第2話
第2話
「ルーゼリア王国の……」
隣国の王太子。その名は社交の場で幾度か耳にしていた。武勇と知略を兼ね備えた若き王太子。剣術大会では三年連続で無敗を誇り、外交の場では老練な大臣たちを沈黙させる弁舌を持つと聞く。アルヴィス王国とは友好条約を結んでいるが、国境を接する以上、その関係には常に緊張の糸が張られている。
なぜ、この方が叙勲式に。そして——なぜ、あの一瞬を見ていたのか。
回廊の空気が変わったような気がした。先ほどまで漂っていた薔薇の香油と蝋燭の甘い残り香が、どこか遠くへ退いていく。代わりに感じたのは、冬の森を思わせる澄んだ気配だった。この方自身が纏っている空気なのだと、本能的に理解した。
「お見それいたしました、クロード殿下。ルーゼリアの方をこの式典でお見かけするとは存じませんでした」
私は膝を折り、他国の王族に対する正式な礼をとった。絹のドレスの裾が大理石の床に広がる音が、静まり返った回廊にやけに大きく響いた。動揺を悟られてはならない。指先の光はすでに押し込めてある。見間違いだと、そう思わせればいい。
「先ほどの件でしたら、きっと魔導灯の照り返しでございましょう。この回廊は光の加減が——」
「セラフィーナ!」
言葉を遮ったのは、背後から響いた声だった。聞き慣れた、尊大な声。
振り返ると、大広間の扉の前にエドワルド殿下が立っていた。リゼット嬢の手を引いたまま、数名の取り巻きの貴族を従えて。金糸の刺繍が施された白い礼服は式典のために新調されたものだろう。つい一時間前、その同じ礼服姿で、あの方は衆人の前に私を引き出し、婚約の破棄を告げた。わざわざ追ってきたのか、それとも回廊で他国の王太子と話す私の姿が気に障ったのか。
「まだ挨拶が済んでいなかったな。クロード殿下の前で失礼な振る舞いがあっては、アルヴィスの恥になる」
恥。その言葉を使うのが、よりにもよってこの方だとは。衆人環視の叙勲式で婚約破棄を宣告した人物の口から出る言葉としては、いささか皮肉が利きすぎている。
「ご配慮ありがとうございます、殿下。ご心配には及びません」
「心配などしていない」
エドワルド殿下は鼻を鳴らした。取り巻きの貴族たちが追従するように笑う。その笑い声が石の壁に反響して、何人もの嘲りが重なって聞こえた。
「むしろ清々している。十二年も無能な公爵家の娘に付き合わされた身にもなってほしいものだ。魔力もなく、取り柄といえば礼法だけ。——人形のような女だった」
回廊に、沈黙が落ちた。
無能。魔力もなく。人形。
その一語一語が、空気を伝って私の肌に触れた。冷たいのではない。熱い。胸の奥で、封じ込めたはずの白い炎が脈打つのを感じた。
怒りではなかった。少なくとも、怒りだけではなかった。十二年間、この方のために魔力を封じ、才能を隠し、望まれた「無害な令嬢」を演じ続けた。朝は誰よりも早く起きて礼法の稽古を重ね、夜は誰にも見られぬよう書庫の奥で魔導書を読んだ。王家に命じられるまま、自分という人間の輪郭を削り続けた十二年。その十二年を「無能」の一言で切り捨てられた——その事実が、封印の最後の一枚を焼き焦がそうとしていた。
指先が熱い。絹の手袋の内側で、爪の先から白金の光が滲み出そうとしている。
その瞬間、回廊の魔導灯が一斉に輝きを増した。
天井に等間隔で並ぶ十数個の灯りが、通常の二倍、三倍の光量で燃え上がる。白い大理石の壁が真昼のように照らし出され、貴族たちの影が鋭く床に刻まれた。硝子の灯籠の中で魔力結晶が悲鳴のような高い音を立て、回廊全体が白く、白く染まっていく。大広間の中からも、同様のざわめきが聞こえる——あちらの魔導灯も、連動して暴れているのだろう。
「な、なんだ——」
エドワルド殿下が怯んだように半歩退がった。リゼット嬢が小さな悲鳴を上げ、殿下の腕にしがみつく。取り巻きの貴族たちも天井を見上げ、互いに顔を見合わせている。
私は咄嗟に意識を集中した。暴れようとする魔力を、全力で胸の奥に押し戻す。抑えろ。抑えなければ。ここで力を見せるわけにはいかない。まだ、この場では。
歯を食いしばった。こめかみに冷たい汗が伝い、背筋を氷の指で撫でられるような悪寒が走る。封印を維持する側の痛みは、魔力を解放するよりもずっと苛烈だった。
三秒。五秒。
魔導灯の光がゆっくりと元の輝度に戻っていく。私の指先から漏れかけた白金の光も、絹の手袋の下に収まった。かろうじて、間に合った。
大広間の方から、慌ただしい足音が近づいてくる。宮廷魔導師の灰色のローブが目に入った。老齢の魔導師——確かハイゼン卿と呼ばれていた——が青い顔で回廊に飛び出してきた。
「殿下、ただいま広間の魔導灯に異常な魔力波動が検知されました。聖属性の——」
「照明の不具合でしょう」
私はハイゼン卿の言葉を遮り、穏やかに微笑んだ。完璧に制御された社交の笑み。唇の端を持ち上げ、目元をわずかに和らげる——十二年かけて磨き上げた、何一つ本心を映さない仮面。
「叙勲式で大勢の方が魔力を帯びた装飾品をお召しですもの。干渉が起きても不思議ではありませんわ」
ハイゼン卿が私の顔をじっと見た。老魔導師の目には、疑念と——もっと深い何か、畏怖にも似た光が宿っていた。その視線は私の手袋に覆われた指先を一瞬だけ捉え、すぐに逸らされた。けれど彼は一拍の間を置いて、ゆっくりと頷いた。
「……左様でございますな。念のため、魔導具の点検を指示いたします」
エドワルド殿下は何事もなかったかのように肩をすくめた。
「照明くらいで騒ぐな。みっともない」
そう言い捨てて、リゼット嬢を伴い大広間へ戻っていく。取り巻きたちも追従し、回廊には再び静寂が戻った。ハイゼン卿だけがまだ私を見ていたが、やがて首を振り、広間の中へ消えていった。
残されたのは、私とクロード殿下の二人だけだった。
肩の力を抜いた途端、膝がわずかに震えた。魔力を押し戻した反動が体に来ている。十二年ぶりに枷の外から暴れかけた力は、想像以上に制御が難しかった。
壁に手をつき、息を整える。手袋越しに触れた大理石の冷たさが、焼けるような指先の熱をわずかに鎮めてくれた。平静を装う余裕は、もう残っていなかった。
「見事な演技だった」
クロード殿下の声は、先ほどと変わらず静かだった。同情も揶揄もない、ただ事実を述べるような声音。
「照明の不具合——確かに、あの場では最善の説明だろう。宮廷魔導師も深追いしなかった。しかし」
殿下が一歩、近づいた。紺碧のマントの裾が、大理石の床をかすかに擦る。
「魔導灯の干渉程度では、あの波動は説明がつかない。あれは聖属性の魔力放射だ。しかも、極めて高位階の」
息が止まりそうになるのを、かろうじて堪えた。この人は——本当に、見ていた。光だけではない。魔力の質まで見抜いている。ルーゼリアは魔導研究の先進国だと聞く。この王太子自身が、並外れた魔力感知の持ち主なのかもしれなかった。
「……何をおっしゃっているのか、私には」
「隠す必要はない。少なくとも、私の前では」
クロード殿下の瞳は、暗い紺色をしていた。回廊の魔導灯の光を受けて、深い湖のように静かに凪いでいる。その目に浮かんでいるのは、詮索でも野心でもなかった。
純粋な、敬意だった。
「あなたは十二年間、あの力を封じていた。王家の命令で——違うか?」
答えられなかった。答えなくても、沈黙が答えになっていることはわかっていた。
クロード殿下は静かに踵を返し、大広間の方へ歩き始めた。数歩進んだところで、肩越しに振り返る。
「私の国には、あなたの力を必要とする場所がある。もしも——自由の使い道を探しているのなら」
それだけ言って、殿下は回廊の角を曲がり、姿を消した。
一人残された回廊で、私は壁に背を預けたまま、しばらく動けなかった。
指先がまだ、微かに光っている。封印が崩れかけた聖属性の残滓。十二年間、存在しないことにされてきた私自身の力。
——自由の使い道。
その言葉が、静かな回廊にいつまでも残響していた。
大広間では、叙勲式がまだ続いている。楽団の旋律と杯を交わす笑声が、分厚い扉越しにくぐもって聞こえてくる。けれどその喧騒は、もう遠い世界の音のように聞こえた。今の私の耳に残っているのは、隣国の王太子が置いていった、たった一つの問いかけだけだった。