ気がした。私の声が届いたのだと、その変化だけが告げていた。

 峠の途中で、一度だけ振り返った。

 朝霧の向こうに、王都の尖塔がかすかに見えた。私があの塔の下で「偽聖女」と呼ばれたのは、ほんの数時間前のことだった。それなのにもう、ずいぶん遠くに見える。大聖堂のステンドグラスも、神殿長の灰色の瞳も、嘲笑する貴族たちの顔も——全部、霧の向こうに溶けていくようだった。

 捨てた、と思うことにした。捨てられた、のではなく。

 峠の頂に立ったとき、風が一気に強くなった。

 眼下に広がったのは、枯れた褐色の荒野だった。地平の先に青く霞む山並みがあり、その向こう側にエルディアがあるのだと、アルヴィンが短く告げた。遠い。けれど、目に見える距離だった。

 荒野の上空を、鳥ではない何かが横切った。翼の影が大きく、鳴き声は低く獣じみていた。先頭の騎士が無言で剣の柄に手をかけ、すぐに離した。アルヴィンの横顔が、ほんの一瞬だけ険しくなった。

「——進みます」

 彼はそれだけ言って、峠の下り道に一歩を踏み出した。

 私も、その背中を追って一歩を踏み出した。風が外套をはためかせた。裏地に残っていたはずのぬくもりは、もう冷え切っていた。それでも私は、その布を胸元でしっかりと握りしめた。

 荒野の向こうで、何かが待っている。

 それが救いなのか、さらなる試練なのか——今の私には、まだわからなかった。

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