第2話
第2話
朝が来たことを、鐘の音で知った。
遠い。宮廷の中心にある鐘楼から、いくつもの壁と中庭を越えてようやく届く音は、水底で聞く振動のように輪郭が曖昧だった。目を開けると、まず視界に入ったのは天井の稲妻のようなひび割れで、次に頬に触れる毛布の織り目の粗さだった。
——夢ではなかった。
昨夜、扉の前に置かれていた毛布。私はそれを寝台に広げたまま眠っていた。起き上がると、厚い布地が肩からずり落ちる。軍用らしい、無骨な手触り。角の折り込みは夜の間に崩れて、今は普通の毛布と変わらない姿になっていた。
窓辺の白い花は、昨日と同じように咲いている。朝の光が薄く差し込んで、五枚の花弁の縁だけを淡く照らしていた。私は水差しの残りを注ぎ、花に「おはよう」と言った。返事はない。当たり前だ。でも声を出すことが、朝の儀式になりかけている。
朝食は、昨夜と同じ木の盆で届いた。扉の前に置かれていて、いつ届いたのかもわからない。硬いパンと、干からびた果物が二切れ。昨夜の煮物よりはましだが、正餐の残り物であることは匂いでわかった。甘い香辛料の名残が果物に移っている——貴族の食卓に並んだ菓子の隣に置かれていたのだろう。
私は椅子に座り、手を組んで、いただきますと言った。
三日が過ぎた。あるいは四日だったかもしれない。日の傾きと鐘の音だけが時刻を教えてくれるこの部屋では、日数の感覚がゆるやかに溶けていく。
毎朝、扉の前に食事が置かれる。昼は届かない日のほうが多い。夕食は必ず届くが、冷めていないことは一度もなかった。三日目の夕食には虫が一匹、煮物の底に沈んでいた。取り除いて食べた。四日目は、パンに爪の跡のようなものがあった。偶然かもしれない。偶然だと思うことにした。
部屋を出て中庭を歩くと、すれ違う侍女たちが囁く。私に聞こえないと思っているのか、あるいは聞こえてもかまわないと思っているのか。
「——まだいるのね」 「帰る場所もないのでしょう。田舎の孤児ですもの」 「偽聖女に割く予算なんてないのに、宰相様も慈悲深いこと」
足音を殺しているつもりでも、彼女たちの声は石壁によく響いた。私は歩調を変えなかった。変える必要がなかった。故郷の神殿でも、村の子どもたちに「捨て子」と呼ばれたことがある。言葉は痛い。でも、痛いだけだ。血は出ない。
四日目の昼過ぎ、扉を叩く音がした。
開けると、神官の下官が巻物を一つ差し出した。読み上げもしない。手渡して、くるりと背を向ける。
巻物にはこう記されていた。
「偽聖女リーネ・アシュベルに形式上の護衛を配属する。騎士団副長カイル・ヴェルナー。任期は追って通達する」
形式上の護衛。その四文字が、私の立場を正確に表していた。守る価値のある者につける護衛ではない。「偽聖女を放置している」と外聞が悪いから、体裁を繕うための配置。辞令の末尾には宰相の署名があった。
その日の夕刻、廊下の端に人影が立った。
長身だった。背筋がまっすぐに伸び、騎士団の紺色の外套が肩から床近くまで落ちている。腰に剣を佩いているが、柄に手を添える気配はない。壁に背をつけて、腕を組み、視線はどこか遠くの一点に据えられていた。
私の扉から十歩ほどの距離。近くもなく、遠くもない。護衛としての定位置ということなのだろう。
「あの……」
声をかけた。反応はなかった。聞こえなかったのではないと思う。彼は瞬きひとつしなかった。まるで石壁の一部であるかのように、表情も姿勢も揺らがなかった。
私はもう一度口を開きかけて、やめた。言うべき言葉が見つからなかったのではない。彼の横顔にあったのが、拒絶でも無関心でもなく、もっと硬質な——自分自身に向けた何かの強制のように見えたからだ。話しかけてはいけない距離がある。それを、なんとなく感じた。
部屋に戻った。扉を閉めると、廊下の気配がわずかに遠のく。けれど消えはしなかった。あの人は、あそこに立っている。
それから、言葉のない日々が続いた。
朝、部屋を出ると彼はもうそこにいた。いつ来るのかわからない。私が起きるより早く、廊下に立っている。中庭を歩けば五歩後ろをついてくる。振り返ると、視線は必ず別の方向を向いていた。
書庫への道を通りかかったとき、侍女たちの輪が廊下を塞いでいた。私に気づくと、ひそひそ声がぴたりと止み、一人が甲高い声で言った。
「あら、偽聖女様のお通りよ。道を空けて差し上げなくちゃ」
笑い声。私は俯いて脇を通り抜けようとした。肩が誰かにぶつかり、意地悪く押し返される。よろけた私の背後で、靴底が石畳を一歩だけ鳴らした。それだけだった。カイルは何もしなかった。何も言わなかった。ただ一歩分の距離が縮まった、その気配だけが廊下に残った。
侍女たちが散ったのは、彼の視線に気づいたからだろうか。それとも単に飽きたからだろうか。わからない。わからないけれど、あの一歩を私は聞いた。
食事は相変わらず残り物だった。冷たい粥、端の欠けたパン、水っぽい野菜の煮込み。食べ終えた盆を廊下に出すとき、カイルはいつも視線を逸らした。中身を見ているのか、見ていないのか。彼の表情からは何も読み取れなかった。
花には毎日水をやった。それだけが、私のこの場所での仕事だった。枯れもせず、育ちもしない。ただ静かに白く咲いている。不思議な花だと思う。名前を知りたかったけれど、聞ける相手がいない。
六日目の夜だった。
眠れない夜が続いていた。寝台は毛布のおかげで以前より温かくなったけれど、体が疲れるだけの一日を過ごした後の夜は、かえって目が冴える。何もしていないのに疲れている。何もできないから疲れている。
水を飲もうと思って、扉をわずかに開けた。
廊下の暗がりに、まだ人影があった。
カイルが——壁に額を預けていた。
立ったままだった。腕は力なく体の横に下がり、剣の柄に手は添えられていない。外套の肩が微かに上下している。呼吸が深い。眠っているのかと思ったが、違った。目は閉じているのに、閉じ方が眠りのそれではなかった。何かに耐えている人の閉じ方だった。
月光が、細い窓から廊下に一筋だけ差し込んでいた。その白い光が、彼の横顔の輪郭だけを切り取っている。彫りの深い顔立ち。額にかかる暗い髪。目の下に刻まれた濃い影。
——疲れている。
この人は、深く疲れている。
騎士団の副長が、偽聖女の護衛などという閑職に回されて、それでも毎日ここに立っている。命令だからだろう。それ以外に理由があるとは思えない。形だけの護衛、形だけの任務。それでも彼は手を抜かなかった。朝早くから夜更けまで、この薄暗い廊下に立ち続けていた。
扉の隙間から覗いている自分が恥ずかしくなって、私は静かに扉を閉じようとした。
蝶番がかすかに軋んだ。
カイルの目が開いた。壁から額を離し、一瞬で姿勢を正す。その動きに無駄はなく、疲弊の影は既に消えていた。冷徹と呼ばれる騎士の顔が、月光の中に戻っている。
目が合った。
暗い灰色の瞳だった。月明かりの下では銀に近い色に見える。その瞳が私を捉え——けれど何も問わなかった。なぜ起きているのかも、何を見たのかも。
私も何も言えなかった。「眠れないんです」とも、「あなたも休んでください」とも。喉まで上がってきた言葉は、彼のあの横顔を見てしまった後では、どれも軽すぎた。
数秒の沈黙があった。月光が廊下を横切り、私たちの間の石畳を白く染めている。
カイルが視線を外した。壁に背をつけ、再び腕を組む。それだけだった。立ち去りもしない。声もかけない。ただ、もとの位置に戻った。
私は扉を閉めた。
寝台に戻り、毛布を引き寄せる。軍用の、厚い毛布。角を几帳面に折り込む癖。
——この毛布を置いたのは、あの人だ。
確信があった。根拠と呼べるものはない。ただ、あの折り方と、あの背筋の伸ばし方と、何も言わずに去っていく足音が、全部同じ人のものだとわかった。
胸の奥で何かが小さく軋んだ。温かさではない。痛みに近い。あの人もまた、この宮廷の中で何かを背負わされているのだと思った。偽聖女の護衛という、誰も望まない任務を。
窓辺の白い花が、月明かりの中で揺れている。風はない。それでも花弁がかすかに震えているように見えるのは、きっと私の目が滲んでいるからだ。
翌朝、廊下に出ると、扉の脇の壁にかすかな擦り傷があった。外套の金具がこすれたような、小さな傷。昨夜、彼が額を預けていた、ちょうどその高さに。
カイルは十歩先の定位置に立っていた。背筋は伸び、視線は遠く、表情はない。昨夜の疲弊は痕跡すら残っていなかった。まるで、あの月光の下の横顔は幻だったかのように。
——でも、壁は覚えている。
私は何も言わず、中庭へ歩き出した。五歩後ろで、硬い靴底が石畳を叩く音がついてくる。振り返らなかった。振り返れば、あの人も振り返らないとわかっていたから。
中庭の隅で、侍女たちがまた何かを囁いている。今日はもう聞こえない。聞こえているのに、届かない。耳の奥にあるのは昨夜の蝶番の軋みと、あの一瞬の沈黙だけだった。
五歩後ろの足音が、今日は少しだけ近い気がした。四歩半か、四歩か。数えるのはやめた。数えてしまったら、意味を持ってしまう。まだ、意味を持たせてはいけない距離だと思った。
——明日の朝食に、もし温かいものがあったなら。二つに分けて、一つを廊下に置こうか。
その考えが浮かんで、すぐに打ち消した。温かいものなど届きはしないし、仮に届いたとしても、あの人は受け取らないだろう。何も言わず、何も受け取らず、ただ立っている人だから。
それでも——と思う自分がいることに、私は少しだけ驚いていた。