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毒花の谷の薬師令嬢

第3話 第3話

第3話

第3話

夜が、長かった。

 竈の火が小屋の壁に揺れる影を落とし、その影のひとつひとつが呼吸するように膨らんでは縮んでいた。少女の額に当てた麻布を取り替えるたびに、布は驚くほどの熱を吸い込んでいる。水を絞り、また額に載せる。その繰り返しを何度したか、もう数えていなかった。

 右腕の斑紋は、最初に見たときよりも広がっていた。肘を越え、二の腕の中ほどまで赤黒い筋が這い上がっている。接触毒が皮下組織を伝って浸透し続けているのだ。このまま放置すれば、壊死が始まる。壊死した組織は二度と戻らない。

 ——落ち着け。手順を組み立てろ。

 前世の記憶を手繰り寄せる。植物毒の急性中毒に対する処置。まず毒の同定。次に中和。そして排出の促進。原理は同じだ。道具が違うだけ。

 腕の斑紋をもう一度観察した。赤黒い地に紫がかった細い線が網目状に走っている。この紋様には見覚えがあった。トリカブトの接触毒——アコニチンによる末梢神経の炎症パターン。前世の毒性学のテキストに載っていた写真と酷似している。アコニチンは脂溶性が高く、皮膚から容易に吸収される。神経のナトリウムチャネルに結合し、持続的な興奮を引き起こす。放置すれば心臓にまで影響が及ぶ。

 けれど逆に言えば、毒が特定できたなら、道は見える。

 棚に並べた薬草の束を、火の明かりで確かめた。昼間のうちに採取しておいたものの中に、使えるものがあるはずだ。——あった。チョウセンアサガオの葉。アトロピンを含むこの植物は、アコニチン中毒の拮抗薬として作用する。前世の救急医療でも使われていた組み合わせだ。ナトリウムチャネルの過剰興奮を抑え、神経の異常発火を鎮める。

 ただし、内服だけでは間に合わない。腕の局所に直接、中和剤を浸透させる必要がある。

 煮沸した清水でチョウセンアサガオの葉を煮出し、濃い抽出液を作った。それを少量の獣脂——小屋の隅に残っていた、先人の遺した蝋燭の残りだ——で練り合わせて軟膏状にする。脂溶性の毒には、脂溶性の基剤で対抗するのが理にかなっている。

 少女の腕に、薄く、丁寧に塗布した。小さな身体がびくりと震える。痛いのだろう。けれど声は出ない。意識がないことが、今はむしろ救いだった。

「……大丈夫。大丈夫よ」

 誰に言っているのかわからなかった。少女に、か。それとも、手の震えが止まらない自分自身に、か。

 軟膏を塗った上から清潔な麻布で包帯を巻き、内服用にはベラドンナの鎮痛薬を限界まで薄めたものを、匙の先で唇に含ませた。子どもの体重を考慮すると、大人の五分の一以下の量でなければ危険だ。一滴が多すぎれば薬は毒に変わる。匙を傾ける指先に、全神経を集中させた。

 少女の喉がかすかに動いた。嚥下反射がある。生きようとしている。

 ——それでいい。飲み込んで。

 竈の火に薪を足しながら、経過を観察し続けた。半刻ごとに脈をとり、額の温度を確かめ、腕の斑紋の広がりを炭で麻布に記録した。前世なら体温計があり、血圧計があり、酸素飽和度を測るモニターがあった。ここにあるのは自分の指先と、目と、知識だけだ。

 深夜を過ぎた頃、変化があった。

 脈が、わずかに強くなっていた。指先に伝わる拍動が、さっきまでの頼りない糸のような律動から、少しだけ確かなものに変わっている。額の熱も、燃えるようだったものが、じんわりとした温かさにまで下がっていた。

 腕の包帯をそっとほどく。斑紋の先端が——止まっていた。肘の上、二の腕の中ほどで、赤黒い筋の侵食が止まっている。中和剤が効いているのだ。

 思わず、長く息を吐いた。自分がどれほど呼吸を詰めていたか、そのとき初めて知った。肩から背中にかけて、ずっと力が入っていたらしい。竈の傍にへたり込むように座り、壁に背を預けた。天井の板目がぼんやりと揺れている。

 ——助かる。この子は、助かる。

 新しい軟膏を調合し直し、もう一度腕に塗布した。今度は解毒に加えて、傷んだ組織の回復を促す薬草も混ぜた。カモミールの抗炎症成分と、谷に自生するオトギリソウの組織修復効果。どちらも前世の植物療法で根拠のある組み合わせだった。

 少女のそばに膝をつき、乾いた唇に水を含ませてやりながら、私はふと思った。宮廷の研究室にいた五年間、私は一度も、自分の作った薬が人に使われる場面を見たことがなかった。報告書を書き、上官に提出し、それきりだった。私の薬がどこへ行き、誰を治し、あるいは治せなかったのか、何も知らされなかった。

 今、目の前で、私の手が調合した薬が、小さな命を繋ぎ止めている。

 指先が、まだかすかに震えていた。けれどそれは、もう恐怖の震えではなかった。

 夜明けの光が窓の隙間から差し込む頃、少女の瞼がかすかに動いた。

 私は水を絞る手を止めて、息を潜めた。長い睫毛が何度か震え、薄い瞼がゆっくりと持ち上がる。濁っていた瞳に、少しずつ光が戻っていくのが見えた。

「……ここ、どこ」

 かすれた、けれどはっきりとした声だった。

「毒花の谷の小屋よ。あなたは毒草に触れて倒れていたの」

 少女の目が不安げに揺れた。右腕の包帯に気づき、小さな指がそっと触れようとする。

「腕はまだ動かさないで。毒は抜けたけれど、組織が落ち着くまで時間がかかるから」

「おねえさんが、たすけてくれたの」

 頷いた。少女の目に、涙がじわりと浮かんだ。泣くのを堪えようとしているのか、唇をきゅっと噛んでいる。

「わたし、エルザ。麓の村の——」

「話すのは後でいい。まず水を飲んで」

 匙で水を含ませると、エルザは素直に飲み込んだ。一口ごとに、小さな喉が上下する。その動きがひどく健気で、目を逸らした。

 エルザは、麓の村の羊飼いの娘だった。断片的に語ってくれた話を繋ぎ合わせると、迷子の子羊を追って谷の縁まで来てしまい、足を滑らせて斜面を転がり落ちたらしい。そのときに手をついた先がトリカブトの群生で、茎の切断面から滲み出た毒液が傷口に入り込んだのだろう。

「おとうが、心配してる」

「あなたがもう少し元気になったら、村まで送っていくわ」

 エルザは小さく頷いて、また目を閉じた。今度は穏やかな眠りだった。呼吸が深く、規則正しくなっている。頬にほんのわずか、血の色が戻っていた。

 昼過ぎ、その声が聞こえた。

 谷の入口の方から、誰かが名前を呼んでいる。エルザ、エルザ、と。嗄れた声が、瘴気の霧を裂くように繰り返し響いていた。

 小屋の戸口に出ると、中年の男が斜面をよろめきながら登ってくるのが見えた。粗末な毛織りの外套。日に焼けた手。羊飼いの手だった。口元を布で押さえながら、それでも足を止めない。目が血走っていて、一晩中探し回っていたのだと、その顔を見ただけでわかった。

「——エルザは、ここにいるわ」

 私の声が届いた瞬間、男の足がもつれた。膝をつきかけて、それでも立ち上がり、駆け寄ってきた。

「娘は、娘は無事ですか」

「毒は抜けました。腕はまだ完治していないけれど、命に別状はないわ」

 小屋の中に案内すると、男はエルザの寝台の傍にくずおれた。小さな手を取り、額を寄せて、声もなく肩を震わせていた。エルザが薄く目を開けて「おとう」と呟いたとき、男の背中が大きくしゃくり上がった。

 私はそっと戸口の方へ下がった。竈の火を確認するふりをして、背を向けた。この時間は、私のものではない。

 しばらくして、男が立ち上がり、私の方を向いた。目が赤く腫れていた。

「あんたが——あんたが助けてくれたんですか」

「たまたま倒れているのを見つけただけよ」

「たまたまだなんて——」

 男は言葉を継げなかった。唇が何度か動いたが音にならず、やがて深く頭を下げた。それは単なる礼ではなく、身体ごと感情を押し出すような、不器用で、重い所作だった。

「あんたがいなかったら、あの子は」

「いいの。薬師として当然のことをしただけだから」

 薬師。自分の口から出たその言葉に、少し驚いた。宮廷では一度も名乗ったことのない肩書きだった。研究員でも学者でもなく、薬師。誰かの傷を診て、薬を作り、命を繋ぐ者。それが今の私の名前なのだと、このとき初めて思った。

 男は何度も礼を言い、エルザを背負って帰っていった。包帯の替えと塗り薬を持たせ、三日後にもう一度見せに来るよう伝えた。谷の入口で振り返った男が、最後にもう一度だけ深く頭を下げるのが見えた。ふたりの姿が霧の中に溶けて消えるまで、私は戸口に立っていた。

 小屋に戻ると、急に静かになった。少女がいた寝台の窪みだけが、さっきまでの時間を証明している。麻布の包帯の切れ端。使い終えた軟膏の残り。乾きかけた炭の記録。

 棚の上の陶片を見た。鎮痛薬はまだ残っている。——残っている、ということは。次の患者にも使えるということだ。

 窓の外で、風が毒花の花弁を揺らしていた。谷は相変わらず灰色の霧に覆われ、静かで、美しく、致命的だった。

 けれど、何かが変わった気がする。何が変わったのか、うまく言葉にはできなかった。ただ、空の研究室が、ほんの少しだけ広くなったような。あるいは、この谷と外の世界の間に、目に見えない細い糸が一本だけ繋がったような。

 ——「谷に薬師がいる」。

 麓の村で、あの男がそう口にする光景がふと浮かんだ。噂というものは、風より速く、毒より遠くまで届くことがある。

 それが何を運んでくるのか、私にはまだわからなかった。

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