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偽聖女と銀の騎士

第3話 第3話

第3話

第3話

峠を下る足が、少しずつ重くなっていた。

 褐色の荒野は、上から眺めたときよりも広く、そして静かだった。枯れ草の穂が腰のあたりまで伸び、風が吹くたびにざわざわと乾いた音を立てている。遠くの山並みは午後の光の中でうっすらと青ざめていて、近づいているのか遠ざかっているのか、見ているだけではわからなくなる。歩いても歩いても景色が変わらない、という錯覚が、足の裏から少しずつ這い上がってきていた。一歩踏み出すたびに、革靴の底で小枝の折れる乾いた音がする。その音だけが、自分がまだ前へ進んでいる証のように思えた。

 先頭の騎士が、時折空を見上げた。峠の上から見た、鳥ではない何かの影を探しているのだろう。ここへ来てから、彼らの会話はほとんど消えていた。愚痴すら出なくなった沈黙は、朝の王都の罵声よりも、かえって耳に重く響いた。鎧の金具が擦れる規則的な音と、馬具の革が軋む音だけが、隊列の輪郭をかろうじて保っていた。

 私は外套の襟を合わせ直した。日が傾くにつれて、風がはっきりと冷たさを帯びてきていた。鼻の奥に、枯れ草の埃っぽい匂いに混じって、かすかに鉄のような匂いが入り込んでくる。なんの匂いだろう、と思った。土の匂いでも、草の匂いでもない。もっと——生き物に近い匂いだった。喉の奥が、知らず知らずのうちに乾いていく。唾を飲もうとしても、うまく飲み下せなかった。

 アルヴィンは風上の位置を、変わらず保っていた。朝からずっとそうしていた彼の横顔には、少しずつ緊張の線が増えていた。唇は閉ざされ、視線は私ではなく、荒野の地平に据えられている。その目の動きが、いつもより速かった。剣の柄に添えられた指が、ほんのわずかに、しかし確かに、握り直す動作を繰り返していた。

 ——何か、気づいている。

 声に出して尋ねる勇気はなかった。尋ねる前に、地の底から、低く長い唸りのような音が這い上がってきた。

 枯れ草の原が、波のように揺れた。

 風ではなかった。何かが草の下を走っていた。一匹ではない。幾つもの影が、扇を広げるように私たちを取り囲みながら近づいてくる。地面が、ごく小さく震えているのが、靴底を通して伝わってきた。

「——魔獣」

 先頭の騎士が、掠れた声で言った。剣を抜く音が、重なって響いた。三本。四本。鞘走りの音がこんなに硬く響くものだったか、と私はどこか他人事のように思った。心臓が、胸の内側で鈍く跳ねている。指先が冷たい。冷たいのに、汗ばんでいる。その矛盾した感覚が、かえって現実味を奪っていた。

 最初に姿を現したのは、狼に似た獣だった。けれど背丈は馬ほどもあり、背に折れ曲がった骨のような棘が並んでいる。黄色く濁った眼が、こちらを捉えて動かない。右手の茂みからも、左手の岩陰からも、同じような影が這い出してきた。数えることを、途中で諦めた。獣たちの口元からは、濁った涎が糸を引いて垂れていた。呼吸のたびに、肋骨が剥き出しのように浮き上がっては沈む。飢えている、と本能的に悟った。

 アルヴィンが、私の前に出た。

 剣を抜く動作は、一連の流れのように静かだった。けれど鞘から滑り出した刃の色は、傾きかけた日を受けて冷たく光った。彼は一度だけ、ちらりと背後の私を見た。目が合ったのは、一瞬だった。その目が何を伝えようとしていたのか、読み取る時間は与えられなかった。ただ、普段の無表情の奥に、わずかに揺れるものがあったのを、私は見た気がした。

「——お下がりください」

 短く言い置いて、彼は前に踏み出した。

 最初の一匹が跳んだ。剣の弧が描かれ、鈍い肉の音がして、獣の身体が地面に叩きつけられた。血が、冷えた空気の中に一気に匂い立った。先ほど鼻先をかすめた鉄の匂いは、これだったのだと気がついた。

 けれど、それは始まりにすぎなかった。

 二匹目、三匹目が続けて飛びかかってきた。先頭の騎士が応戦する。後方の騎士も剣を振るう。金属が骨を削る音、息を詰めた呻き、獣たちの低い唸りが、荒野の静けさを一瞬で塗り替えた。砕けた枯れ草が宙を舞い、飛沫となった血が、私の外套の裾にまで跳ねた。視界の端で、何かが弧を描いて飛んでいくのが見えた。鎧の破片か、それとも——考えるのを、やめた。

 私の足は、動かなかった。逃げろと誰かが叫んだ気がした。けれど、逃げるとはどこへだろう。背後にも、横にも、もう影が回り込んでいた。囲まれている。そう気づいたときには、先頭の騎士が獣の爪に薙ぎ払われ、地面に転がっていた。鎧が軋み、立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。赤いものが、枯れ草を染めていった。その赤は、夕日の色よりも、ずっと濃く、ずっと生々しかった。

 一人、また一人。護衛の騎士が崩れていく。血の匂いは、もう鼻を刺すほどに濃くなっていた。呻きが、やがて途切れ、途切れたあとの沈黙が、呻きよりも恐ろしかった。

 私はただ、立っていた。立っていることしかできなかった。膝が震えているのが、自分でもわかった。それでも膝が折れないのは、恐怖が限度を超えて、身体を石のように固めてしまったからだった。

 アルヴィンだけが、崩れずに立っていた。

 銀の髪は乱れ、頬に一筋、赤い線が走っていた。鎧の左肩が深く凹み、そこから暗い色が滲み出している。彼はそれでも、剣を構え直した。私との距離を、半歩も広げないようにしながら。荒い息が、彼の肩を上下させていた。息を吸うたびに、鎧の胸元がわずかに歪んで見えた。それでも剣先は、震えていなかった。

 最後の一匹が、横合いから跳んだ。

 視界の端で、黒い影が膨らんだ。風を切る音がした。反射的に目を閉じかけた、その瞬間——

 身体を、押されていた。

 強い力だった。私は枯れ草の上に投げ出されるように倒れた。背中が地面を打ち、息が一瞬、肺から抜けた。起き上がろうと顔を上げたとき、目の前でアルヴィンが膝をついていた。

 獣の牙は、彼の脇腹に食い込んでいた。

 呻き声ひとつ、彼は漏らさなかった。ただ、剣を握り直し、片手で柄頭を押し込むようにして獣の喉を貫いた。獣は痙攣し、黒い塊となって地面に転がった。最後にびくりと脚が跳ね、それから、動かなくなった。

 静かになった。

 風の音だけが戻ってきた。血の匂いと、土の匂いと、それから——獣のものではない、人のものとわかる、もっとあたたかな血の匂い。

「アルヴィン——」

 名前を呼んだ自分の声が、掠れていた。彼は剣を杖のように地面に突き立て、身体を支えていた。けれど腕の力は、もう残っていなかった。ゆっくりと、崩れるように、彼は私の方へ倒れ込んできた。

 私は両手を差し出した。受け止めきれる重さではないとわかっていた。ただ、地面に叩きつけさせたくなかった。それだけだった。

 彼の肩が、私の腕の中に落ちた。重い。鎧の冷たさと、その下に流れている体温と、それから——指先に、ぬるい温度が広がった。

 脇腹の傷から、血が流れ出していた。彼を支えようと回した右手に、それが伝ってきた。冷えた空気の中で、その熱だけが異様に生々しかった。鉄の匂いが、鼻の奥に届いた。布越しにも、傷の深さが伝わってきた。指先が、彼の肋骨の輪郭をなぞり、その下でどくどくと打っている脈を拾ってしまう。速い。そして、弱い。

 その瞬間だった。

 掌が、熱くなった。

 石室の夜、気のせいだと打ち消した、あの微かな脈動。それが今度はもっとはっきりと、指先から手首へと広がっていく。私は息を呑み、自分の右手を見た。

 淡い、淡い光が——掌の、血に濡れた箇所から、滲み出ようとしていた。

 けれどその光は、すぐには灯り切らなかった。

 途中で、揺らいだ。蝋燭の炎が風に吹かれるように、小さく明滅して、消えかけた。私はその光を必死に見つめた。消えないで、と思った。消えないで。祭壇では来なかった力が、今、確かに私の指先に宿りかけている。

 腕の中で、アルヴィンの呼吸が浅くなっていった。目は閉じられ、銀のまつげが頬に影を落としている。この人は、私を庇って倒れた。任務だから、と言うかもしれない。けれど、任務だけでこんな傷を負うだろうか。かすかに開いた唇から、音にならない吐息が漏れた。何かを言おうとして、言葉にならなかったのかもしれなかった。

 ——お願い。

 誰に祈っているのか、自分でもわからなかった。神殿長が断じた神にか、それとも、自分の中のまだ名前のない何かにか。祈るという行為そのものが、こんなにも切実な願いの形を取るのだと、私は初めて知った。

 掌の光が、もう一度、ゆっくりと強さを取り戻そうとしていた。

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