第1話
第1話
春の叙勲式は、私の人生で最も晴れやかな日になるはずだった。
アルヴィス王国の大広間には、数百の蝋燭が灯された魔導灯が天井から吊り下げられ、磨き上げられた大理石の床に光の紋様を落としている。叙勲の栄誉に浴する騎士たちの鎧が鈍く輝き、列席した貴族たちの宝飾品がそれに呼応するように煌めいていた。薔薇と白檀を混ぜた香が、広間の空気を甘く染めている。
私——セラフィーナ・フォン・アルトシュタインは、公爵家の令嬢として最前列に立ち、婚約者であるエドワルド第二王子の登壇を待っていた。十二年間、一日も欠かさず磨き上げてきた所作で、背筋を伸ばし、両手を臍の前で重ねる。完璧な淑女の佇まい。そうあるように、ずっと求められてきた。
絹の手袋の下で、指先がかすかに冷えている。広間を満たす熱気とは裏腹に、朝から拭えない予感が胸の底に沈んでいた。殿下からの侍女を通じた伝言——「今日の式で大切な発表がある」。それだけの言葉が、なぜか薄い棘のように引っかかっていた。
「セラフィーナ・フォン・アルトシュタイン嬢」
エドワルド殿下が私の名を呼んだ。式次第にはない呼び出しだった。周囲の貴族たちがわずかにざわめく。私は裾を軽く摘み、優雅に前へ進み出た。
殿下の傍らに、見知らぬ令嬢が立っていた。淡い桃色のドレスに身を包んだ、亜麻色の髪の少女。男爵家の紋章を刺繍した手袋が、殿下の腕にそっと添えられている。
「——君には、王妃たる資質がない」
大広間が、凍りついた。
エドワルド殿下の声は朗々と響き、天井の高い広間の隅々にまで届いた。叙勲式の厳粛な空気が一瞬にして砕かれ、列席者たちの間にさざ波のようなどよめきが走る。
背後で扇を取り落とす乾いた音がした。最前列の公爵夫人が口元を手で覆い、壇上の殿下と私の顔を交互に見比べている。広間の温度が、一度だけ確かに下がった気がした。薔薇と白檀の甘い香りが、今はただ息苦しかった。
「よって、本日をもってアルトシュタイン公爵家との婚約を破棄する。新たに、リゼット・フォン・メルツ男爵令嬢を次期王妃候補として迎え入れることを宣言する」
リゼットと呼ばれた令嬢が、控えめに——しかし確かな勝利を滲ませて——微笑んだ。殿下がその手を取り、指に口づける。あまりにも用意周到な演出だった。
周囲の視線が、一斉に私に集まった。同情、嘲笑、好奇。何百という目が、公爵令嬢の崩れる瞬間を待っている。
王妃たる資質がない。
その言葉を、私は奇妙な静けさの中で受け止めていた。十二年。六歳の頃に決められた婚約から今日まで、私は王家が求めるすべてを差し出してきた。礼法、語学、政務補佐、社交術。眠る時間を削り、遊ぶ時間を捨て、同年代の少女たちが花を摘んでいる間も書庫に籠もった。そして——魔力を封じることも。
「殿下」
私は深く、完璧な礼をとった。裾の流れ方、首の角度、指先の位置。十二年間の修練が染み込んだ所作は、こんなときでさえ一分の乱れもない。
「長らくのご厚誼に感謝いたします。アルトシュタイン家は、殿下のお幸せを心よりお祈り申し上げます」
声は震えなかった。涙は一滴も出なかった。
広間のどこかで、誰かが息を呑むのが聞こえた。哀れな令嬢が泣き崩れる姿を期待していた者たちの、当てが外れた気配。
けれど私の胸の内に渦巻いていたのは、悲しみではなかった。
——ようやく。
胸の奥で、何かが軋んだ。十二年間、王家の命令で嵌められていた見えない枷が、小さな音を立ててひび割れるのを感じた。
——ようやく、自由になれる。
エドワルド殿下は、私の従順な態度を見て満足げに頷いた。彼にとって、この婚約破棄は「格下の令嬢を切り捨てる」程度の行為なのだろう。十二年間、何を封じてきたのか、彼は知らない。知ろうともしなかった。
「さすがはアルトシュタイン公爵家のご令嬢だ。実に聡明な判断だな」
殿下の言葉に、私は微笑みを返した。唇の形だけの、完成された社交の笑み。
「身に余るお言葉でございます」
その瞬間、指先がわずかに熱を帯びた。
心の奥底——もう十年以上、厳重に蓋をしてきた場所から、白い光が漏れ出そうとしている。慌てて意識を集中し、押さえ込む。まだ駄目だ。ここで溢れさせるわけにはいかない。
けれど抑えきれないものがあった。指先の爪の際に、蛍火のような淡い光がちらりと灯り——すぐに消えた。
誰も気づかなかっただろう。殿下も、リゼット嬢も、周囲の貴族たちも、目の前の茶番劇に意識を奪われている。
私は粛々と礼の姿勢を解き、列席者の間を縫って広間の出口へと歩き出した。背中に注がれる視線を、もう気にする必要はない。十二年間、一瞬たりとも背中を丸めなかった。最後もそうするだけだ。
大広間の扉に手をかけたとき、ふと振り返った。
殿下とリゼット嬢が、祝福の言葉を受けている。宮廷貴族たちが早くも新しい王妃候補に取り入ろうと列をなしていた。誰もが、捨てられた公爵令嬢のことなどもう忘れている。
——それでいい。
十二年間、私は完璧な檻の中にいた。王家に相応しい淑女であること。魔力を見せないこと。才を誇らないこと。目立たず、従順で、空気のような存在であること。
その檻が、今日、壊れた。
壊したのは、皮肉にも殿下自身だった。
扉の外に出ると、回廊には誰もいなかった。叙勲式の最中だから当然だ。等間隔に並ぶ魔導灯の冷たい光だけが、白い大理石の床を照らしている。
私は壁にそっと背を預けた。長い息を吐く。
吐き出した息が微かに震えていることに、自分で驚いた。広間では完璧に保てていた体の均衡が、ここに来てようやく揺れている。膝の裏がほんの少しだけ頼りなかった。十二年分の緊張の糸が、一本ずつ切れていくような心地だった。絹の手袋を外すと、手の甲にうっすらと汗が滲んでいた。冷たい大理石の壁が、火照った背中に心地よかった。
指先が、また光った。今度は先ほどより明るく、強く。白金の光が指の間から零れ、空気中に小さな燐光となって舞い散る。聖属性魔法の光だ。
——第七位階。
百年の間、生きた人間が到達し得なかったとされる魔法の位階。それが六歳の私に発現したとき、父は喜びではなく、恐怖の目で私を見た。
王家との婚約がすでに決まっていたからだ。
「王妃に過剰な魔力は不要。封じなさい」
父がそう言ったのか、王家から命じられたのか、幼い私には区別がつかなかった。ただ言われるがまま封印具を身につけ、自分の中にある白い炎に蓋をした。六歳から十八歳まで、十二年間。
その蓋が、今、音を立てて外れようとしている。
光が腕を伝い、肩へ、首筋へと広がっていく。温かい。まるで長い冬眠から目覚めた体に、初めて陽光が差し込むような——そんな感覚だった。
抑え込まなければ。少なくとも、ここではまだ。
私は深く息を吸い、光を胸の奥に押し戻した。完全には戻らない。指先にはまだ、仄かな白い輝きが残っている。
それでも、構わなかった。もう隠す義理のある相手はいない。
回廊の向こうから、大広間の喧騒がかすかに届く。新しい婚約を祝う拍手と歓声。私にはもう関係のない音だ。
宿に戻ろう。荷物をまとめて、明日の朝一番で王都を発つ。辺境のアルトシュタイン領へ帰れば、この力を誰の目も気にせず——
「失礼」
不意に声をかけられ、足を止めた。
回廊の柱の影から、一人の青年が歩み出た。深い紺碧のマントに、見覚えのない紋章。アルヴィス王国の意匠ではない。整った面差しに浮かぶ表情は、社交辞令の微笑みとも、同情とも違う。静かな探究心を湛えた、真っ直ぐな眼差し。
「先ほどの広間で、あなたの指先に興味深いものが見えた」
心臓が一拍、跳ねた。
あの一瞬の光を、見ていた者がいた。
「——どちらさまでしょうか」
私は咄嗟に社交の仮面を被り直し、穏やかに問い返した。指先の光を背中の後ろに隠すように、さりげなく両手を組み替える。
青年は柱から身を離し、軽く胸に手を当てて礼をとった。異国の流儀だった。
「ルーゼリア王国第一王太子、クロード・ド・ルーゼリア。本日は叙勲式への招待で参上した」
隣国の、王太子。
クロード殿下と名乗った青年の瞳が、私の指先——まだかすかに光を宿している指先を、正確に見つめていた。