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婚約破棄の夜、私は辺境へ帰る

第3話 第3話

第3話

第3話

三日目の夕刻、馬車が最後の丘を越えた時、私は自分の目を疑った。

記憶の中の辺境公爵領は、決して華やかな土地ではなかった。王都の壮麗さとは比ぶべくもない。けれど確かに、人の営みが息づく場所だった。秋には麦畑が金色に波打ち、領都の市場では商人たちの威勢のよい声が響き、屋敷の庭園では母が丹精した薔薇が咲き誇っていた。

眼下に広がるのは、その面影をかろうじて留めた、別の土地だった。

領都を囲む石壁の一部が崩れたまま放置されている。崩落した石材が壁の根元に散らばり、その隙間から雑草が伸び放題になっていた。城門の脇に建っていたはずの衛兵詰所は屋根が傾ぎ、門扉の紋章——公爵家の銀の鷲が、風雨に晒されて半ば消えかけていた。門を潜ると、目抜き通りの石畳は苔むし、両脇に並ぶ商店の三軒に一軒は板戸が打ちつけられている。通りを歩く人影はまばらで、馬車に気づいた者たちが足を止めてこちらを見つめたが、その目には歓迎よりも警戒の色が濃かった。

「リーゼロッテ様」

エルザが何かを言いかけて、口を閉じた。窓の外を見れば、言葉など要らなかった。

市場に差しかかった。かつては数十の露店がひしめき合い、辺境の産物——薬草、毛皮、山蜜——が所狭しと並んでいた場所。今は半分以上が空き地になり、残った店も品数が寂しい。干し肉を並べた老婆が、通り過ぎる馬車を虚ろな目で見送った。風が吹くと、空になった露台の幌布がばたばたと音を立て、それがかえって人のいない静けさを際立たせた。

帳簿の数字が脳裏をよぎる。整然と並んだ税収の報告。街道維持費、公共支出、すべてが適正な範囲に収まっていた。だがこの光景は、あの数字とは別の現実を語っている。

屋敷の門前で馬車が止まった。

かつて白亜に輝いていた館壁が灰色にくすみ、蔦が這い上がるに任せて覆われている。玄関脇の噴水は涸れ、石盤の底に枯れ葉が溜まっていた。母が愛した庭園の薔薇は一株も残っておらず、代わりに背の高い雑草が無秩序に繁茂していた。

この屋敷で、私は生まれ育ったのだ。

馬車から降りると、使用人が二人だけ出迎えに現れた。二人。かつては二十人からの使用人が控えていたこの屋敷に、たった二人。どちらも見覚えのある顔だったが、三年の歳月は彼らを随分と老けさせていた。

「リーゼロッテお嬢様——お帰りなさいませ」

老家令のフリードリヒが深く頭を下げた。その声は震え、目の縁が赤かった。もう一人の侍女が嗚咽を堪えるように唇を噛んでいた。

「ただいま戻りました、フリードリヒ。父は——」

「お部屋に。ルーカス坊ちゃまがお傍に」

案内されるまでもなく、私は屋敷の中を歩いた。廊下の絨毯は擦り切れ、壁にかかっていた歴代当主の肖像画の幾つかが外されて、その痕だけが白く残っている。売られたのだろうか。窓硝子の一枚が割れたまま布で塞がれていた。

父の寝室の扉の前で、足が止まった。

扉の向こうから、幼い声が聞こえていた。

「——だから、お薬を飲んでください、父上」

ルーカス。最後に会った時はまだ七つで、私の腰にしがみついて泣いていた弟。あれから三年。声が少しだけ低くなっている。

扉を開けた。

薄暗い寝室に、薬と病の匂いが澱んでいた。寝台の傍に小さな椅子を引き寄せて座っていた少年が、弾かれたように立ち上がった。

「——姉上?」

三年分の成長が、そこにあった。頬の丸みが少し削れ、顎の線が父に似てきている。けれどまだ十歳の子供だった。大きな目に浮かんだのは驚きと、それから——堪えきれない安堵。

「姉上!」

ルーカスが駆け寄り、私の腰にしがみついた。三年前と同じように。けれど三年前よりも腕の力が強く、その体は少し痩せていた。衣服の袖口が擦り切れていることに気づき、胸の奥が軋んだ。

「大きくなりましたね、ルーカス」

頭を撫でながら、寝台に目をやった。

父ヴィルヘルムが、そこに横たわっていた。

記憶の中の父は、辺境の冬を物ともしない逞しい男だった。大きな手で私を抱き上げ、満天の星を指さしてくれた人。領民の前に立てば誰もが背筋を正した、威厳ある当主。

その面影は、もはやなかった。

頬はこけ、眼窩が深く落ちくぼんでいる。毛布の上に置かれた手は骨が浮き、かつての力強さの欠片もなかった。髪には白いものが増え、肌の色は蝋のように青白い。三年。たった三年で、人はここまで変わるものか。

「リーゼ……」

父が目を開けた。かすれた声が、幼い頃の呼び名を紡ぐ。その瞳は霞んでいたが、私を認めた瞬間、微かに光が戻った。

「父上。ただいま戻りました」

寝台の傍に膝をつき、父の手を取った。冷たく、驚くほど軽い手だった。この手に抱き上げられた記憶が嘘のようだった。

「すまない」

父はそれだけ言った。

それだけで十分だった。婚約の経緯も、領地の現状も、自分が病に倒れている間に何が起きたかも——すべてを知っていて、それでも何もできなかった無力への悔恨が、その一言に凝縮されていた。

「謝らないでください、父上。私は自分の意志で戻ってまいりました」

父の手を握り返す力を少しだけ強めた。安心してほしかった。あなたの娘は泣いて戻ったのではない、と。

父が小さく息を吐いた。その吐息は安堵のようでもあり、まだ何か言いたげでもあったが、声にならなかった。痩せた喉が微かに動き、やがて瞼がゆっくりと閉じられた。握り返す力はほとんどなかったが、指先がわずかに動いたのを、私は確かに感じた。

ルーカスがまだ私の服の裾を握りしめていた。小さな手が、離すまいとするように白くなっている。この子は父の傍で、たった一人でこの屋敷を守ろうとしていたのだ。十歳の肩には重すぎる荷を背負って。

「もう大丈夫です」

ルーカスの頭をもう一度撫でながら、私は寝室を見回した。薬瓶が幾つも並ぶ卓。擦り切れた寝具。窓の外に見える荒れた庭。これが、三年間目を離した故郷の姿。

帳簿の数字と、この現実の落差。その間に何があったのか。答えはもう、ほとんど見えている。

父の部屋を辞し、階下に降りると、玄関広間に一人の男が待っていた。

「お帰りなさいませ、リーゼロッテ様。代官のベルクハルトでございます。長旅でお疲れのところ恐縮ですが、お目通りを願えればと存じまして」

四十がらみの、整った身なりの男だった。辺境の代官にしては仕立ての良い上着を着て、指には金の印章指輪が光っている。慇懃な微笑を湛えているが、目だけが笑っていなかった。品定めしている——こちらの出方を、測っている目だ。

宮廷で三年。この手の目は見慣れている。

「ベルクハルト殿。ご足労いただき感謝いたします」

私は居間への扉を開け、先に通した。旅装のまま、椅子にも座らず、単刀直入に切り出した。

「早速ですが、過去三年分の領地経営に関わる帳簿一式をご提出願います。歳入歳出、徴税台帳、公共事業の支出明細、それから領民名簿の最新版を」

一瞬だった。

ほんの一瞬、ベルクハルトの表情が凍った。微笑の形を保ったまま、目の奥の光だけが鋭く揺れる。氷の表面にひびが走るような、そういう凍り方だった。

けれどすぐに元の微笑に戻り、彼は丁寧に頭を下げた。

「もちろんでございます。ただ、なにぶん三年分となりますと整理にお時間を頂戴したく——」

「三日でお願いいたします」

有無を言わさぬ声で告げた。王妃教育で学んだことは多いが、その中で最も実用的だったのは、交渉において沈黙と簡潔さがいかに強力な武器になるかということだった。

ベルクハルトが目を細めた。微笑はまだ唇に張りついていたが、その奥にあるものが変わったのを、私は見逃さなかった。侮りから、警戒へ。

「——畏まりました。三日後にお届けいたします」

代官が一礼して去った後、私は窓辺に立った。領都の夕暮れ。傾いた屋根、閉ざされた店、人気のない通り。沈みかけた陽が壊れた石壁の隙間から差し込み、瓦礫の影を長く引いていた。荒れ果てたこの土地が、私の戦場になる。

背後で、エルザが静かに茶を置く音がした。

「リーゼロッテ様。あの代官——」

「ええ」

窓の外から目を離さずに答えた。

「三年分の帳簿の整理に三日かかるという代官は、二種類です。本当に帳簿が乱雑な無能か、あるいは——」

言葉を切り、窓硝子に映る自分の顔を見つめた。旅の疲れで少しやつれた顔。けれどその目には、王宮を出た朝よりも確かな光が宿っているように見えた。

「——見せられない帳簿を、作り直す時間が必要な者か」

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