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追放令嬢と獣語りの剣

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の光は、容赦なく現実を照らし出した。

夜の闘いの名残——割れた窓硝子、床に染みついた瘴気獣の血痕、そして裏手で丸くなって眠る子狼。昨夜の記憶が夢でなかったことを、それらが静かに証明していた。

子狼の傷は一晩で少し落ち着いたようだった。包帯を替えてやると、銀白の尾をかすかに振った。その仕草に胸の奥が温かくなるのを感じながら、私は立ち上がった。感傷に浸っている暇はない。

「ハンス、領地を見て回るわ。現状を把握しないことには何も始められない」

「お供いたします、お嬢様」

朝食は、馬車に積んできた保存食の残りを分け合っただけだった。干し肉と固いパン。王都の食卓とは比べるまでもないが、空腹を満たせるだけありがたい。問題は、この保存食がいつまで持つかだった。

領館の門を出ると、すぐに集落が見えた。石造りの家が二十軒ほど、緩やかな丘陵に点在している。かつては整然と並んでいたのだろうが、今は壁が崩れた家、屋根に穴が空いた家が目立つ。道は雑草に覆われ、畑は半分以上が荒れ地に戻っていた。

朝の集落には、人の気配があった。井戸端に女が二人、畑の脇に老人が一人。こちらに気づいているはずだが、誰も目を向けない。背中を向けたまま、まるで私が存在しないかのように振る舞っている。

「おはようございます。昨夜こちらに着いた——」

声をかけた瞬間、井戸端の女たちは会話を打ち切り、足早に家の中へ消えた。扉が閉まる音だけが返答だった。

「……そう」

予想はしていた。王都から追放された令嬢。しかも代官が長年搾取してきた土地だ。領主という肩書きは、ここでは庇護者ではなく搾取者の同義語なのだろう。

私は無視を受け入れて、歩き続けた。

集落の外周を囲むはずの防護柵は、その大半が朽ち果てていた。杭は腐り、横木は折れ、柵として機能している区画は全体の三割にも満たない。これでは魔物の侵入を防げるはずがなく、昨夜の瘴気獣が領館まで容易に到達できたことにも合点がいった。

井戸は集落の中央に一つ。釣瓶を下ろしてみたが、縄は途中で切れ、桶は底に沈んだまま引き上げられなかった。覗き込むと、水面ははるか下——涸れかけている。石組みの内壁も数箇所が崩れ、泥が混じっているのが見えた。この水を飲んでいるのか。

「ハンス、台帳は残っていないかしら。税収の記録」

「昨夜のうちに領館の書庫を確認いたしました。帳簿類は——すべて持ち去られております」

やはり、か。証拠を残さぬよう周到に処理されている。王都の宰相府か、あるいはその手先の代官か。いずれにせよ、数年分の税収がこの地のために使われた痕跡は一切なかった。

井戸は涸れ、柵は壊れ、領館は半壊。畑は痩せ、備蓄は見当たらない。

私は持参した手帳に、状況を書き留めていった。もともと公爵家の令嬢として領地経営の基礎は叩き込まれている。帳簿を読み、収支を見積もり、資源を配分する。社交界の裏で地味に磨いてきたその能力が、まさかこんな形で必要になるとは思わなかったが。

「最優先は水の確保。次に柵の修繕、その次に食糧」

三つ挙げて、すべてが人手を要することに気づく。そして、その人手が得られる見込みはない。

集落を一周して領館に戻ると、ハンスの足取りが目に見えて重くなっていた。

「ハンス?」

返事がなかった。振り返ると、老執事は領館の入口に手をついて、荒い呼吸を繰り返していた。顔から血の気が引いている。

「ハンス!」

駆け寄ると同時に、老執事の膝が折れた。間一髪で支えたが、私の腕の中でハンスの体は驚くほど軽かった。六十を過ぎた老体に、三日間の悪路の馬車旅。昨夜の魔物騒ぎ。そして今朝の徒歩での巡回。無理を重ねすぎたのだ。

「申し訳……ございません、お嬢様」

「謝らないで。寝室に運ぶわ」

使える部屋のひとつに寝台を整え、ハンスを横たえた。額に手を当てると、微かな熱。重篤ではないが、休ませなければ悪化する。

薬草は昨夜、子狼の治療でほとんど使い切った。水は井戸から辛うじて汲み上げた濁り水。布で漉してから煮沸するしかない。

竈に火を入れ、水を沸かしながら、私は手帳を見つめていた。書き連ねた現状の羅列。すべてが足りない。すべてが壊れている。そして頼れる人間は、今この瞬間、寝台で意識を朦朧とさせている老人ただ一人。

——いや、違う。

頼れるのは、自分だ。最初から、自分しかいなかった。

王都では、公爵家の名が盾だった。父の権威、家門の財力、社交界の繋がり。すべて借り物の力だった。そして借り物は、すべて奪われた。

今、私の手にあるのは剣と、帳簿を読める頭と、この二本の腕だけだ。

手帳を閉じ、私は立ち上がった。

まず、井戸だ。

領館の物置を漁り、使えそうな道具を選び出した。錆びた鶴嘴、欠けた鋤、朽ちかけた縄。どれも万全には程遠いが、ないよりはましだ。

集落の中央に戻ると、やはり人の姿はなかった。家々の窓から視線だけが刺さるのを感じる。構わない。見たければ見ればいい。

井戸の石組みの崩れた箇所に手をかけ、まず瓦礫を取り除き始めた。積年の泥と苔にまみれた石は重く、素手では爪の間に土が食い込んだ。構わず続ける。一つ、また一つ。崩れた石を引き出し、積み直す。形の合う石を選び、隙間を埋める。日差しが傾いても、手を止めなかった。

午後になる頃には、爪が二枚割れ、掌の皮が剥けていた。ドレスの袖は泥で汚れ、裾は引き裂けている。公爵令嬢の姿ではもはやなかった。だが私は気にしなかった。むしろ、泥にまみれて石を運ぶこの時間の方が、社交界の仮面舞踏会よりもずっと自分に正直でいられた。

日が傾き始めた頃、背後に足音がした。

振り返ると、白髪の老人が立っていた。朝、畑の脇にいた男だ。深く刻まれた皺。日に焼けた肌。手には、新しい縄の束を持っている。

無言のまま、老人は縄を井戸の縁に置いた。

「……釣瓶の縄が切れとったろう。これを使え」

それだけ言って、背を向ける。

「ありがとうございます」

私の声に、老人は足を止めなかった。ただ片手をひらりと振っただけ。それは好意からではなく、ただ——井戸が使えないのは自分も困る、それだけのことだろう。

でも。

初めて、この土地の人間が私に物を渡した。それが何であれ。

新しい縄で釣瓶を結び直し、井戸に下ろす。手繰り寄せた桶の中に、まだ濁ってはいるが、先ほどよりは澄んだ水が揺れていた。

日が落ちる前に領館へ戻り、汲んだ水を沸かしてハンスに飲ませた。老執事の顔色は少し戻っていた。

「お嬢様……その手」

ハンスの目が、私の泥と血にまみれた手を見ていた。

「井戸の応急修繕をしただけよ。明日も続ける。石組みの下半分がまだ駄目だから」

「お一人で、ですか」

「他に誰がいるの」

ハンスが何か言いかけて、口を閉じた。その目尻に、うっすらと光るものがあった。

窓の外を見ると、あの子狼が中庭に座っていた。包帯を巻いた前脚を庇いながら、じっとこちらを見ている。傷の手当てをした相手を覚えているのか、領館の周囲から離れようとしない。

「居候がまた一匹増えたわね」

呟いて、残りの干し肉を一切れ、窓から投げてやった。子狼がそれを咥え、尾を一度だけ振る。

夜の帳が降り始めた。明日やることは山ほどある。石組みの修繕の続き。柵の補強箇所の選定。食糧の備蓄量の確認。どれも一人では途方もない作業だが、今日の一歩目は踏み出した。

竈の火を見つめながら、ふと思い出す。昨夜、森の奥に感じた人の気配。あれは何だったのか。子狼が耳を立てた方角——森の深部。この辺境の森には、魔物以外にも何かがいる。

考え込んでいると、窓の外で子狼が再び耳を立てた。昨夜と同じ方角。森の奥。

今度ははっきりと聞こえた。遠吠えではない。もっと低く、もっと——統率された、獣の唸り声。一頭ではない。複数の獣が、まるで何者かの号令に従うように、同時に声を上げている。

そして、その獣たちの声が途切れた一瞬の静寂の中に——笛の音が、微かに混じっていた。

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