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魔力を隠す令嬢、辺境で解き放つ

第3話 第3話

第3話

第3話

馬車の扉が閉まる音は、棺の蓋が落ちる音に似ていた。

 舞踏会の翌朝——いや、翌朝と呼ぶには早すぎる。東の空がようやく白み始めた頃、私は学園の裏門から一台の馬車に押し込まれた。見送りはなかった。荷物すら最低限。侍女のマルタが泣きながら詰めてくれたらしい革鞄が一つと、着の身着のままの夜会服の上に羽織らされた旅装用の外套が一枚。それが、公爵令嬢セラフィーナ・フォン・ヴァイスフェルトに許された全財産だった。

 弁明の機会はなかった。

 夜が明ける前に、すべてが決まっていた。王宮からの早馬が学園に到着したのは舞踏会の混乱が収まった深夜二時。勅令の内容は簡潔だった。「セラフィーナ・フォン・ヴァイスフェルトの公爵家相続権を剥奪し、辺境領ヴェルムントへの退去を命ずる」。父の署名はなかった。ただ王家の印璽だけが、赤い蝋の上に押されていた。父が拒んだのか、そもそも相談すらされなかったのか——どちらにせよ結果は同じだ。

 馬車の窓は小さく、鉄格子がはまっていた。囚人護送用だ。外から施錠される扉、釘で打ちつけられた窓枠。体面を繕う気すらないということだろう。追放令嬢には、それが相応しいと誰かが判断した。

 御者台に二人、馬車の後方に騎馬の護衛が二人。計四人の護衛は、いずれも私と目を合わせなかった。合わせない、というより合わせるに値しないと判断している目だった。馬車に乗り込む際、護衛の一人が同僚に囁いたのが聞こえた。

 「魔女の護送か。厄落としに神殿へ寄りたいな」

 もう一人が鼻で笑った。

 「辺境まで五日だ。それまで暴走しなけりゃ御の字だろ」

 鉄格子の向こうで、学園の尖塔が朝靄の中に遠ざかっていく。十二年間通った図書館の、あの奥まった席。埃っぽい紙と古い糊の匂い。私が唯一、息のできた場所。

 それも、もう戻れない場所になった。

 ◇

 馬車が王都の外壁を抜けたのは、日が完全に昇ってからだった。

 石畳の振動が土道の揺れに変わり、車輪の音が柔らかくなる。窓の外を流れる風景は、整然とした農地からやがて疎らな林へ、林から荒れた草原へと移り変わっていった。王都を離れるほどに、人の手が届かなくなっていくのが目に見えてわかる。

 私は硬い座席の上で膝を抱え、揺れに身を任せていた。泣こうとした。泣くべきだと思った。父に見捨てられ、婚約者に断罪され、故郷を追われた令嬢なら、泣くのが道理だ。

 けれど涙は出なかった。

 代わりに、胸の奥に妙な静けさがあった。昨夜の魔力暴走の後、経路の疼きは嘘のように引いていた。十二年間、休むことなく内壁を灼き続けていた圧力が消えている。いや、消えたのではない。決壊して溢れ出した分だけ、圧が下がったのだ。

 その空白が、不思議と心地よかった。

 ——もう、隠す相手がいない。

 その事実が、唐突に胸に落ちた。

 学園はない。社交の場はない。父の目も、アルベルトの監視も、令嬢たちの囁きも。私の魔力を恐れ、あるいは利用しようとする人間が、この馬車の中にはいない。護衛たちは鉄格子の向こうにいて、私の手元など見てはいない。

 掌を、開いた。

 右手を膝の上に乗せ、五本の指をゆっくりと広げる。抑制の手順を——十二年間、一日も欠かさず繰り返してきた母の教えを、意識して解除した。経路を締め上げていた力を緩め、魔力の流れに逆らうのをやめる。

 指先が、熱を帯びた。

 昨夜とは違う。暴走でも決壊でもない。私自身の意志で、初めて、魔力を通した。

 掌の中心に炎が灯った。

 青白い、透き通った炎。蝋燭の火ほどの大きさ。揺れもせず、音もなく、ただ静かに掌の上で燃えている。熱はあるが熱くはない。私の魔力そのものが形を取ったかのような、どこまでも澄んだ光だった。

 息を呑んだ。美しかったからではない——いや、美しかったのは確かだが、それ以上に、この炎が持つ情報に驚愕したのだ。

 魔法学の基礎理論によれば、掌上に炎を維持するために必要な魔力量は、炎の体積と持続時間に比例する。蝋燭程度の火であれば、学園の実技試験で中位の生徒が十分間維持できる水準。何のことはない、基礎中の基礎だ。

 だが、今この炎に注いでいる魔力は、私の全体のごく一部——感覚的には、百分の一にも満たない。つまり蛇口をほんの僅かにひねっただけで、この火が灯っている。

 試しに、少しだけ流量を上げた。

 炎が膨れ上がった。掌から溢れ、拳二つ分の大きさになり、馬車の天井を舐めそうなほどに伸びる。慌てて絞ると、元の蝋燭の火に戻った。天井の木板が僅かに焦げた匂いがする。

 心臓が速く打っていた。だが昨夜のような恐怖からではない。

 流量をさらに絞り、針の先ほどの炎にした。そこから少しずつ、少しずつ開いていく。炎は忠実に応答し、流した分だけ正確に大きさを変えた。制御できている。暴走ではなく、私の意志で、魔力が動いている。

 理論が頭の中で回り始めた。図書館で読み漁った書物の記述、褪せたインクの注釈、属性変換の効率上限。蝋燭の火を百分の一の魔力で維持できるということは、全力で炎を出せばどうなるか。単純な比例計算ですら、答えは宮廷魔術師の実技記録を——。

 掌の炎を見つめたまま、私は小さく笑った。

 可笑しかったのだ。十二年間、こんなものを必死に隠していた自分が。怯え、苦しみ、身体を壊しかけてまで押し殺してきたものの正体が、こんなにも素直で、こんなにも扱いやすい力だったということが。

 隠さなければ、抑制の苦痛もなかった。隠さなければ、経路が灼けることもなかった。母の遺言は私を守るためのものだった——それは疑わない。けれど守ると同時に、私自身から私を切り離していた。

 炎を消した。掌を握り、開き、また握る。指先に残る余熱が心地いい。

 窓の外では、草原が続いていた。王都の華やかさはもうどこにもなく、灰色の空の下に荒野が広がっている。護衛の騎馬が単調な蹄の音を刻み、馬車は揺れ続ける。

 ◇

 辺境へ向かう道は、王都から離れるほど荒れた。

 三日目の夕刻、馬車が水場で停まったとき、私は初めて外の空気を吸った。護衛が扉を開けたのは善意ではなく、馬に水を飲ませる間の時間潰しだ。鉄格子の扉を開け放ち、「逃げても行く場所はないだろうが」と吐き捨てるように言った騎士の背中を、私は黙って見送った。

 小川の水で顔を洗い、外套の埃を払う。水面に映った自分の顔は、三日前より痩せていた。けれど目が違う。学園にいた頃の、怯えと疲弊に曇った目ではない。

 何が変わったのだろう。

 答えは簡単だった。馬車の中で、私は二日間ずっと魔力の実験を続けていた。

 炎の生成と消去。温度の制御。形状の変化——球、糸、薄膜。魔力の流量を精密に調節する感覚は、図書館で理論として学んだものとは全く異なっていた。理論は地図だが、実践は足で地面を踏む感覚だ。二日間で私は、十二年分の地図を身体に落とし込み始めていた。

 そしてわかったことがある。

 私の魔力量は、宮廷魔術師の上限を超えている。それも僅かにではなく、桁が違う。図書館で読んだ記録によれば、現在の宮廷魔術師長の最大魔力出力は「大火球術式の三十秒維持」が限界とされていた。私は馬車の中で、あの大火球と同等の炎を——小さく圧縮した形で——六時間維持し続けても、全体の一割も消耗しなかった。

 怖くはなかった。

 不思議と、怖くはなかった。むしろ掌の上で踊る炎を見つめるたびに、枯れたはずの感情が一つずつ灯っていくような感覚があった。知りたい。この力の限界を。この力の構造を。母が恐れ、王家が封じようとしたものの正体を。

 ——恐怖ではなく好奇心。

 小川の水面に映る自分の目に、その色を見た。

 涙はとうに乾いている。流すべき涙はもう流し終えた——いつの間にか。代わりに目に宿ったのは、図書館の奥で禁じられた注釈を見つけたときと同じ光だ。知りたい、という渇き。理解したい、という飢え。

 護衛の騎士が戻ってきた。「乗れ」と顎で馬車を示す。

 私は素直に従い、鉄格子の中に戻った。扉が施錠される音を、今度は棺の蓋とは思わなかった。

 馬車が動き出す。辺境まであと二日。その二日で、私はさらに多くのことを試せるだろう。王都では決して許されなかった実験を。誰の目も気にせず、誰の期待も裏切らず、ただ純粋に——私自身の力と向き合う時間を。

 掌を開く。小さな炎が灯る。もう隠す理由はない。

 鉄格子の向こうに、荒野が広がっていた。灰色の空、枯れた草原、点在する岩山の稜線。美しいとは言い難い。けれど、あの華やかな大広間より、はるかに息がしやすかった。

 ◇

 五日目の朝、馬車が最後の丘を越えたとき、護衛の一人が舌打ちした。

 「あれが辺境領ヴェルムントだ。……ご愁傷様だな」

 鉄格子越しに見えたのは、荒野の中にぽつりと立つ石造りの館と、その周囲に身を寄せ合うように建つ数十戸の家屋。屋根の半分は崩れ、畑は荒れ果て、領地と呼ぶにはあまりに寂れた光景だった。

 けれど私の目は、別のものを捉えていた。

 地平線の向こうに蠢く、黒い影。魔物の気配が風に乗って微かに届く。掌の中で魔力がちりと反応した。警告ではない。呼応だ。この土地に満ちる魔力の流れが、私の中の力と共鳴している。

 馬車が止まり、鉄格子の扉が開いた。護衛たちは荷を降ろすこともせず、革鞄を地面に放り投げると、逃げるように馬首を返した。蹄の音が遠ざかり、砂埃が風に流される。

 一人になった。

 荒野の風が外套を揺らす。乾いた土と、微かな硫黄の匂い。どこからか獣の遠吠えが聞こえ、地平線の影が蠢いた。

 私は革鞄を拾い上げ、崩れかけた館へ向かって歩き出した。掌の奥で、炎の種火がひっそりと脈打っている。

 ——さあ、始めよう。

 何を始めるのか、まだわからない。けれどこの力と、この場所と、隠す必要のなくなったこの身体で、何かが始まる。その予感だけが、胸の奥で確かに灯っていた。

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