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偽聖女と沈黙の花畑

第3話 第3話

第3話

第3話

七日目の朝食は、いつもと違った。

 扉の前に置かれた木の盆を持ち上げたとき、まず重さが違うと思った。いつもの硬いパンと冷めた煮物に加えて、小さな陶器の椀がひとつ。蓋を開けると、薄い粥が湯気を立てていた。湯気。この部屋に来てから初めて見る、食事から立ち上る白い息。

 思わず顔を近づけた。穀物の甘い匂いがする。匙で掬うと、とろりとした感触が指先に伝わった。一口含む。温かい。舌の上で粥がほどけて、喉を通るとき、体の芯にじんわりと熱が染みていく。

 ——おいしい。

 その言葉が浮かんだ瞬間、目の奥が熱くなりかけた。こらえた。たかが粥だ。温かい粥が出ただけで泣くような自分を、まだ許したくなかった。

 パンもいつもより柔らかい。煮物には肉片が混じっている。何かの間違いではないかと思った。誰かが盆を取り違えたのか、あるいは——。

 理由は考えないことにした。ただ手を合わせて、いただきますと言った。粥を半分ほど食べたところで、腹の奥に違和感が走った。

 最初はただの空腹の痛みだと思った。何日も冷えた残り物ばかり食べていたのだ、急に温かいものを口にすれば胃が驚くこともあるだろう。けれど違和感はすぐに鋭さを増した。腹の底を掴まれるような、ねじれるような痛みが波のように押し寄せてくる。

 椀を置いた。手が震えていた。

 二度目の波が来たとき、私は悟った。これは胃の驚きではない。

 粥の底を匙でかき回すと、わずかに色が違っていた。穀物の白に紛れるように、灰色がかった粉が沈殿している。味の区別がつかなかったのは、粥の甘みに隠されていたからだ。

 ——混ぜられていた。

 温かい食事。初めての温もり。それ自体が罠だった。冷めた残り物なら匂いや色で気づけたかもしれない。湯気の立つ粥を、私が疑いもせず口にするとわかっていた誰かが、ここに粉を仕込んだ。

 腹痛が三度目の波を起こす前に、私は盆ごと窓辺に運び、中身をすべて石枠の外に捨てた。粥が壁を伝って落ちていく。パンも、煮物も。迷わなかった。どれに何が入っているかわからない以上、すべてが信用できなかった。

 空になった盆を床に置いて、膝を抱えた。腹の痛みはまだ残っている。脂汗が額に浮き、指先が冷たい。半分ほど食べてしまった分が体の中にある。吐き出そうとしたが、うまくいかなかった。

 ——誰が。

 侍女頭だろうと、すぐに思い至った。食事の配膳を取り仕切っているのは侍女頭のベルタだと、中庭で侍女たちが話しているのを聞いたことがある。偽聖女の食事に何を混ぜようと、訴え出る先がない。私には侍女もつかず、声を届ける相手もいない。神官長に直訴するだけの立場も、宰相に抗議するだけの後ろ盾もない。

 それをわかった上での、あの温かい粥だった。

 壁にもたれて目を閉じた。腹の痛みが少しずつ引いていく。下剤の量はさほど多くなかったのだろう。殺す気はない。ただ惨めな思いをさせたいだけだ。偽聖女が厠に駆け込む姿を見て、陰で笑いたいだけだ。

 ——泣かない。

 歯を食いしばった。泣いたら、あの人たちの思うとおりになる。

 立ち上がって、窓辺に行った。白い花が今日も咲いている。五枚の花弁が、朝の光を受けて淡く透けていた。水差しの残りを注ぐ。乾いた土が水を吸い込む小さな音を聞くと、呼吸がほんの少し楽になった。

「……おはよう」

 花に話しかける自分がおかしいとは、もう思わなかった。この部屋で声を出す相手は、この花しかいないのだから。

 

 昼が過ぎても食事は来なかった。もとより昼食が届かない日は珍しくない。けれど今日はいつもと意味が違う。朝食を捨てた以上、昨夜の夕食から何も口にしていない。水だけは水差しに残っていたが、それすら信用してよいのか迷った。結局、喉の渇きに負けて少しだけ飲んだ。何も起こらなかった。水には何も入っていなかったらしい。

 夕刻が近づいて、扉の前に夕食の盆が置かれた。蓋を開ける気にはなれなかった。中身を確かめもせず、盆を廊下に戻した。

 窓辺に座って膝を抱えていると、空腹が静かに体を削っていくのがわかった。頭の芯がぼんやりする。指先がかすかに震える。故郷の神殿で断食の修行をしたことがある。あのときは三日間水だけで過ごした。あれに比べれば、まだ一日だ。耐えられる。

 耐えられる、と自分に言い聞かせた。

 日が沈んだ。

 廊下に足音が響く。いつもの一定の歩調。カイルが定位置につく音だとわかるようになっていた。朝から廊下に立ち、中庭の巡回で離れ、夕刻にまた戻る。その間に私たちが交わした言葉は一言もない。

 足音が定位置で止まった——と思った瞬間、止まらなかった。もう二歩、三歩。扉のほうに近づいてくる。

 息を詰めた。

 何かが扉の前に置かれる音がした。硬いものが木に触れる音と、もうひとつ、革と金属の擦れるかすかな音。

 足音が遠ざかっていく。いつもの歩調。振り返る気配はない。

 少し待ってから、扉を開けた。

 石畳の上に、干し肉の包みと革の水筒が置かれていた。

 干し肉は油紙に包まれていて、騎士団の携行糧食のものだった。固く燻された肉の匂いがする。水筒は使い込まれた革製で、口金に小さな凹みがある。持ち上げると水の重みがあった。

 配膳の残り物ではない。これは、あの人自身のものだ。

 包みを開けた。干し肉が三切れ。一切れをちぎって口に含むと、燻製の塩気と肉の旨味が口の中に広がった。硬くて、粗くて、繊細さのかけらもない味だった。それが途方もなくありがたかった。

 水筒の蓋を開ける。水ではなかった。薄い麦茶のような——騎士団で淹れる煎じ湯だろうか。温もりはもうなかったが、冷たくもなかった。一口飲むと、空っぽの胃の奥にすとんと落ちていった。

 干し肉を噛みながら、涙がこぼれそうになった。こらえた。泣く理由が違う。朝は悔しさで泣きそうになった。今は——今のこれは、何だろう。名前がわからない。

 私は包みと水筒を持って、廊下に出た。

 カイルは定位置に立っていた。十歩先の壁際、腕を組み、視線はどこか遠く。いつもとまったく同じ姿勢。まるで何もしていないかのように。

「ありがとう、ございます」

 声が震えた。思ったより小さな声しか出なかった。

 カイルは反応しなかった。こちらを見もしなかった。壁に背をつけたまま、暗い灰色の瞳は廊下の先の闇に向けられている。

 私はそれ以上何も言えず、扉の中に戻った。

 扉を閉める瞬間、廊下に変化があった。

 足音が始まった。カイルが巡回に戻るのだろう。硬い靴底が石畳を打つ音。一定の間隔。いつもと同じ歩調——。

 いや。

 違った。

 ほんのわずか、気づかないほどわずかに、歩く速度が遅かった。一歩と一歩の間の沈黙が、いつもより長い。心臓の一拍分だけ——いや、半拍だけ。

 聞き間違いかもしれない。扉越しの音は歪む。石壁に反響すれば拍子も変わる。そう思おうとした。でも耳は覚えていた。この七日間、毎朝毎晩聞いてきたあの足音の間隔を、体がもう記憶していた。

 あの人は、少しだけゆっくり歩いた。

 それだけのことだ。振り返りもしなかった。言葉もなかった。ただ歩く速度がわずかに落ちた。それが何を意味するのか、あるいは何も意味しないのか、私にはわからない。

 わからないけれど。

 寝台に座って干し肉の残りを噛んだ。塩辛い。硬い。でも体の隅々にまで沁みていくのがわかる。空っぽだった胃が、少しずつ温まっていく。

 窓辺の白い花に目をやった。月明かりの中で、花弁が静かに揺れている。

「……ありがとう」

 もう一度、呟いた。今度は花に向かって。あるいは、花の向こうの薄暗い廊下に向かって。

 返事はない。扉の向こうにはもう足音もない。月光だけが、変わらず石壁を照らしている。

 ——明日の食事も、きっと信用できない。

 それでもたぶん、あの人はまた何か置いてくれる。根拠はない。ただそう思った。何も言わず、何も受け取らず、ただ立っている人。でもあの人は見ていた。冷めた食事の盆を、空のまま廊下に戻した私を。

 干し肉の包みを大切に畳んで、寝台の脇に置いた。水筒はまだ半分残っている。明日の朝まで持たせよう。

 毛布を引き寄せて横になる。軍用の厚い毛布。あの人の毛布。その上にもう一つ、今夜は干し肉の燻された匂いが微かに残っている。

 目を閉じた。腹の奥にまだ鈍い痛みの名残があった。けれど意識の端にあるのは痛みではなく、あの足音だった。半拍だけ長くなった、一歩と一歩の間の沈黙。

 あの沈黙の中に何があったのか、訊く日は来るのだろうか。

 来なくてもいい、と思った。

 来なくても——あの速度の変化を、私だけが知っていればいい。

 

 翌朝、扉の前にいつもの盆があった。

 蓋を開けると、硬いパンと冷めた煮物。昨日と同じだ。温かい粥はない。盆の隅に、小さな紙片が挟まれていた。丸みのある字で一言——「召し上がれ」。侍女頭の手か、その指示を受けた誰かの手か。

 私はパンを半分にちぎり、断面を確かめた。匂いを嗅いだ。煮物の底を匙でかき回した。灰色の粉末は見えない。けれどもう、見えないことは安全の証にはならなかった。

 盆を廊下に戻した。

 水筒に残った煎じ湯を一口飲んで、花に水をやった。

 窓の外、中庭を見下ろすと——離れた回廊の柱の影に、見覚えのない人影が立っていた。侍女でも騎士でもない。宮廷の衣装とは違う、質素な灰色の衣。顔は柱に隠れて見えない。ただ、こちらを見上げている気配だけが、朝の冷たい空気の中を伝わってきた。

 目を凝らした瞬間、人影は柱の向こうに消えた。

 風が中庭を渡った。白い花が一度だけ、大きく揺れた。

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