第1話
第1話
「——よって、セラフィーナ・ヴァルトシュタイン公爵令嬢との婚約を、本日をもって破棄する」
王太子の声が玉座の間に響いたとき、私の耳にはまるで水の底から聞こえるように遠かった。
周囲の貴族たちが息を呑む気配。それから、堰を切ったようにざわめきが広がる。同情ではない。嘲笑だ。悪役令嬢がようやく断罪された——そういう空気が、金箔の天井に満ちた広間を支配していく。扇の陰で口元を隠す令嬢たち。目を合わせようとしない男たちの横顔。昨日まで微笑みを向けていた者たちが、まるで最初からそうであったかのように冷たい壁になっていた。
「辺境領ヴェルムンドへの赴任を命ずる。護衛は不要。公爵家の名に泥を塗った者に、王都の兵を割く道理はない」
不要、ではない。つけない、が正しい。魔物が跋扈する辺境に護衛なしで送るということは、体のいい死刑宣告だ。
私は背筋を伸ばしたまま、一礼だけを返した。涙は出なかった。悲しみよりも先に、臓腑の底から静かな怒りが這い上がってきたからだ。
——結構。ならば、もうこの場所に未練はない。
馬車が王都の門を出たとき、隣に座っていたのは老執事のハンスだけだった。六十を過ぎた痩躯に、仕立ての良い燕尾服。白髪を丁寧に撫でつけた横顔は、いつもと変わらない穏やかさを保っている。
「お嬢様。道中、何かお入り用のものは」
「ハンス、もう公爵令嬢ではないのよ。お嬢様はやめて」
「では、何とお呼びすれば」
「……好きに呼びなさい」
「では、お嬢様と」
私は窓の外に目を向けた。笑ってしまいそうだったからだ。この老人だけが、王都で唯一、最後まで私の傍にいてくれた。
馬車は三日かけて辺境領ヴェルムンドに辿り着いた。
街道の最後の数刻は、もはや道と呼べるものではなかった。車輪が石に乗り上げるたびに骨まで響く振動が走り、窓から見える景色は鬱蒼とした針葉樹の森に変わっていた。空気が変わる。王都の乾いた石畳の匂いではない。湿った土と、獣の気配を含んだ重い空気。時折、林の奥から枝を踏み折る音が聞こえ、ハンスがその都度わずかに肩を強張らせた。私は努めて平静を装っていたが、指先がドレスの裾を握り締めていることには気づいていた。
領館は——廃墟と呼ぶべきだった。
屋根の半分は崩れ、残った壁には蔦が食い込んでいる。正面の扉は蝶番が錆びつき、押し開けると軋む音が森に響いた。埃が舞い上がり、かすかに獣脂の腐った匂いがする。
「これが、公爵家の分領ですか」
ハンスの声に、かすかな震えがあった。帳簿の上では毎年それなりの税収が計上されていたはずだ。その金はどこへ消えたのか。答えは明白だった。王都の誰かが——おそらく宰相府の息がかかった代官が——長年にわたって横領していたのだろう。
「掃除から始めましょう、ハンス。屋根が落ちていない部屋を二つ見繕って」
私は燭台に火を灯し、領館の中を歩いた。使えそうな部屋は三つ。台所の竈はかろうじて生きている。井戸は——明日確認するしかない。
窓の外では日が落ち始めていた。針葉樹の森が黒い壁のように領館を囲んでいる。
夜が来た。
それは突然だった。
森の奥から、空気を裂くような遠吠え。一つではない。二つ、三つ——やがて数え切れなくなる。地鳴りのような低い唸りが地面を伝い、領館の壁が微かに震えた。燭台の炎がちらつき、壁に揺れる影がまるで生き物のように蠢いた。
「お嬢様、お下がりください」
ハンスが震える手で燭台を掲げた。その炎が照らした窓の外に——二つの赤い瞳が浮かんでいた。
私の体が動いたのは、思考より先だった。
馬車に積んできた長剣を鞘から抜く。刃渡り八十センチ。片手半剣。王都の武器庫から、追放の荷造りのどさくさに紛れて持ち出した一振り。柄を握った瞬間、掌に吸いつくような馴染みが走る。何百回、何千回と素振りを繰り返した手の記憶。
「令嬢が剣を握るなど」——かつて、偶然稽古を目撃した侍女にそう言われた。噂はたちまち広がり、「公爵令嬢は野蛮だ」「淑女の品格がない」と社交界の笑い種になった。
それでも、やめなかった。
なぜかはわからない。ただ、剣を振るうとき——魔力を刃に通し、呼吸と一体になるとき——私は初めて自分が自分であると感じられた。公爵令嬢でも、王太子の婚約者でも、悪役令嬢でもない。ただの、セラフィーナ。
窓を突き破って飛び込んできたのは、灰色の毛並みを持つ魔獣だった。狼に似ているが、肩の高さは私の腰ほどもある。牙の間から紫色の瘴気が漏れ、目は理性を失った赤に染まっている。砕けたガラスの破片が床に散り、冷たい夜気が一気に室内へ流れ込んだ。獣の体から立ち昇る瘴気の臭いが鼻を刺す。腐肉と硫黄を混ぜたような、生理的な嫌悪を掻き立てる臭い。
低位の瘴気獣。知識としては知っていた。辺境に棲む魔物の中では下級だが、成人の兵士でも油断すれば命を落とす。
獣が跳んだ。
私は半歩だけ右に体を捌き、振り下ろした刃に魔力を乗せた。指先から剣身へ、淡い銀の光が走る。王都の剣術指南役が「筋が良い」と唸った、正確な一閃。
——首筋の急所を、一太刀で断つ。
獣が床に崩れ落ちた。紫の瘴気が霧散し、残ったのは灰色の毛皮だけだった。
心臓がうるさいほど鳴っている。手は震えていなかった。けれど、初めて生き物の命を絶ったという事実が、剣を持つ腕にじわりと重く沈んだ。
「……お嬢様」
ハンスが呆然と立ち尽くしていた。燭台の炎が揺れ、老執事の顔に驚愕と——それから、何か深い感慨のようなものが浮かぶ。
「ハンス。怪我はない?」
「ございません。それより、お嬢様——いつの間に、それほどの腕を」
「十二の頃から、毎晩。あなたが寝静まった後にね」
嘘ではない。夜の庭園で素振りを繰り返し、父の書斎から持ち出した魔力制御の古書を読み漁った。誰にも見せなかった。見せれば止められる。公爵令嬢に剣は必要ない、と。
もう、隠す理由がなくなった。
それだけのことだ。追放されたことへの怒りでも、見返してやるという意地でもなく——ただ、ようやく鞘から抜いていい時が来た。それが、この夜だったというだけ。
朝になれば、領民たちの顔を見なければならない。冷たい目。「都から捨てられた令嬢に何ができる」。その視線に、私は何を返せるだろう。
剣を鞘に収め、血で汚れた床を拭いていたとき、領館の裏手から微かな鳴き声が聞こえた。
甲高い、幼い声。
裏口を開けると、月明かりの下に小さな影がうずくまっていた。子狼だ。先ほどの瘴気獣とは違う。毛並みは銀に近い白で、右の前脚を庇うように丸まっている。脚に深い裂傷があった。おそらく、先ほどの瘴気獣に群れから逸れたところを襲われたのだろう。
近づくと、子狼は怯えた目でこちらを見た。けれど逃げない。逃げる力が残っていないのだ。
気がつけば私は、荷物の中から布と薬草を取り出していた。傷口を洗い、砕いた薬草を当て、布できつく巻く。子狼は最初こそ身じろいだが、やがて大人しくなり、私の手の中で目を細めた。
温かい。小さな命の熱が、掌から腕へ、胸の奥へと染み込んでくる。
——何をやっているのだろう、私は。
追放された初夜に、領館の裏手で、傷ついた獣の手当て。悪役令嬢と呼ばれた女のやることがこれか。笑い話にもならない。
でも——やめられなかった。
社交界では冷酷だと囁かれた。王太子の寵愛を独占しようとする傲慢な女だと。実際には寵愛などなく、独占の意図もなく、ただ不器用に振る舞っていただけなのだが、誰もそんな弁明には興味を持たなかった。
けれど、私はこういう人間だ。目の前で傷ついている小さな命を見れば、手を差し伸べずにはいられない。剣を磨いたのも、本当は——誰かを傷つけるためではなく、何かを守るためだったのかもしれない。
悪役と呼ばれた私が、結局こういうことをやめられない。
子狼が小さく鼻を鳴らし、私の指に冷たい鼻先を押しつけた。
月が高い。森の向こうで、まだ遠吠えが続いている。辺境の夜は長く、魔物は何度でも来るだろう。領民は私を信じない。味方はこの老執事と、一振りの剣だけ。
それでも——剣の柄に触れると、不思議と恐怖は遠のいた。
明日から始めよう。この朽ちた領地を、自分の手で立て直す。誰に命じられたわけでもなく、誰かに認めてもらうためでもなく。
ただ——ここが、今日から私の場所だから。
裏手の闇の中、森の奥で何かが動いた気配がした。獣ではない。もっと小さく、もっと——人に近い気配。
子狼が、森の方角に向かって耳を立てた。