第2話
第2話
夢を見た。
白い壁に囲まれた部屋。蛍光灯のちらつき。手元には顕微鏡があり、接眼レンズの向こうに植物の細胞壁が整然と並んでいた。——いや、夢というのは正確ではない。かつて確かに在った、もうひとつの私の記憶だ。
目を開けると、天井の板目が視界を埋めた。木の黴びた匂い。遠くで風が唸っている。身体を起こすと、寝台が派手に軋んだ。一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。それから昨日までの七日間が、氷水を浴びせるように蘇った。裁判。護送。灰色の霧。毒の花畑。
——ああ、そうだった。私は追放されたのだ。
けれど胸の奥に、昨日感じたあの不思議な軽さがまだ残っていた。それを頼りに寝台から降り、小屋の戸口に立つ。夜明け前の谷は薄い藍色に沈んでいて、花々の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。瘴気は夜の間に低い場所へ溜まる性質があるらしく、小屋のある高台は比較的空気が澄んでいた。深く息を吸うと、冷たい朝の気配が肺を満たす。
——細胞壁の構造。セルロース繊維の配向。ペクチン層の分解酵素。
前世の記憶が、断片的に、けれど昨日より鮮明に浮かんでくる。論文の一節。指導教員の声。実験ノートに記した走り書き。すべてが曖昧な輪郭をまといながらも、知識としての手触りだけは確かだった。アルカロイドの抽出法。溶媒の選択。温度管理。pH調整。——この世界には蛍光灯もガラス器具も高速液体クロマトグラフィーもないけれど、原理さえわかっていれば、手元にあるもので代替できる。
昨日見つけた清水で顔を洗い、煮沸した水で喉を潤してから、小屋の中を改めて見渡した。壊れた寝台。錆びた鍋。薪の残り。壁際に崩れかけた棚がひとつ。——足りないものだらけだ。けれど、足りないなら作ればいい。
まず手袋。小屋の隅に打ち捨てられていた古い麻布を見つけ、端を裂いて手に巻きつけた。完璧とは程遠いが、素手で毒草に触れるよりはずっといい。次に採取用の籠。寝台の壊れた側板から細い木片を剥がし、蔓草で編んでみる。不恰好だが、形にはなった。
道具がひとつできるたびに、気持ちが少しずつ前を向くのがわかる。手を動かすこと。何かを作ること。それが、揺れそうになる心の重しになっていた。
日が高くなる頃には、小屋は見違えるほど変わっていた。
棚の埃を払い、採取した薬草を種類ごとに並べる場所を作った。壁の一角に炭で植物名を書き出し、簡易な分類表にした。鍋の隣には、平たい石を二枚重ねた即席の乳鉢。先人が残してくれた薪を割って竈を組み直し、清水を運ぶための樋を樹皮で拵えた。
研究室だ。宮廷のそれとは比べものにならないほど粗末で、前世の大学とは似ても似つかない。けれど、私の手で、私だけのために作った場所。棚に並んだ薬草の束を眺めたとき、ふいに目の奥が熱くなった。
——泣いている場合ではない。
まばたきをして、手元に意識を戻す。今日の目標は、ベラドンナからアトロピンを抽出して鎮痛薬を精製すること。前世の知識では、アトロピンは水溶性で、煮沸抽出と簡易な濾過で粗精製が可能なはずだ。問題は濃度の制御。致死量と薬効量の幅が狭いベラドンナは、匙加減ひとつで薬にも毒にもなる。
麻布の手袋越しに、注意深くベラドンナの葉を摘んだ。光沢のある濃緑の葉。裏側のわずかに紫がかった葉脈。ひとつかみを鍋に入れ、煮沸した清水をひたひたに注ぐ。竈に火を入れると、やがてこぽこぽと小さな泡が立ち始めた。甘い揮発臭が立ちのぼる。顔を近づけすぎないよう気をつけながら、煮出す時間を数える。前世ならタイマーがあった。ここでは、心の中でゆっくり数を刻むしかない。
一、二、三——。
抽出液を麻布で濾し、石の器に受ける。淡い黄緑色の液体。これをさらに煮詰めて濃度を上げ、少量ずつ薄めて薬効域に調整する。舌先にほんの一滴だけ載せてみると、独特の苦味と、わずかな痺れ。——アトロピンの味だ。濃度はまだ高い。あと三倍ほど希釈すれば、鎮痛に使える範囲に収まるはず。
日が傾く頃、小さな陶片に入った最初の鎮痛薬が完成した。
淡い琥珀色の液体を光にかざす。前世の基準で言えば、純度も精度もお粗末なものだろう。けれどこの世界で、この環境で、ひとりの手で作り上げた薬。指先がわずかに震えていた。同じ種類の震え。昨日、ベラドンナの群生を見つけたときと同じ——恐怖ではなく、純粋な達成の震えだった。
宮廷にいた頃、私の研究成果はいつも誰かの手柄になった。上官が報告書に自分の名を記し、私の名は脚注の片隅にすら残らなかった。それでも構わないと思っていた。研究そのものが報酬なのだと、自分に言い聞かせていた。——本当にそうだっただろうか。あのとき感じていた微かな痛みを、私はずっと見ないふりをしていたのではないか。
陶片をそっと棚に置いた。今はまだ使い道がない。けれどいずれ、きっと。
この谷で薬を作り続ける。誰のためでもなく、私自身の知識と手で。それがどこに繋がるのかはわからない。わからないけれど、今はそれでいい。宮廷の石壁の中では決して許されなかった、目的のない探究。答えの見えない問いに没頭する自由。
夕暮れの光が窓から差し込み、棚に並んだ薬草の影が壁に長く伸びていた。
その光景があまりに静かで穏やかで、思わず息を止めた。美しい、と思った。灰色の霧と毒花に囲まれた追放地の、朽ちかけた小屋の中が。
陽が沈みかけた頃、水を汲みに谷の斜面を下りた。
夕暮れの瘴気は朝よりも重い。口元に麻布を当て、足元に注意しながら岩場を降りる。湿った土の匂いに、甘く腐ったような瘴気の気配が混じっている。足を置くたびに小石が崩れ、乾いた音を立てて闇の底へ転がり落ちていった。清水の湧く割れ目まであと数歩というところで、ふと足が止まった。
——何かが、おかしい。
視界の端に、あるはずのないものが映っていた。谷の入口に近い平坦な草地。毒花の間に、花でも岩でもないものが倒れている。
最初は、動物の死骸かと思った。この谷では生き物を見ていない。瘴気に耐えられず迷い込んだ獣が力尽きたのかもしれない。けれど、目を凝らすほどにその輪郭は獣のものではなくなっていく。
人だった。
小さな身体。子どもだ。粗末な毛織りの服を着た、まだ十にもなっていないであろう女の子が、毒花の中にうつ伏せに倒れていた。
鍋を放り出して駆け寄った。瘴気の濃い場所を突っ切ることになるとわかっていたが、そんなことを考えている余裕はなかった。喉の奥が焼けるように痛み、目の端がじわりと滲んだが、足は止めなかった。膝をついて身体をそっと仰向けにすると、小さな顔が蒼白だった。唇が乾き、細い指先が土を握りしめている。額に手を当てる。——熱い。燃えるように熱かった。
呼吸は浅く速い。脈は弱いが確認できる。意識はない。右の腕が不自然に腫れていて、袖をまくると、手首から肘にかけて赤黒い斑紋が広がっていた。皮膚の下で何かが脈打つように熱を持ち、触れるだけで少女の眉がかすかに歪んだ。
「……毒草に触れたのね」
トリカブトか、あるいはドクニンジンか。斑紋の形状と腫れ方から見て、接触毒による急性炎症。さらにこの瘴気の中に倒れていたなら、揮発性アルカロイドの吸入もある。高熱は身体が毒と必死に戦っている証拠だった。
この子をこのまま放置すれば、夜を越せないだろう。
腕の下に手を差し入れ、抱き上げた。驚くほど軽かった。羽のように、と言えば聞こえはいいが、実際にはそれは栄養の足りない子どもの軽さだった。小さな頭がぐったりと私の肩にもたれかかる。微かな吐息が首筋にかかった。その温度が、この子がまだ生きていることを確かに伝えていた。
小屋まで運びながら、頭の中はすでに治療の手順を組み立て始めていた。まず体温を下げる。それから腕の毒を中和する。ベラドンナの鎮痛薬は——ある。さっき作ったばかりのものが、棚の上にある。
使い道がないと、ほんの数刻前に思ったばかりだった。
小屋に駆け込み、寝台にそっと横たえる。子どもの額に濡らした麻布を当てながら、もう片方の手で棚の陶片に手を伸ばした。薬の濃度。体重に対する適正量。子どもの身体に大人と同じ量を使えば、それ自体が毒になる。
——大丈夫。計算はできる。
前世の知識が、今世の手を導いていた。
竈に残り火を足し、新たな解毒の調合に取りかかる。窓の外では、谷の闇がゆっくりと深まっていく。少女の荒い呼吸だけが、小さな研究室に響いていた。