第3話
第3話
回廊を歩き出したのは、大広間の楽団が新しい曲を奏で始めた頃だった。
足取りは確かだった。少なくとも、そう見えるように努めた。背筋を伸ばし、裾を引きずらぬよう歩幅を整え、王城の長い回廊を一人で抜けていく。すれ違う侍従が一人、私の顔を見て何か言いかけたが、私が軽く会釈すると慌てて道を空けた。婚約破棄の噂はもう城中に広まっているのだろう。憐れみの視線を向けるべきか、無視すべきか——彼らもまだ判断がつかないのだ。
正門を出ると、夕刻の風が頬を撫でた。王都ヴァイセンブルクの石畳は夕陽を受けて薄い橙色に染まり、馬車の轍が長い影を落としている。通りには花売りの声と、酒場から漏れる笑い声。何も変わらない日常が、そこにはあった。私の十二年が終わったことなど、この街は知りもしない。
宿までの道すがら、指先の熱が引かなかった。手袋の下でちりちりと燻る白い光。クロード殿下の言葉が、歩調に合わせて繰り返し蘇る。
——あなたの力を必要とする場所がある。
力。私の力。十二年間、存在しないことにされてきたもの。
宿の階段を上りながら、記憶が自然と遡っていった。あの日のことを——六歳の春の朝のことを。
発現したのは、アルトシュタイン領の礼拝堂だった。
毎朝の祈りの時間。ステンドグラスから差し込む光の中で、幼い私は膝をつき、両手を組んでいた。母が亡くなって間もない頃で、祈りの言葉さえ満足に唱えられなかった。ただ、母の面影を思い浮かべていた。温かい手。白い指。微笑むと目尻に小さな皺ができる、穏やかな顔。
そのとき、組んだ指の隙間から光が溢れた。
白金の光だった。礼拝堂の空気が震え、ステンドグラスの聖人たちが一斉に輝き出したように見えた。床の石畳に刻まれた古い魔法陣が光を受けて浮かび上がり、天井まで届く光の柱が立ち上る。幼い私には、それが何なのかわからなかった。ただ、温かかった。母の手に触れているような温もりが、体の芯から広がっていくのを感じた。
駆けつけた司祭が、膝から崩れ落ちた。
「聖属性……第七位階……」
老司祭の声は震えていた。畏敬か、恐怖か、あるいはその両方。百年の間、生きた人間には発現しなかったとされる魔法の位階。それが六歳の少女の掌から溢れ出しているという事実に、礼拝堂にいた誰もが言葉を失った。
父が駆けつけたのは、その日の夕刻だった。
書斎に呼ばれた私を待っていたのは、父の隣に立つ見知らぬ男——王家の使者だった。胸元に王家の紋章を刺繍した黒衣の男は、表情のない顔で父に羊皮紙を手渡していた。
「お父さま、わたし、何かいけないことをしたの?」
父は答えなかった。片膝をつき、私と目線を合わせ——その目に浮かんでいたのは、喜びではなかった。唇が白くなるほど引き結ばれた顔。まだ幼かった私にも、父が怯えていることだけはわかった。
「セラフィーナ。お前は明日から、これを身につけなさい」
父が差し出したのは、銀の腕輪だった。一見すると装飾品のように見えるが、内側には微細な魔法陣が刻まれている。触れた瞬間、体の奥にあった温かい光がぎゅっと縮こまるのを感じた。
「王妃に過剰な魔力は不要だ。——これは、お前を守るためでもある」
父の声は低く、抑揚がなかった。守るため。誰から? 何から? 六歳の私にはわからなかったが、父の目にあった恐怖の色だけは鮮明に覚えている。
王家の使者は、帰り際にこう言い残した。
「第七位階の発現は、王家の記録にのみ留めます。公爵家におかれましても、一切の口外を禁じます」
それが、十二年間の封印の始まりだった。
銀の腕輪は成長に合わせて三度作り直された。常に左の手首にあった。入浴の時も、就寝の時も。やがてその重さに慣れ、封印されている感覚すら薄れていった。体の奥にある白い炎は、年を追うごとに静かになり、最後にはほとんど感じられなくなった。
代わりに残ったのは、消し去れない違和感だけだった。自分の中に封じられた広大な空間があり、そこに何かが息を潜めて眠っている——そんな感覚が、十二年間ずっと続いていた。
宿の部屋の扉を閉めると、私はようやく一人になった。
質素だが清潔な部屋だった。王都の宿としては中程度の格。白い壁に木枠の窓、簡素な寝台と小さな書き物机。婚約者がいた頃なら考えられない宿だが、今の私にはこれで十分だった。
外套を脱ぎ、手袋を外す。左手首の銀の腕輪が、夕陽の残光を受けて鈍く光った。
十二年間、片時も外さなかったもの。外す理由がなかったのではない。外すことを許されなかったのだ。
けれど今、婚約は破棄された。王家との繋がりは断たれた。王妃になるための枷は、もう意味を持たない。
私は腕輪の留め具に指をかけた。
指先が震えた。恐怖ではない。十二年ぶりに蓋を開ける、その重さだった。これを外せば——もう戻れない。封じ込めていた力が目を覚まし、六歳の私が見たあの光が還ってくる。
留め具が外れた。銀の腕輪が手首を離れ、寝台の上に転がった。
最初は何も起きなかった。一呼吸、二呼吸。腕輪の跡が白く残った手首を見つめる。
次の瞬間、体の芯が爆ぜた。
白金の光が両手から噴き出し、部屋を満たした。天井、壁、床——すべてが真白に染まる。書き物机の上の羽根ペンが浮き上がり、水差しの水面が波立ち、窓硝子が高い音を立てて振動した。寝台のシーツが風もないのに翻り、蝋燭の炎が青白く燃え上がる。
十二年分の魔力が、一気に解き放たれようとしていた。
「——っ」
声にならない声が漏れた。体が熱い。指先から肘、肩、胸の奥まで、白い炎が血管を駆け巡るように広がっていく。制御しなければと思うのに、手綱を握る場所がわからない。十二年間封じられていた力は、かつて六歳の私が自然に扱えたそれとは別物のように暴れていた。
成長とともに力も育っていたのだ。封印の中で、誰にも知られず、静かに。
壁に手をつき、呼吸を整えようとした。だが手が触れた壁面にも聖光が走り、白い紋様が浮かび上がっては消える。水差しが弾け、陶器の破片が光に包まれて宙を舞った。
このままでは部屋が保たない。宿の者に気づかれる。
私は歯を食いしばり、両手を胸の前で組んだ。祈りの形。六歳の朝、礼拝堂でそうしていたように。母の温もりを思い出し、光の奔流に向かって呼びかける。
——鎮まって。お願い。
光が揺らいだ。暴風のような放射が、わずかに弱まる。それでもまだ、部屋の調度品は白く輝いたままだった。寝台の木枠に聖光の紋が焼き付き、窓硝子には霜のような模様が刻まれている。
数分かかって、ようやく光は収まった。完全に消えたのではない。指先には蛍火のような輝きが残り、空気中にはきらきらと微細な燐光が漂っている。部屋は薄暗い夕闇に戻ったが、壁や天井のあちこちに、聖光が刻んだ白い痕跡が残されていた。
寝台に腰を下ろすと、全身から力が抜けた。こめかみを冷たい汗が伝い、膝が小刻みに震えている。
十二年間の封印は、力を消していたのではなかった。ただ溜めていたのだ。六歳の発現時とは比較にならないほど膨れ上がった魔力が、今の私の中にある。それを御す術を、私はまだ持っていない。
割れた水差しの破片を拾い集めながら、私は冷静に現状を整理した。
力はある。けれど制御できなければ、力は災いにしかならない。叙勲式の広間で魔導灯を暴走させたのも、今この部屋を白く染め上げたのも、すべて制御の欠如が原因だ。このまま野放しにすれば、周囲を巻き込みかねない。
銀の腕輪を見つめた。再び嵌めれば、力は封じられる。元の静かな日々に戻れる。
けれど、その選択肢は一瞬で消えた。もう十二年分の鎖に繋がれる気はない。
必要なのは、封印ではなく制御だ。この力を自分のものとして使いこなすこと。それには時間と、おそらく然るべき導きがいる。
——私の国には、あなたの力を必要とする場所がある。
クロード殿下の言葉が、三度、耳の奥で響いた。あの方は私の力を見抜いていた。聖属性の、しかも高位階の魔力だと正確に看破していた。ルーゼリアは魔導研究の先進国だと聞く。もしあの方の傍に、この力を導ける知見があるとしたら——
窓の外では、王都の夕暮れが夜に変わろうとしていた。遠く王城の塔に灯る魔導灯の光が、群青色の空にぽつりと浮かんでいる。あの光の下で、エドワルド殿下は今頃リゼット嬢と祝杯を交わしているのだろう。
もうあの場所には、何の未練もない。
荷物を纏めよう。明朝、王都を発つ。行き先は——まだ決めていない。だが、選択肢は一つ増えている。
寝台の傍らに転がった銀の腕輪を、旅鞄の底に仕舞い込んだ。二度と嵌めるためではない。二度と忘れないために。
夜が更ける中、私は書き物机に向かい、父への手紙を認め始めた。婚約破棄の報告と、しばらく領地には戻らない旨を。ペンを握る右手の指先には、まだ仄かな白い光が宿っていた。制御には程遠い。だが消す気もなかった。
十二年の封印を経て、ようやく取り戻した私自身の光だ。
翌朝——荷を纏め終えた私が宿の階段を下りると、帳場の前に見覚えのある紺碧のマントが立っていた。