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偽聖女は寡黙な騎士に見抜かれる

第2話 第2話

第2話

第2話

朝が来るのが、こんなにも怖いと思ったのは初めてだった。

薄明の光が天蓋の隙間から差し込んで、私の頬に触れる。異界の朝日は元の世界のそれより少しだけ青みがかっていて、まるで水の底から見上げた空のようだった。寝台の中で身じろぎすると、馴染みのない香の残り香がふわりと鼻をかすめる。ああ、夢ではなかったのだと、目覚めるたびに突きつけられる。

身支度を手伝いにきたマリエットが、てきぱきと私の髪を梳いてくれた。銀の鏡に映る自分の顔は、思ったよりも青白い。

「本日は朝の祈祷から始まりまして、その後に謁見が三件、午後には祝福の儀がございます」

「祈祷……」

「ご心配なく。聖女様はお立ちになって、祈りのお言葉を唱えるだけですわ。神官長様がお隣で導いてくださいます」

マリエットの笑顔には曇りがない。私が何も知らない異界の人間だということを、この子は「だからこそ丁寧にお教えしなければ」と純粋に受け止めているのだ。その信頼が、胸の奥に小さな棘を刺す。

祭服に着替え、部屋を出た。

廊下に、すでにセルディスが立っていた。黒い騎士服に銀の留め具。昨夜と寸分たがわぬ姿で、まるで一晩中そこに根を下ろしていたかのようだった。実際、そうだったのかもしれない。あの足音を最後に聞いてから、一度も遠ざかる気配はなかった。

「おはようございます、セルディス」

「おはようございます、聖女様」

それだけだった。表情は昨日と同じ、何の感情も浮かべない硝子の面。彼は自然な動作で私の斜め後ろにつき、半歩の距離を保って歩き始めた。足音がない。こちらの歩幅に合わせているのだと気づくまで、少しかかった。

——

祈祷の間は、神殿の中でもとりわけ天井の高い場所だった。

白い大理石の列柱が左右に並び、その合間から射し込む朝の光が、空気中に漂う香煙を淡く染めている。祈祷の間の空気は外よりもひんやりとしていて、吸い込むと肺の奥まで清められるような錯覚を覚えた。

正面の祭壇に進み出ると、両脇に控えた神官たちが一斉に頭を垂れる。背後には数十人の信徒たちが跪いている。その視線の全てが、私の右手——聖女の証に注がれていた。

神官長が小声で祈りの言葉を教えてくれた。聞き慣れない古い言い回しの祝詞を、私は唇の動きを真似ることで何とかなぞった。声を張ると粗が出る。だから小さく、けれど厳かに聞こえるよう、囁くように唱えた。音の響きだけを頼りに、意味の分からない言葉を紡いでいく。

祈祷はつつがなく終わった。——少なくとも、そう見えたはずだ。

続く謁見は、さらに神経を削るものだった。

地方領主たちが聖女の祝福を求めてやってくる。私は玉座に座り、彼らの嘆願を聞き、右手をかざして祈りの仕草をする。形だけの祝福。それでも人々は涙を浮かべて感謝を述べ、深々と頭を下げて去っていく。三人目の領主が「我が領地の疫病をどうかお鎮めください」と懇願したとき、右手がかすかに震えた。力なんて、ない。祈りで疫病が治るわけがない。それでも私は微笑んで、「必ずや」とだけ答えた。

声が自分のものではないように聞こえた。

そして、神官長の問いかけは、不意に来た。

「聖女様。先ほどの祝詞の第三節——『浄めの連祷』の部分でございますが、古い文献には別の唱え方も記されております。聖女様の異界での祈りの作法と、どちらが近うございましょうか」

言葉が、詰まった。

異界での祈りの作法。そんなものは知らない。私はただの——何の力もない、ただの人間だ。神官長の穏やかな瞳が、答えを待っている。背後の神官たちの視線も集まる。静寂が、数秒だけ長く引き延ばされた。

「……こちらの作法をお教えいただけますか。この世界の祈りで、この世界の民に寄り添いたいのです」

咄嗟に出た言葉だった。神官長は目を丸くし、やがて深く頷いた。

「なんと……なんとお優しいお心。かしこまりました」

危なかった。冷や汗が背中を伝う。視線の端で、セルディスの姿を捉えた。祈祷の間の入口近くの柱の影に、微動だにせず立っている。あの硝子の瞳が私を見ていたのか、見ていなかったのか、この距離では分からない。けれど、見られていた、と思った。根拠はない。ただ背中が知っている。

——

午後の祝福の儀を終え、夕刻が訪れた頃には、身体中の力が抜けていた。

笑顔というのは、これほど体力を使うものだったのか。頬の筋肉が軋み、目の奥が重い。謁見の間から居室へ戻る回廊を歩きながら、私は無意識に壁に手をついていた。

回廊は長い。神殿の東翼から最上階の居室まで、白い石の柱が延々と続く道のりだ。夕暮れの光が柱の間から斜めに差し込み、床に長い影の縞模様を描いている。足音は私のものだけ。いや——もうひとつ、聞こえないはずの気配が、半歩後ろに寄り添っている。

回廊の角を曲がったところで、不意に足が止まった。窓の外に、見知らぬ鳥が一羽、欄干に留まっていた。青と金の羽根をした、掌ほどの小さな鳥。首を傾げてこちらを見つめている。

その鳥を見た瞬間、なぜか涙腺が緩みかけた。何でもないものに心が反応してしまう。それだけ、張り詰めていたのだろう。

「お疲れですか、聖女様」

声は背後から降ってきた。

振り返ると、セルディスがいつもの位置に立っていた。半歩後ろ。表情は変わらない。けれど——その声には、労りとは少し違う何かが混じっていた。言葉の表面は丁寧で、けれど底の方に、硬い石のような響きがある。

試している。

直感がそう告げた。疲れていますかと問いながら、あなたは何に疲れているのですかと聞いている。聖女としての務めに疲れたのか。それとも——聖女のふりをすることに疲れたのか。

喉が渇いた。

「……少しだけ。慣れないことばかりで」

精一杯、自然に聞こえるよう答えた。嘘ではない。慣れないのは本当だ。ただ、何に慣れないのかを、正直には言えないだけだ。

セルディスは何も答えなかった。数秒の沈黙が、回廊の空気を重くする。夕陽が彼の青灰色の瞳を透かして、一瞬だけ淡い琥珀色に染めた。その目は依然として読めない。怒りでも、軽蔑でも、同情でもない。ただ、じっと。私の言葉の裏側を、丁寧に手で触れるようにして確かめている。

「神殿の務めは慣れるものではないと、先代の聖女に仕えた者が申しておりました」

ぽつりと落とされた言葉に、私は瞬きをした。先代の聖女。百年前にも、同じように召喚された人がいたのだ。

「その方も……大変だったのですか」

「存じません。私はお会いしたことがありませんので」

それきりだった。セルディスは再び沈黙し、私の半歩後ろに戻った。会話は終わり、回廊にはまた二つ分の足音——いいえ、私のぶんの足音だけが、静かに響く。

けれど、あの一言が耳に残った。先代の聖女に仕えた者。その言い方には、どこか個人的な手触りがあった。聞きかじった噂を語るような軽さではなく、もっと近い場所から聞いた言葉のように思えた。

居室の扉の前で、セルディスが一礼した。

「本日の護衛はここまでとなります。夜間は交代の者が参りますが、何かあればお呼びください」

「ありがとうございます」

扉を閉める寸前、振り返った。セルディスはまだそこに立っていた。背筋を伸ばし、廊下の暗がりに溶け込むような黒い騎士服のまま。その横顔を夕陽の名残が薄く照らしていて、ふと、この人にも影があるのだと思った。冷たいのではなく、何かを——押し殺している人の横顔だった。

扉が閉まる。私は寝台に座り込み、今日一日を思い返した。

祈祷も、謁見も、祝福の儀も。全てをこなした。ぼろを出さずに、一日を乗り切った。けれど安堵はなかった。代わりにあったのは、背中に焼きついた視線の記憶だった。セルディスは一日中、私のすぐ後ろにいた。一言も余計なことは言わず、一歩も持ち場を離れず、ただ見ていた。

この人にだけは嘘を見抜かれる——昨夜感じた予感が、今日、確信に変わりつつあった。あの問いかけは偶然ではない。あの沈黙にも、意味がある。

問題は、見抜いたうえで彼が何をするのか、ということだった。

告発するのか。それとも——。

右手の紋様を見下ろす。今日も一日、何の光も発さなかった模様。明日もまた、この紋様を掲げて祈り、嘘を重ねる。

窓の外で、青い月が昇り始めていた。白い月の影に隠れるようにして、遠慮がちに、けれど確かに。

明日は、神官長が新しい祈りの作法を教えてくれるはずだ。覚えなければ。もっと上手く偽らなければ。そう思ったのに、頭に浮かぶのは作法のことではなかった。

——お疲れですか、聖女様。

あの声が、まだ耳の奥に残っている。試すような響き。けれど同時に、ほんの微かに——本当に微かに——気遣いのようなものが、滲んでいなかっただろうか。

分からない。この人のことが、まだ何も分からない。

私は灯りを消して、寝台に横たわった。瞼の裏に、夕陽に透けた青灰色の瞳が浮かんで、なかなか消えなかった。

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