第1話
第1話
燭台の炎が揺れた。それだけのことだった。
王太子エドワルド殿下との婚約披露の夜会。黄金色のシャンデリアが大広間を照らし、数百の貴族たちの祝辞が幾重にも重なるその空間で、私——リゼル・フォン・クレスティア——は、不意に視界の端が暗くなるのを感じた。
胸の奥がきゅっと締まる。呼吸が浅くなる。つい先ほどまで、隣に立つ殿下の横顔を盗み見ては頬を染めていたはずなのに、急に世界が色を失っていくような感覚に襲われた。シャンデリアの光が滲み、楽団の旋律が遠のき、周囲の貴婦人たちが纏う香水の甘い匂いだけがやけに鮮烈に鼻腔を刺した。
グラスを持つ指先から力が抜ける。ドレスの裾が床に広がる音がした気がしたけれど、もうそれが自分のものなのかもわからない。
誰かが私の名を呼んでいる。遠い、水の底から聞こえるような声。
——そして、目の前に広がったのは、見たこともない光景だった。
同じ大広間。けれど空気がまるで違う。甘い祝祭の香りは消え、張り詰めた沈黙が石壁に反響している。窓から差し込む光は薄曇りの灰色で、大広間全体が水底に沈んだように冷たかった。
壇上に立つのはエドワルド殿下。その隣には、純白のドレスを纏った見知らぬ少女。淡い金の髪に菫色の瞳。少女は涙を湛えた目で私を見つめ、そしてゆっくりと——指を差した。
「この方が、私に毒を盛ろうとしたのです」
少女の声は震えていた。か細く、今にも折れそうな小鳥のような声。けれどその震えがかえって信憑性を帯びて、大広間のすべての耳に染み渡っていく。
大広間がざわめく。だが誰も、少女の言葉を疑う者はいなかった。
貴族たちの視線が私に集まる。憐憫、嫌悪、好奇——何百という目が、獲物を値踏みするように私を射抜いていた。つい数ヶ月前まで「公爵家の令嬢」として丁重に挨拶を寄越していたはずの人々が、一人残らず壁の向こう側に立っている。
エドワルド殿下の氷のような声が降ってくる。
「リゼル・フォン・クレスティア。その弁明、聞く価値があると思うか」
殿下の蒼い瞳には、かつて私に向けられていた柔らかな光は微塵もなかった。あの瞳で見つめられるたびに胸が高鳴っていたのが、まるで別の世界の記憶のようだった。
私は——いや、夢の中の私は——叫んでいた。違う、私はそんなことしていない、と。けれど言葉は音にならず、誰の耳にも届かない。喉が焼けるように痛いのに、声だけが出ない。まるで透明な硝子の箱に閉じ込められて、外から自分の破滅を眺めているような感覚だった。振り返った先の父は、目を伏せて唇を噛んでいた。あの強い父が、まるで娘を見捨てたかのように。父の握りしめた拳が小刻みに震えていたのを、夢の中の私ははっきりと見ていた。
「領地は没収。修道院へ送れ」
その宣告が下された瞬間、夢の中の私は膝から崩れ落ちた。冷たい大理石の床に、涙が一つ落ちる。惨めで、哀れで、どうしようもない姿だった。
——これが、三ヶ月後の私。
理解した瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
堰を切ったように流れ込んでくる。知らないはずの記憶。コンビニエンスストアの蛍光灯。通学路の踏切。スマートフォンの画面に映る、美麗なキャラクターイラスト。
『——乙女ゲーム?』
そうだ。私は知っている。この世界を。この物語を。
聖女マリアベル。王太子エドワルド。そして悪役令嬢リゼル・フォン・クレスティア。プレイヤーの前に立ちはだかり、断罪されて退場する、噛ませ犬の令嬢。
それが私。
前世で何度もスキップした断罪イベントの、当事者。
笑い出しそうになった。いや、泣くべきなのかもしれない。前世の自分は社会人で、あのゲームはただの暇つぶしで、悪役令嬢の断罪シーンなんて「ざまぁ」と笑って見ていた側だった。それが今、まさにその「ざまぁ」される側にいる。因果応報というにはあまりにも理不尽で、笑いと涙のどちらが正しいのかわからなかった。
けれど、意識が夢の中に留まっている最後の数秒で、私はあることに気がついた。
マリアベルが証拠として突きつけていた手紙。「リゼルが毒を手配した」という内容が書かれた、あの決定的な証拠の手紙。
あの筆跡は、私のものではない。
前世の記憶でも、ゲームの中では手紙の内容はテキストで表示されるだけだった。筆跡など描写されない。つまり、あの予知夢が見せたのは「ゲームのイベント再生」ではなく、この世界で実際に起こる未来そのもの。
そして、その未来では——誰かが、私の名を騙って手紙を偽造している。
『これは、ゲームのシナリオをなぞっているんじゃない』
意識が浮上していく。夢の大広間が遠ざかり、現実の感覚が戻ってくる。柔らかな寝台の感触。焚きしめた白檀の香り。微かに聞こえる侍女たちのひそひそ声。
『誰かが——意図的に、私を嵌めようとしている』
目を開けた。
天蓋付きの寝台から見える天井は、クレスティア公爵邸のものだった。夜会から運ばれたのだろう。枕元の燭台が小さな炎を揺らしている。寝台の帳が微かに風を含んで揺れ、影が壁を這うように動いた。
「お嬢様! お気づきになられましたか」
侍女のエマが駆け寄ってくる。年若い彼女の目は赤く、泣いていたのがすぐにわかった。握りしめたハンカチの端が皺だらけになっている。
「……エマ。私はどれくらい眠っていたの」
「夜会のお最中に倒れられて——もう四刻ほどです。お医者様は、過労だろうと」
過労。便利な診断だ。前世の記憶が蘇った衝撃など、この世界の医術で計れるはずもない。
身体の感覚を一つずつ確かめる。指先は冷たい。頭の芯がまだ鈍く痛む。けれど意識は驚くほど明瞭だった。むしろ——これまでの十七年間がぼんやりとした夢で、今この瞬間に初めて目が覚めたような、奇妙な覚醒感があった。
「……そう。ありがとう、もう大丈夫よ」
「でもお嬢様、お顔の色が——」
「大丈夫」
繰り返して、私は寝台の上で身を起こした。
頭の中では、前世の記憶と予知夢の映像が渦を巻いている。三ヶ月後の断罪。聖女の告発。偽造された手紙。味方のいない大広間。泣き崩れる自分。
夢の中の私は、何もできなかった。知らなかったから。何が起きるのかも、なぜ自分が嵌められるのかも、誰が敵なのかも。
でも今の私は知っている。
三ヶ月ある。証拠は偽造されている。敵の正体はマリアベル。そして何より——この世界の仕組みそのものを、私は知っている。
エマが差し出した白湯を受け取り、一口含んだ。温かい。陶器の滑らかな縁が唇に触れ、湯気が睫毛をくすぐる。この温もりは、夢ではない。
泣かない、と決めた。
ゲームの悪役令嬢は泣いて、叫んで、そして退場する。それが用意されたシナリオだというのなら——私は、その筋書きの外に出る。
エドワルド殿下に縋る気はない。あの方はもう、聖女に心を傾け始めているはずだ。ゲームの序盤、婚約披露の夜会の直後から攻略が始まる。つまり今夜、もうルートは動き出している。
取り戻すべきものなど、最初からなかったのだ。
「エマ」
「はい、お嬢様」
「明日の朝一番に、お父様との面会を取り次いで。それから、書斎にある領地間交易の記録簿をすべて私の部屋に運んでちょうだい」
エマが目を丸くする。無理もない。今まで交易の帳簿など見向きもしなかった令嬢が、倒れた直後に言うことではない。
「お嬢様……?」
「三ヶ月しかないの」
それだけ告げて、私は白湯のカップを置いた。カップがサイドテーブルに触れる硬い音が、静かな部屋に小さく響いた。
窓の外では、夜会の余韻が星明りに溶けていく。あの大広間で、エドワルド殿下は今ごろ何をしているだろう。婚約者が倒れたというのに、聖女の隣で微笑んでいるのかもしれない。
構わない。
私が欲しいのは、王太子の腕ではなく、三ヶ月後の自分の足場だ。
予知夢の最後に見た、あの偽造手紙の筆跡。あれを辿れば、きっと糸口が見つかる。
胸の奥で、小さな炎が灯った。恐怖ではない。怒りでもない。もっと静かで、冷たくて、確かなもの。
『——私を嵌めようとしている誰かさん。あなたの筋書き通りになると思ったら、大間違いよ』
三ヶ月後の夜会で泣くのは、私ではない。