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予知夢の悪役令嬢は事実だけで断罪を覆す

第3話 第3話

第3話

第3話

二週間は、あっという間だった。

 帳簿を読み、領地間の物流を把握し、父との面会では社交辞令ではなく数字の話をした。父は最初こそ戸惑っていたが、三度目の面会で「お前、誰に似たんだ」と呟いた。褒められたのか呆れられたのか、判断がつかなかった。

 エマとの日課も板についてきた。朝は帳簿の読み合わせ、午後は社交界の動向を整理する。エマの情報収集能力は侍女の域を超えていて、どこの令嬢がどの茶会に出席したか、誰と誰が不仲になったか、驚くほど正確に把握している。前世の感覚でいえば、優秀なリサーチャーだ。

 そうして迎えた、王立学院の新学期初日。

 馬車の窓から見える学院の尖塔が、朝もやの中に白く浮かんでいた。蔦の絡まる石壁、磨かれた鉄門、整然と並ぶ菩提樹の並木道。学院はいつもと変わらない。変わったのは、門の前に群がる生徒たちの空気のほうだった。

「聖女様がいらっしゃるんですって」

「平民から特別編入なんて、前代未聞よ」

 囁き声が、朝の冷えた空気に混じって届いてくる。好奇、畏敬、そしてわずかな警戒。聖女という称号は、この世界では王族に準ずる重みを持つ。それが突然現れたのだから、学院中が浮き足立つのも無理はなかった。

 私は馬車を降り、いつもどおりの歩調で校舎に向かった。背筋を伸ばし、視線はまっすぐ前に。公爵令嬢として十七年間叩き込まれた所作が、こういうときに役に立つ。動揺を表に出さない技術は、貴族教育の数少ない美点だと思う。

 大講堂に入った瞬間、それは目に飛び込んできた。

 壇上に、学院長と並んで立つ少女。淡い金の髪が窓からの光を受けて透き通り、菫色の瞳が講堂を見渡している。純白のドレスではなく学院の制服を纏っていたが、その佇まいには制服の地味さを圧倒する華があった。

 マリアベル・エーデルシュタイン。

 予知夢で見た、あの少女。

 胸の奥が冷たく引き締まる。忘れるはずがない。あの大広間で、震える声で私を告発した顔。涙を湛えた菫色の瞳で、真っ直ぐに私を指差したあの指。

 けれど今、壇上のマリアベルは泣いてなどいなかった。柔らかな微笑みを浮かべ、少し恥ずかしそうに睫毛を伏せている。その仕草に、講堂のあちこちから感嘆のため息が漏れた。

「——皆様にお会いできて光栄です。平民の身でこのような場に立たせていただけるなんて、夢のようで」

 小鳥のような声。か細く、けれどよく通る。あの予知夢で聞いた声と寸分違わなかった。

 学院長が聖女の経歴を紹介する間、私はマリアベルの表情だけを見ていた。周囲の令嬢たちが感動に頬を紅潮させ、令息たちが居住まいを正すなかで、私だけが別のものを探していた。

 あった。

 マリアベルの視線が講堂を一巡するとき、一瞬だけ——本当に一瞬だけ——私の上で止まった。菫色の瞳の奥に、慈愛とも無邪気ともまるで異なる光がよぎる。値踏みするような、品定めするような、冷たく研ぎ澄まされた視線。

 それは小鳥の目ではなかった。獲物を見定めた猛禽の目だった。

 瞬きひとつの間に、その目はもう消えていた。再び柔らかな微笑みを浮かべたマリアベルは、隣の令嬢に何か話しかけられて、花が綻ぶように笑っている。あまりにも自然で、あの一瞬を見ていなければ、私も騙されていただろう。

『——やっぱり、この子は只者じゃない』

 ゲームのマリアベルは、プレイヤーの分身として描かれた善良な聖女だった。悪役令嬢に虐められ、攻略対象たちに守られ、最後に正義が勝つ。それだけの存在。

 でもこの世界のマリアベルには、ゲームでは描かれなかった「裏側」がある。偽造手紙を用意し、悪評を操作し、三ヶ月かけて私を追い詰める。それだけの知恵と覚悟を持った人間が、あの無垢な微笑みの下に隠れている。

 紹介が終わり、マリアベルが壇上から降りてくる。令嬢たちが群がるように近づく中で、彼女はまっすぐ——私のほうに歩いてきた。

「あなたがリゼル・フォン・クレスティア様ですわね。王太子殿下のご婚約者の」

 菫色の瞳が、間近で私を見上げる。身長は私より頭半分ほど低い。小柄な体躯、華奢な肩。守ってあげたくなるような少女。

「お噂はかねがね。どうぞよろしくお願いいたします」

 深々とお辞儀をするマリアベルに、周囲の視線が集まる。聖女が悪役令嬢に丁寧に挨拶する構図。これだけで、もし私が冷たく返せば「やはりリゼル様は高慢だ」と噂が立つ。逆に親しくすれば、後の告発がより劇的になる。

 どちらに転んでもマリアベルの得になる、巧みな初手だった。

「ごきげんよう、マリアベル様。聖女の力に目覚められたとか。学院に新しい風が吹きそうですわね」

 笑みを作る。完璧な、公爵令嬢の社交の微笑み。深くも浅くもなく、好意も敵意も読み取れない、訓練された表情。

 マリアベルが一瞬、探るように目を細めた。想定していた反応と違ったのかもしれない。けれどすぐに花のような笑顔に戻り、「お優しいお方ですのね」と囁いた。

 その囁きが届く距離にいた令嬢たちが、感心したようにうなずく。聖女と公爵令嬢の友好的な挨拶。美しい光景。誰もが額面通りに受け取っている。

 ——誰も、あの一瞬の目を見ていない。

 午後の講義が終わり、学院の回廊を歩いていたとき、それを見つけた。

 中庭に面したバルコニー。午後の陽光が白い石柱を温め、薔薇のアーチが影を落とす場所。そこに、エドワルド殿下とマリアベルが並んで立っていた。

 殿下がマリアベルに何かを話している。表情までは遠くて読み取れないが、その身体の向き方が——婚約者である私に向けるそれとは、明らかに異なっていた。身体ごと相手に向けている。防御のない、開かれた姿勢。無意識に相手との距離を縮めようとする、あの傾き方。

 マリアベルが何かを言い、殿下が笑った。

 見覚えのある笑い方だった。かつて、私にだけ見せてくれたと思っていた、あの柔らかな笑み。

『——もう始まっている』

 不思議と、胸は痛まなかった。二週間前なら、きっと涙が出ていただろう。あの夜会で殿下の隣に立ったとき胸を焦がしていた感情は、確かにあったのだ。けれど今はもう、あの炎は静かに灰になっている。前世の記憶が、恋する少女だった私を遠い場所に押しやってしまった。

 それでいい。恋に目が眩んでいたら、三ヶ月後には泣き崩れるしかない。

 回廊の柱に背を預け、目を閉じた。

 エドワルド殿下を取り返す。——それは、最悪の手だ。ゲームの攻略は覆せない。マリアベルは聖女の力と、そしてあの恐ろしいほどの演技力で殿下の心を手繰り寄せる。そこに割って入れば、嫉妬に狂った悪役令嬢というレッテルが現実のものになる。

 では、どうする。

 答えは、二週間かけて帳簿を読み込んだ中に、すでにあった。

 クレスティア公爵領は王国東部の穀倉地帯を擁する。一方で港湾を持たない内陸領であるため、海上交易には常に隣領への依存を強いられてきた。王太子との婚約は、その政略的不利を補う蝶番でもあった。

 だが蝶番は、別の場所にも掛けられる。

『殿下を取り返すのではなく、殿下から離れる理由を作る。婚約が消えても困らないだけの足場を、先に築く』

 そのためには、別の後ろ盾が必要だ。王家以外の、しかし王家に匹敵する力を持つ存在。

 ——名前が、ふいに浮かんだ。

 帳簿を読む中で何度も目にした名前。クレスティア公爵領の西に隣接する広大な領地を治め、王国最大の港湾都市を擁する貴族。どの派閥にも属さず、王太子にも媚びず、ゲームの中でもどのルートにも深入りしなかった人物。

 クラウス・フォン・ヴァイスフェルト公爵。

『そうだ。あの人だ。ゲームでは攻略対象ですらなかったのに、妙に存在感があった——』

 港湾と穀倉。海路と内陸。互いに持たないものを、互いが持っている。

 殿下の腕を掴み返すのではなく、自分の足で立てる場所を作る。そのための鍵が、あの公爵にある。

 目を開けた。バルコニーにはもう誰もいなかった。薔薇のアーチだけが、午後の風に揺れている。

「帰るわ、エマ」

 いつの間にか背後に控えていたエマが、静かに頷いた。何も聞かない。けれどその栗色の目が、私の表情を読んで安堵したように和らいだのがわかった。

 学院を出る馬車の中で、私は膝の上に広げた手帳に一行だけ書き加えた。

『クラウス・フォン・ヴァイスフェルト——面会の糸口を探すこと』

 馬車が石畳を踏む振動が、文字を小さく震わせた。窓の向こうで学院の尖塔が遠ざかっていく。あの塔の下で、マリアベルは今ごろ新たな味方を増やしているのだろう。

 構わない。彼女が人の心を集めている間に、私は数字と事実を集める。

 勝負は、まだ始まったばかりだ。

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