第3話
第3話
村への公務が告げられたのは、三日目の朝のことだった。
神官長が朝の祈祷の後、いつもより丁寧な口調で切り出した。王都の南に位置する小さな村で病が広がっており、聖女の祝福を求める嘆願が届いているのだという。私は頷いた。頷くしかなかった。神殿の中で祈りの形を繕うことにようやく慣れ始めた矢先に、その祈りを本当に必要としている人々の前に立たなければならない。喉の奥がきゅっと締まるのを感じたが、それを悟られぬよう、静かに息を吐いた。
馬車の中は狭かった。向かい合わせの座席に私とマリエット、そして斜め前の席にセルディスが座っている。普段は私の背後に立つ彼が、こうして正面近くにいると、逃げ場がない心地がする。革張りの座席は陽に焼けてところどころひび割れており、座るたびに乾いた音を立てた。窓の外を流れる景色は、王都を離れるにつれて色を失っていった。石造りの街並みが途切れ、乾いた土の道が続く。畑の緑はどこか褪せて見え、風に揺れる麦の穂も力なく項垂れている。土埃の混じった空気が隙間から入り込み、唇がすぐに乾いた。
マリエットが道中の段取りを説明してくれた。村に着いたら長老の出迎えを受け、病人の元を回り、一人ひとりに祈りを捧げる。形としては神殿での祝福の儀と同じだが、相手が病に伏せた人間だという一点が、決定的に違っていた。
セルディスは道中ほとんど口を開かなかった。ときおり窓の外に目を遣るだけで、その横顔からは何も読み取れない。車輪が石を踏むたびに馬車が揺れ、その振動が沈黙をいっそう重くした。
村は、想像していたよりもずっと小さかった。
土壁の家が二十軒ほど、痩せた木の柵に囲まれて肩を寄せ合うように建っている。馬車が止まると、村人たちがぞろぞろと集まってきた。老人も、子どもも、働き盛りの男も女も。その誰もが目を赤くしていて、私の姿を見た瞬間、堰を切ったように泣き崩れる者がいた。どこからか薬草を煮詰めたような苦い匂いが漂い、村全体が病に覆われているのだと肌で分かった。
「聖女様が……聖女様がこんな小さな村まで……」
白髪の長老が、杖にすがりながら膝をつこうとした。私は慌てて駆け寄り、その肘を支えた。骨と皮ばかりの腕が、手の中で震えている。
「どうか、お立ちになってください」
「ありがたい、ありがたいことでございます」
長老の声は枯れていた。何日も眠れていないのだろう、目の下には深い隈が刻まれ、頬はげっそりとこけている。それでもその目だけが、痛いほどの光を宿して私を見ていた。
長老に案内されて、病人たちの元を訪ねた。最初の家には、痩せた若い母親が幼子を抱いて横たわっていた。子どもの額には汗が滲み、小さな胸が苦しそうに上下している。母親は私を見上げて、ただ手を合わせた。言葉はなかった。言葉にならないほどの祈りが、その瞳の奥に満ちていた。
私は跪いて、右手をかざした。聖女の証が刻まれた手。何の力も宿っていない、ただの手。目を閉じて、祈りの言葉を唱える。神官長に教わった古い言い回しを、一語一語、丁寧に紡いだ。
何も起きなかった。
光も、温もりも、奇跡の気配も。指先はただ空気を撫でるだけで、幼子の荒い呼吸は変わらない。
けれど——目を開けたとき、母親が泣いていた。
声を殺して、肩を震わせて、私の右手を見つめながら涙を流していた。そして掠れた声で言った。
「ありがとうございます。聖女様が祈ってくださった。それだけで、それだけで——」
胸が潰れるかと思った。
二軒目も、三軒目も、同じだった。祈りは何も変えない。熱は下がらず、咳は止まず、痩せた身体が元に戻ることもない。それなのに人々は泣いた。私の手に触れ、額に押し当て、感謝の言葉を繰り返した。ある老婆は私の祭服の裾を握りしめて離さなかった。幼い子どもが私の足元に花を置いた。道端に咲いていた名もない小さな花を、一生懸命に摘んできたのだと、その子の母親が教えてくれた。
五軒目の家を出たとき、足が止まった。
村の広場に戻ると、さっき祈りを受けた人々が外に出てきていた。まだ熱のある身体を引きずって、まだ咳き込みながら、それでも顔を上げて私を見ている。その目にあったのは、希望だった。
嘘が作った希望だった。
何の力もない私が祈りの真似事をしただけで、この人たちは明日も生きようと思っている。私の嘘が、この人たちの杖になっている。その重さが、足元から這い上がってきて、膝が笑った。
マリエットが心配そうに私の腕を取った。
「リーネ様、お顔が真っ白ですわ。少しお休みに——」
「大丈夫。大丈夫だから」
大丈夫ではなかった。けれどここで崩れるわけにはいかない。あの人たちが見ている。私の嘘を希望だと信じた人たちが、まだ見ている。
帰路の馬車の中は、行きよりもずっと静かだった。
マリエットは疲れて眠ってしまった。栗色の頭が馬車の揺れに合わせて小さく傾ぐ。窓の外には夕暮れの野原が広がっていて、赤い陽が地平線に溶けかけている。遠くの丘の稜線が、燃えるような橙色に縁取られて、それが次第に紫に変わっていく。空の色がこんなにも美しいことが、今は少し残酷だった。
私は自分の右手を見つめていた。紋様は相変わらず沈黙している。あの母親が、この手に額を押し当てたときの温度がまだ残っている気がした。
「聖女様」
不意に、セルディスの声がした。低く、静かな声。馬車の軋みに紛れてしまいそうなほど小さかったのに、はっきりと聞こえた。
顔を上げると、彼は窓の外を見ていた。夕陽の残照が青灰色の瞳を淡く染めている。視線は遠い丘の向こうに向けられたまま、こちらを見てはいなかった。
「民は奇跡ではなく、祈る姿に救われるのです」
一瞬、意味を掴みかねた。
祈る姿に救われる。奇跡ではなく。それは——慰めだろうか。それとも、もっと別の何かだろうか。力のない祈りでも、祈ること自体に意味があるとでも言いたいのか。あるいは——「奇跡が起きないことを知っている」という、遠回しな告白なのか。
言葉が喉の奥に詰まった。何と返せばいいのか分からなかった。ありがとう、とも、そうですね、とも言えなかった。彼の言葉の真意を測りかねて、ただ口を開いては閉じることを二度繰り返した。
セルディスはそれ以上何も言わなかった。視線は遠いまま、夕暮れの野原を見ている。横顔には感情の影がなく、けれどあの言葉が生まれた場所には何かがあったはずだと思った。無感動な人間が、あんなことは言わない。
馬車が石畳の道に戻り、車輪の音が変わった。硬く規則正しい響きが、土の道のやわらかな揺れとは違う現実を告げている。王都の門が近い。マリエットがかすかに身じろぎしたが、まだ目を覚まさない。夕陽は完全に沈み、空には最初の星がひとつだけ灯っていた。
私は窓に映る自分の顔を見つめた。ぼんやりとした輪郭の中に、疲弊した目だけがはっきりと浮かんでいる。
あの村の人たちは、今夜も私の祈りを思い出すのだろう。何も変わっていないのに、聖女が来てくれたというだけで、少しだけ安らかに眠れるのだろう。その事実が——嬉しいのか、苦しいのか、自分でも分からなかった。
セルディスの言葉が反芻される。民は奇跡ではなく、祈る姿に救われる。もしそうだとしたら、私の嘘は——嘘のままでいいのだろうか。
答えは出ない。出ないまま馬車は神殿に着き、私は再び聖女の顔を纏って石段を上がった。
居室に戻り、祭服を脱いだ。右手の紋様を燭台の灯りにかざすと、今日触れた人々の体温が蘇るようだった。老婆の骨ばった指。幼子の汗ばんだ額。母親の涙。名もない花を差し出した子どもの、泥のついた小さな手。あの花はまだ馬車の中に置いてきてしまった——そう気づいたとき、不意に涙が一筋、頬を伝った。
明日は——朝の祈祷の後に、大浄化の儀の予行があるとマリエットが言っていた。聖女が聖泉に祈りを捧げ、水を浄化する、国の重要儀式。
水を、浄化する。
右手を握りしめた。爪が掌に食い込む。村の祝福は形だけで乗り切れた。けれど浄化の儀はどうだろう。水は変わるか変わらないか、誰の目にも明らかだ。嘘では越えられない壁が、すぐそこまで迫っている。
窓の外で、二つの月が並んで昇っていた。白い月と青い月。その光が交じり合う場所だけ、空が淡い銀色に滲んでいる。
——民は奇跡ではなく、祈る姿に救われるのです。
あの言葉に縋りたかった。けれどセルディスは、あれを慰めとして言ったのだろうか。今はまだ、分からない。分からないものばかりが、胸の中に降り積もっていく。