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婚約破棄の夜、私は辺境へ帰る

第2話 第2話

第2話

第2話

翌朝、私は日の出と共に目を覚ました。

王宮の客間に朝の光が差し込み、天蓋の薄絹を透かして淡い金色が寝台に落ちる。この部屋で目覚めるのも、これが最後だ。感傷はなかった。むしろ、昨夜のうちに心は決まっていたのだと、目覚めた瞬間に確信した。

身支度を済ませ、衣装棚を開ける。絹のドレスが何着も並んでいた。殿下との夜会のために仕立てたもの、外国の使節を迎える際に誂えたもの、季節ごとの園遊会用のもの。どれも王太子の婚約者にふさわしい、美しい衣装だった。

一着も、触れなかった。

代わりに手を伸ばしたのは、衣装棚の奥にしまい込んでいた辺境仕立ての旅装束。王宮に上がる前、まだ領地にいた頃の服。三年の歳月で少し窮屈になっていたが、袖を通した瞬間、体が覚えていた。絹ではなく、丈夫な織りの麻と毛。肌に馴染む、この感触。

「リーゼロッテ様、お荷物をまとめました」

エルザが書物を両腕に抱えて入ってきた。王妃教育の三年間で使い込んだ教本、財務論、外交儀礼、農政概論——そして、私が独自に書き写した王宮の帳簿の写し。あの帳簿には、殿下の署名を通過した予算の流れが記されている。いずれ必要になる。そういう確信があった。

「それだけで構いません。宝飾品は——」

「手をつけておりません。目録と共に王宮の管財官にお返しする手筈を整えました」

エルザの手際に、思わず口元が緩んだ。この娘は私の侍女になってまだ二年だが、言葉の先を読む力がある。昨夜、泣いた痕跡はきれいに消えていた。目の縁にうっすらと残る赤みだけが、彼女が私のために流した涙の名残だった。

「エルザ。改めて問います」

私は彼女の目を真っ直ぐに見た。

「辺境に戻れば、宮廷での職歴は何の意味も持ちません。あなたほどの力があれば、他の貴族家でいくらでも——」

「お断りいたします」

遮るように、けれど穏やかに、エルザは言った。

「私は侍女である前に、リーゼロッテ様の侍女でございます。お仕えする方を選ぶ自由があるのなら、私はとうに選び終えております」

その声には、昨夜の怒りの残り火が静かに灯っていた。忠誠というよりも、意志。この娘もまた、自分の足で立つことを選んでいる。

「——ありがとう」

それ以上は言わなかった。言葉を重ねれば、感傷になる。

馬車は王宮の裏門に用意されていた。正門ではない。それが宮廷の配慮なのか、あるいは体面を守るための処置なのか。おそらく後者だろう。婚約を破棄された令嬢が正門から堂々と去る姿は、殿下にとって都合が悪い。

書物と帳簿の写しを積み込むと、馬車の荷台は半分も埋まらなかった。三年分の王宮生活が、この程度の荷にしかならない。衣装も宝石も思い出の品もなく、残ったのは知識だけ。けれど、それでいい。知識は奪われない。

裏門へ向かう回廊で、足音が聞こえた。

振り返ると、三人の令嬢が立っていた。かつての学友——王妃教育を共に受けた仲間たちだった。侯爵家のカタリーナ、伯爵家のヘレーネ、そして子爵家のマリア。昨夜の広間で、誰一人として声をかけなかった者たち。

カタリーナが口を開きかけた。何かを言おうとして、唇が震えた。けれど言葉は出てこなかった。その隣のヘレーネは最初から目を伏せていた。マリアだけが私を見ていたが、その目には罪悪感ともつかない、曖昧な光が揺れているだけだった。

「ごきげんよう」

私は微笑んで、一礼した。昨夜と同じ、完璧な所作で。それが彼女たちを最も楽にさせる方法だと知っていた。恨み言を言えば、彼女たちは自分を正当化できる。許しを乞えば、彼女たちは憐れみを施せる。どちらでもない穏やかな別れだけが、彼女たちの良心に小さな棘を残す。

意地悪で言ったのではない。ただ、もう嘘をつく必要がなかっただけだ。

カタリーナの目が赤くなるのが見えた。けれど私は振り返らなかった。

裏門の前で、馬車の御者が待っていた。公爵家から遣わされた老齢の御者で、私が幼い頃から知っている顔だった。何も言わず、ただ深く頭を下げて扉を開けてくれた。その沈黙が、どんな言葉よりも温かかった。

「では、参りましょう」

エルザが頷き、馬車に乗り込む。私は最後に一度だけ、王宮の尖塔を見上げた。

朝日を受けて白金に輝く尖塔。あの中で私は三年間、完璧であり続けた。殿下の隣で微笑み、宮廷の作法を守り、誰にも隙を見せなかった。完璧な婚約者。完璧な令嬢。完璧な——空洞。

馬車の扉に手をかけた時、ふと気づいた。握る手が、震えていない。

昨夜、回廊で気づいた早鐘のような心臓の音。あれはもう聞こえなかった。代わりに胸の奥にあるのは、あの静かな炎だった。小さいが、確かに灯っている。

馬車が動き出した。

車輪が石畳を離れ、砂利道に変わる音が響く。王宮の門が遠ざかり、王都の街並みが窓の外を流れていく。パン屋の煙突から朝の煙が立ち上り、まだ開き始めたばかりの花売りの荷車が道端に並ぶ。日常の風景。けれどこの三年間、馬車の中からしか見たことのなかった日常。

「リーゼロッテ様」

エルザが向かいの席で、膝の上に帳簿の束を抱えたまま言った。

「王都を出れば、辺境街道に入ります。三日はかかるかと。途中の宿は——」

「手配は不要です。街道沿いの駅逓を使いましょう。公爵家の紋章があれば、まだ断られはしないでしょうから」

まだ、という言葉が自分の口から出たことに、少し驚いた。公爵家の権威が、いつまで通用するかわからない。父は病床、弟はまだ幼い。殿下が婚約を破棄したということは、王家の後ろ盾を失ったということ。それが領地に何を意味するか——帳簿の写しを握る手に、無意識に力がこもった。

王都の外壁を抜けると、景色が変わった。

整備された街道が次第に細くなり、石畳は途切れ、土の道に変わる。街道の両脇に植えられていた並木も、いつしかまばらな雑木に代わっていた。辺境への道。幼い頃、父と共に王都へ上がった時はもっと——

「……こんなに、荒れていましたか」

思わず声に出していた。

道の端が崩れ、雑草に覆われている。かつては定期的に補修されていたはずの石橋に亀裂が入り、手すりの一部が崩落したまま放置されていた。街道沿いにあったはずの茶屋は板が打ちつけられ、人の気配がない。

エルザが窓の外を見て、眉をひそめた。

「三年前は、もう少し——」

「ええ。もう少し、人がいたはずです」

父が病に伏してから、領地の管理は代官に委ねられていた。代官ベルクハルトは有能だと聞いていた。少なくとも、書面上の報告ではそうだった。けれど目の前に広がる街道の荒廃は、書面の数字とは別の物語を語っていた。

帳簿の写しを膝の上に広げた。数字の列を目で追いながら、車窓の景色と照らし合わせる。税収の報告、街道の維持費、領民への公共支出——数字は整然と並んでいる。整然としすぎている。

嫌な予感が、胸の底で静かに形を取り始めた。

馬車が揺れるたびに、窓の外の景色は寂しさを増していった。かつて馬車が行き交っていた街道に、すれ違う旅人はほとんどいない。遠くに見える農地の一部は、耕されないまま茶色く乾いていた。

「リーゼロッテ様」

エルザが控えめに声をかけた。

「少し、お休みになりませんか。到着まで、まだ——」

「いいえ」

私は帳簿から目を上げ、窓の外を見つめた。乾いた風が馬車の幌を叩く音。遠い記憶の中では、この道の先に豊かな農地と活気ある領都が広がっていたはずだった。

「眠っている時間はありません。父のもとに着く前に、知るべきことがある」

帳簿の数字と、目の前の現実。その乖離が何を意味するのか。三年間、王宮で完璧な婚約者を演じている間に、故郷で何が起きていたのか。

知らなくてはならない。知って、動かなくてはならない。

馬車は辺境へ向かって走り続けた。振り返れば王都の尖塔がまだ霞の中にかすかに見えていたが、私はもう後ろを振り向かなかった。

——ようやく、自分の足で歩ける。

昨夜、回廊で呟いた言葉が胸の中で反芻される。あの時は解放感だった。けれど今、馬車の窓から荒れた街道を見つめながら、その言葉はもっと重い意味を帯び始めていた。

自分の足で歩くということは、自分の目で見るということだ。そして見てしまったものからは、もう目を逸らせない。

遠くに、灰色の山並みが見え始めた。辺境公爵領の背骨をなす連山。あの山の手前に、私の故郷がある。

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