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予知夢の悪役令嬢は事実だけで断罪を覆す

第2話 第2話

第2話

第2話

夜が明ける前に、私は目を覚ました。

 正確には、眠れなかったというべきだろう。寝台に横たわったまま、天蓋の刺繍を見つめ続けていた。絹糸で縫い取られたクレスティア家の紋章——交差する剣と百合の花。この紋章の意味を、前世の私はスキップボタンひとつで読み飛ばしていた。

 窓の外が白み始める。東の空にかかった薄雲が淡い桃色に染まり、鳥の声が庭園の奥から届いた。夜会の喧騒が嘘のような静寂だった。

 身を起こし、寝台の脇に置かれた書き物机に向かう。昨夜エマに運ばせた羊皮紙の束と、インク壺。燭台の残り火がちらちらと揺れるなかで、私は羽根ペンを取った。

 書かなければならない。あの予知夢のすべてを、記憶が鮮明なうちに。

 大広間の配置。壇上のエドワルド殿下の立ち位置。マリアベルが着ていたドレスの色と、指を差したときの角度。取り巻いていた貴族たちの顔ぶれ——覚えている限りのすべてを、一つ残らず書き出していく。

 ペン先が羊皮紙の上を走る音だけが、薄明の部屋に響いていた。

 そして、最も重要なもの。

 偽造手紙の特徴。筆跡の癖。文字の傾き。インクの色味。夢の中の私は泣き叫ぶことに精一杯で、手紙の細部など見る余裕がなかった。けれど、覚醒した意識が夢の記憶を掘り起こすと、驚くほど細かな描写が浮かび上がってくる。

 予知夢というものが、ただの悪夢とは異なる所以だろうか。あの光景は映像ではなく、体験だった。大広間の空気の冷たさも、大理石の床の硬さも、マリアベルの香水の甘ったるい匂いも、すべてが五感に刻まれている。

 羊皮紙を三枚書き潰したところで、ようやくペンを置いた。指先がインクで汚れている。爪の間に入り込んだ藍色の染みを眺めながら、次にすべきことを整理する。

 ゲームの知識。前世で遊んだあの乙女ゲームの記憶を、できるだけ正確に思い出さなければならない。

『聖女マリアベル・エーデルシュタイン。平民出身だが聖女の力に目覚め、王立学院に特別編入される。時期は——婚約披露の夜会から約二週間後』

 つまり、あと二週間で彼女は学院に現れる。そこから攻略が始まり、三ヶ月かけてエドワルド殿下の心を完全に掌握する。その過程で悪役令嬢リゼルは嫉妬に狂い、聖女に嫌がらせを繰り返し、最後に断罪される——というのが、ゲームの筋書きだった。

 だが現実の私は、マリアベルに嫌がらせなどしていない。する理由もない。にもかかわらず断罪が起こるということは、証拠は外部から作られるのだ。偽造手紙がその最たるもの。

 羊皮紙の余白に、時系列を書き加えていく。

 今日が婚約披露の翌日。マリアベル編入まで二週間。断罪の夜会まで約三ヶ月。その間に偽造手紙が作られ、悪評が広められ、味方がすべて剥がされる。

『エドワルド殿下は——攻略対象だから、マリアベルになびくのは避けられない』

 ゲームには五人の攻略対象がいた。王太子エドワルド、騎士団長の息子、魔術学院の首席、教会の司祭候補、そして——一人だけ、どのルートにも深入りしない人物がいたはずだ。名前が思い出せない。確か、非攻略対象の公爵で、個別ルートを持たないのに妙に存在感のある人物だった。

 後で思い出そう。今はまず、目の前の二週間でできることを洗い出すのが先だ。

 窓の外がすっかり明るくなった頃、扉を叩く音がした。

「お嬢様、おはようございます。お加減はいかがですか」

 エマが朝食の盆を手に入ってくる。銀の盆の上には温かなスープと焼きたてのパン、それから小さな花瓶に活けられたすみれの花。こんな朝でも花を添えてくれるのは、エマの気遣いだった。

 盆をテーブルに置いたエマの視線が、書き物机に散らばる羊皮紙に留まる。インクの染みがついた指先にも。

「お嬢様……もしかして、一晩中起きていらしたのですか」

「少し、考え事をしていたの」

「考え事」

 エマが私の顔をまじまじと見つめた。年は私より二つ下の十五歳。亜麻色の髪を簡素な三つ編みにまとめた、そばかすの浮いた丸い顔。その栗色の目に、困惑とも心配ともつかない色が浮かんでいる。

「お嬢様」

「何?」

「昨夜からずっと気になっていたのですが——お嬢様、何か変わられましたよね」

 心臓が一拍、跳ねた。

「お倒れになる前のお嬢様は、エドワルド殿下のお傍から離れたくないと仰っていました。お顔の色が悪いのに、もう少しだけと。それなのに目覚められてからは殿下のことを一度もお尋ねにならないし、交易の帳簿をお求めになるし……」

 エマが言いよどみ、けれど目を逸らさなかった。侍女としての分を弁えながらも、主人の異変を看過できないという誠実さが、あの真っ直ぐな目に滲んでいた。

「失礼を承知で申し上げます。昨夜お倒れになったとき、何かあったのではありませんか」

 ——この子は、鋭い。

 ゲームの中のエマは、名前すら与えられていないモブキャラクターだった。リゼルの侍女というだけで、台詞もほとんどない。断罪の場面にいたかどうかすら覚えていない。

 けれど今、目の前にいるのはゲームのモブではなく、主人の変化に気づき、それを口にする勇気を持った一人の少女だ。

 どこまで話すべきか。予知夢のことは——まだ早い。前世の記憶など、狂人の戯言と取られかねない。けれど、この先の三ヶ月を一人で戦い抜くのは難しい。信頼できる人間が一人でも必要だった。

「エマ。あなたに一つ聞きたいの」

「はい」

「もし私が——これまでの私とは違うことを言い出しても、あなたは私の傍にいてくれる?」

 エマが目を瞬かせた。それから、まるでおかしなことを聞かれたとでもいうように、小さく首を傾げた。

「お嬢様、私は六つのときからお嬢様にお仕えしています。お嬢様がどうお変わりになっても、私の居場所はお嬢様のお傍です。そんなことは、お聞きくださらなくても」

 その声に、一片の迷いもなかった。

 不意に、目の奥が熱くなった。泣かないと決めたばかりなのに。

 こらえた。まだ何も始まっていない。感傷に浸っている暇はない。

「ありがとう、エマ。なら、今日からあなたには少し変わったことを頼むわ。まず、この書き物を誰にも見せないで。それから、お父様との面会の件は——」

「朝一番に申し伝えてございます。九時にお書斎でお待ちだそうです」

 思わず息を吐いた。この子は、言われる前に動いている。

「それと、交易の記録簿ですが」

 エマが扉の外に目配せをすると、廊下に積まれた革装丁の帳簿が覗いた。夜のうちに書斎から運び出してくれていたらしい。

「お嬢様が目覚められたらすぐお渡しできるよう、ご用意しておりました」

「……あなた、本当に優秀ね」

「お褒めに預かり光栄です」

 エマが微かに頬を染めて、けれどすぐに表情を引き締めた。帳簿の束を手際よく書き物机の横に積み上げ、インクで汚れた羊皮紙を端に寄せてスペースを作る。その所作の一つひとつが丁寧で、迷いがなかった。

 この子がいれば、と思った。予知夢で見たあの大広間では、味方は一人もいなかった。父でさえ目を伏せていた。

 でも今なら——少なくとも一人、私の味方がいる。それだけで、三ヶ月という時間の重みがまるで違って感じられた。

 朝の光が窓から差し込み、書き物机の上に広げた羊皮紙を照らした。インクの文字が朝日を受けて淡く光る。予知夢の記録。時系列の整理。そしてまだ名前の思い出せない、どのルートにも属さない公爵。

 スープの湯気が立ち上るのを眺めながら、私はこの朝を記憶に刻んだ。泣かないと決めた朝。すべてが始まった、最初の朝。

「エマ」

「はい、お嬢様」

「九時までに支度をするわ。それから——帳簿を読むのを手伝って。数字を読み上げてくれるだけでいいの」

 エマが不思議そうに首を傾げたが、「かしこまりました」と素直に頷いた。なぜ交易の帳簿なのか、なぜ急にそんなことを始めるのか。疑問はあるだろうに、問い詰めずに従ってくれるこの距離感が、今の私にはありがたかった。

 窓の外、庭園の薔薇が朝露に濡れて光っている。この屋敷から王立学院までは馬車で半刻。あと二週間で、あの学院にマリアベルがやってくる。

 聖女の微笑みの裏に、あの冷たい目を隠して。

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