第3話
第3話
井戸の修繕を始めて三日が経った。
石組みの下半分をどうにか積み直し、濁りはだいぶ収まったが、水量そのものが足りない。桶を下ろしても半分しか汲めない日が増えた。引き上げた桶の底を覗くたびに、胸の奥が冷えていく。地下水脈が細っているのだ。このままでは、遠くない将来に完全に涸れる。
「上流に別の水源があるはずよ」
手帳に書き留めた地形の覚え書きを見返す。王都の書庫で読んだ古い地誌に、ヴェルムンド辺境領の北東——深森の奥に湧水地があると記されていた。もしそこから領地まで水路を引ければ、井戸に頼らずに済む。
「お嬢様、あの森に一人で入るのは——」
寝台から身を起こしかけたハンスを、手で制した。熱は引いたが、まだ顔色が悪い。額に浮いた汗を拭う力さえ惜しむように、ハンスは枕に頭を沈めた。
「ハンスは休んでいなさい。日が高いうちに行って帰る」
「せめて、もう一日お待ちを。私も動けるようになりますから」
「水は待ってくれないの」
言い切って、剣帯を腰に締めた。片手半剣の重みが腰骨に馴染む。もう一つ、腰の反対側に短刀を差す。予備の武器は必要だ。何が出るかわからない。
領館を出ると、子狼が中庭から駆け寄ってきた。右前脚の傷はほとんど塞がり、もう庇わずに走れる。銀白の毛並みが朝日を弾いて光った。
「ついてくるの?」
子狼は返事の代わりに、森の方角へ鼻先を向けた。まるで道を知っているかのように。
集落を抜け、防護柵の切れ目から森に入った。針葉樹の林がすぐに視界を閉ざす。木漏れ日が苔むした地面にまだらな光を落としているが、数歩進むごとに薄暗さが増していく。空気が湿り気を帯び、土と樹液の匂いが濃くなる。足元の落ち葉は厚く、踏むたびに柔らかく沈んだ。
子狼が先を歩いた。時折立ち止まっては鼻を地面に近づけ、何かを確かめるように匂いを嗅いでいる。獣には獣の道があるのだろう。私は子狼の銀白の背を目印に、枝を掻き分けて進んだ。
一刻ほど歩いた頃だった。
水の音が聞こえた。かすかだが、確かに——岩を打つ清流の音。方角は北東。地誌の記述と一致する。
足を速めた、その瞬間。
子狼が立ち止まった。全身の毛が逆立ち、喉の奥から低い唸りが漏れる。
——来る。
気配を感じ取ったのは、子狼と同時だった。地面が震える。木々の梢から鳥が一斉に飛び立ち、森が沈黙した。虫の声すら消え、水の音だけが遠くで鳴っている。
そして、正面の藪が裂けた。
現れたのは、昨夜までの瘴気獣とは比較にならない巨体だった。
熊に似た四足獣。だが肩の高さは私の背丈を超え、全身を覆う漆黒の毛皮の下で筋肉が異様に隆起している。頭部には鹿のような角が三対——六本——生えており、その先端から紫黒の瘴気が陽炎のように立ち昇っていた。口腔から覗く牙は前腕ほどの長さがあり、涎とともに瘴気が糸を引いている。獣が吐く息のひとつひとつが腐臭を孕み、喉の奥がせり上がるのを堪えた。
中位瘴気獣。いや、上位に近い個体かもしれない。王都の騎士団でも、小隊規模で討伐にあたる種だ。
子狼が悲鳴のような鳴き声を上げて後退した。私は剣を抜き、子狼を背に庇った。
「下がりなさい」
魔力を剣身に流す。銀の光が刃を走り、瘴気の闇をわずかに押し返す。だが——流した瞬間にわかった。足りない。この巨体の急所を一太刀で断つには、私の魔力量では圧倒的に不足している。
獣が咆哮した。
衝撃波のような圧が全身を打ち、足が後方に滑った。鼓膜が痺れ、視界が一瞬白む。歯を食いしばって姿勢を保つ。
前脚が振り下ろされた。
横に跳んで躱す。巨大な爪が地面を抉り、土と石が飛散した。間髪を入れず二撃目が来る。今度は横薙ぎ。伏せて避けたが、風圧だけで体が転がった。
立て直す暇もなく、三撃目。
剣で受けた。衝撃が両腕を貫き、膝が地面にめり込む。刃に込めた魔力が軋み、銀の光が明滅する。長くは持たない。柄を握る掌の皮が裂け、熱い液体が指の隙間を伝った。
反撃に転じようと踏み込んだ。首の付け根——急所に向けて魔力を乗せた突きを放つ。だが、刃は毛皮の表面を滑っただけだった。瘴気を纏った毛皮が、並の魔力では貫けない防壁になっている。手応えのなさに、背筋を冷たいものが走った。
背後に跳び退る。息が上がっていた。額から汗が目に入り、視界が滲む。肺が焼けるように熱い。脚の筋肉がすでに悲鳴を上げている。
——正面からは、無理だ。
認めざるを得なかった。剣技は通じている。躱せている。だが、この獣の防御を破る手段がない。魔力の絶対量が足りない。時間をかければ消耗戦で確実にこちらが先に潰れる。
獣が体勢を低くした。突進の構え。来る。
逃げるか。いや、背を見せれば追いつかれる。この巨体でも、四足獣の突進速度は人間の走力を凌駕する。
覚悟を決めて剣を構え直した、その時。
森の奥から、声が響いた。
遠吠えではない。もっと鋭く、もっと統率された——号令。
左右の茂みから、灰銀色の影が飛び出した。狼だ。一頭、二頭——数えきれない。十を超える狼の群れが、扇形の陣形で巨獣の側面に殺到した。
牙が毛皮に食い込み、巨獣が初めて苦痛の咆哮を上げた。狼たちは一撃を加えるとすぐに離れ、別の個体が反対側から襲いかかる。統率されている。明らかに野生の行動ではなかった。誰かが、指揮している。
巨獣が狂ったように体を振り、狼を一頭弾き飛ばした。だが残りの群れはひるまず、入れ替わり立ち替わり側面を突く。巨獣の注意が完全に狼たちに向いた。
やがて、巨獣は判断したのだろう。数の不利を悟り、地響きを立てて森の奥へ走り去った。瘴気の残滓が紫の霧となって漂い、やがてそれも風に溶けて消えた。
静寂が戻った。
狼たちが動きを止めた。散開していた群れが、一点に向かって集まっていく。森の奥——古い大樹の根元に。
私は荒い息を整えながら、その方角を見上げた。血が滲んだ掌が剣の柄に張り付いていて、指を一本ずつ剥がすようにしてようやく手を離した。
大樹の太い枝の上に、影があった。
小さな人影。木漏れ日を背負って輪郭だけが浮かんでいる。年の頃は——十四、五だろうか。ぼろ布のような外套を纏い、枝の上にしゃがみ込んで、こちらを見下ろしている。
手に、何かを握っていた。骨で作った短い笛。先ほど狼たちを操ったのは、あれか。
足元では、子狼が尾を振っていた。怯えではない。喜んでいる。この子狼は、あの群れの——。
少女の目と、私の目が合った。
翠色の瞳。野生の警戒と、研ぎ澄まされた知性が同居する目。その目が、私の腰の剣を見た。それから、私の背後に隠れている子狼を見た。子狼の傷が塞がりかけていることを確かめるように、視線がわずかに細まった。
少女は何も言わなかった。ただ数秒間こちらを観察した後、身を翻して枝の上を跳び、木々の梢に消えた。狼たちが一斉にその後を追う。音もなく、まるで森そのものに溶け込むように。
あとには私と子狼だけが残された。
木々の隙間から差す光が、さっきまで少女がいた枝を照らしている。苔むした樹皮の上に、小さな足跡が微かに残っていた。
——獣語り。
古い伝承でしか聞いたことがなかった。魔物と意思を通わせ、獣を従える異能の者たち。王国では「魔物の手先」として迫害され、歴史の表舞台からは消えたとされている。
だが今、目の前で見た。あの狼たちの動きは、間違いなく人の意志で統率されていた。
子狼が私の足元で、森の奥に向かって小さく鳴いた。呼んでいるのか。それとも、別れを惜しんでいるのか。
剣を鞘に収めた。手がまだ微かに震えている。あの巨獣と正面からぶつかっていたら、今頃どうなっていたか。
——だが、助けてくれた。理由はわからない。あの少女が何者で、なぜ私を見逃したのかも。
水源の調査は中断せざるを得なかった。だが、収穫がなかったわけではない。
この森には、魔物だけではない何かがいる。人であり、獣であり、そのどちらでもない存在。あの翠の瞳を、私は忘れないだろう。
子狼が森の方角を振り返りながら、それでも私の傍を離れなかった。二つの世界の間で迷うように、銀白の尾が揺れている。
帰路を急ぎながら、私は考えていた。もう一度、あの森に入る。次は——あの少女と、言葉を交わすために。