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婚約破棄の夜、私は辺境へ帰る

第1話 第1話

第1話

第1話

「リーゼロッテ嬢。私はあなたとの婚約を、本日をもって破棄する」

大広間に張り詰めた空気を、エーリヒ殿下の声が裂いた。

シャンデリアの燭台が何百と灯る王宮の大広間。今宵は春の夜会——貴族たちが社交の花を咲かせる華やかな場のはずだった。壁際に並ぶ銀の燭台が磨き抜かれた大理石の床に幾重もの光を落とし、薔薇と百合を贅沢にあしらった卓上の花々が甘い香りを漂わせている。だが殿下の宣告が落ちた瞬間、楽団の弦は途切れ、笑い声は凍りつき、数百の瞳が一斉に私へ向けられた。

私は動かなかった。

手に持っていたグラスの、硝子越しに伝わる冷たさだけが妙に鮮明だった。白葡萄酒の水面がかすかに揺れている。それが私の指の震えなのか、それとも広間に響いた声の残響なのか、判別がつかなかった。

「エーリヒ殿下」

私は静かにグラスを近くの卓に置いた。音を立てぬよう、指先まで神経を行き届かせて。硝子の底が白布に触れるかすかな感触を確かめながら、ゆっくりと手を離す。三年間の王妃教育が体に刻んだ所作は、こういう時にこそ意味を持つ。

「理由をお聞かせ願えますか」

知っていた。答えなど、とうに。

殿下の隣で目を赤くしている少女——ミレーユ・フォン・ハイデン男爵令嬢。半年ほど前から殿下の傍に侍るようになった、栗色の髪の少女。庇護欲を誘う大きな瞳に、今は涙が光っている。計算なのか天然なのか。どちらであっても、結果は同じだった。

「私はミレーユへの真実の愛に目覚めた。リーゼロッテ嬢、あなたは確かに完璧な婚約者だった。だがそれは——義務であって、愛ではなかった」

真実の愛。その言葉が広間に響いた時、どこかで誰かが小さく息を呑んだ。扇の陰で囁き合う唇、そっと逸らされる視線。宮廷の社交に慣れた者たちでさえ、この場にどんな顔を向けるべきか決めかねているようだった。

私は殿下の顔を見つめた。かつては端正だと思った横顔。鍛錬を怠って少し丸みを帯びた顎。覚悟を決めた風を装いながら、どこか芝居がかった目の光。三年間ずっと隣にいたからこそわかる——この方は、自分の言葉に酔っている。

「三年間。私は殿下のお傍で、一日たりとも務めを怠ったことはございません」

声は震えなかった。

「王妃教育の全課程を修了し、社交の場では殿下のお名前に傷がつかぬよう心を砕きました。財務の報告書にも目を通し、殿下のご署名が必要な書類は一つの遅滞もなくお届けいたしました」

一つ一つ、事実を並べる。感情ではなく、実績を。泣き崩れることを期待している目が、広間のあちこちにあった。悲劇の令嬢が涙を流す瞬間を、宮廷雀たちは待ち望んでいる。

その期待に応えてやる義理は、もうない。

「ですが、殿下がそうお決めになったのであれば」

私は深く、完璧な一礼をした。裾の流れ、首の角度、視線を落とすその一瞬まで——王妃教育の集大成のような礼を。絹の裾が床の上で弧を描き、シャンデリアの光が刺繍の銀糸をきらりと走った。

「殿下のお幸せを、心よりお祈り申し上げます」

顔を上げた時、殿下の表情にわずかな困惑が走ったのを、私は見逃さなかった。泣かない。縋らない。取り乱さない。それが殿下の想定を裏切ったのだろう。ミレーユ嬢が殿下の袖を不安そうに引いたが、殿下は何も言えないまま口を結んでいた。唇が微かに動いたのは、用意していた慰めの台詞を飲み込んだのか。泣き崩れる婚約者を英雄のように抱き留める——そんな筋書きが崩れたことに、殿下自身が戸惑っているのが手に取るようにわかった。

広間に沈黙が降りる。

私は踵を返した。背筋を伸ばし、一歩一歩を正確に刻んで。靴底が大理石を叩く音だけが、広間に響いていた。

両脇に並ぶ貴族たちの顔が視界の端を流れていく。同情、好奇、あるいは薄い安堵——自分でなくてよかったという。三年間、共に学び、共に茶を飲み、共に季節の挨拶を交わした令嬢たちの誰一人として、声をかける者はいなかった。昨日まで微笑みを向けてくれた侯爵令嬢が、まるで見知らぬ他人のように目を伏せる。その隣で、小さく口を開きかけた子爵令嬢の手を、母親らしき婦人がそっと押さえるのが見えた。

構わない。期待してもいなかった。

宮廷とはそういう場所だ。三年いれば嫌でも学ぶ。誰もが自分の立場を守ることに精一杯で、沈む船から手を差し伸べる余裕など持ち合わせていない。それを恨む気持ちは、不思議なほどなかった。

大広間を出る直前、ふと——視線を感じた。

同情でも好奇でもない、品定めとも違う。何かを測るような、静かで鋭い眼差し。背中を射抜くようでいて、不思議と不快ではなかった。思わず足を止めかけたが、振り返ることはしなかった。今ここで立ち止まれば、それは弱さと取られる。

回廊に出ると、夜風が頬を撫でた。春の初めの、まだ冷たさを残した風。シャンデリアの熱気に慣れた肌に、それは驚くほど心地よかった。広間の香水と蝋燭の匂いが風に攫われ、代わりに庭園の沈丁花の香りがほのかに鼻先をくすぐった。

一人になった瞬間、ようやく自分の心臓が早鐘を打っていたことに気づいた。

——けれど、涙は出なかった。

三年間。殿下の好みに合わせて微笑み方を変え、殿下の機嫌に合わせて話題を選び、殿下の体面のために自分の意見を飲み込んだ三年間。完璧な婚約者であることが、いつしか私そのものになっていた。

それが今、断ち切られた。

胸の奥に広がったのは、悲しみよりも——もっと静かで、もっと深い何かだった。鎧を脱いだ後の、あの奇妙な軽さに似ている。三年分の重圧が、一瞬で消えたわけではない。だが確かに、何かが外れた。

殿下の真意など、とうに見抜いている。真実の愛などではない。父が病に伏し、弟はまだ十にもならない。公爵家の後ろ盾を失ったこの時こそが好機——辺境公爵領の利権を、代官を通じて呑み込む算段。ミレーユ嬢はそのための舞台装置にすぎない。あの涙も、殿下の腕にすがる細い指も、すべてが一つの絵として仕組まれている。

だからこそ、立ち止まるわけにはいかなかった。

泣いている暇はない。感傷に浸る猶予もない。父の領地を、弟の未来を、守れるのはもう私しかいない。

回廊の窓から見上げた夜空に、星が幾つか瞬いていた。王宮の灯りに負けて、ひどく頼りない光だった。辺境の空はもっと星が近かったことを、ふと思い出す。幼い頃、父に手を引かれて見た満天の星。冬の息が白く上がる中、父の大きな手のひらの温もり。あの頃の私は、殿下の婚約者でも、公爵令嬢の責務でもなく、ただの——リーゼロッテだった。

「明日、発ちます」

誰に言うでもなく、私は呟いた。声は回廊の石壁に吸い込まれ、何の反響も返さなかった。

足音が近づいてきた。振り返ると、侍女のエルザが息を切らせて駆けてくる。頬が紅潮し、きちんと結い上げていたはずの髪が少し乱れていた。広間から走ってきたのだろう。

「リーゼロッテ様——お荷物の支度を。私もお供いたします」

その目は赤かったが、声は震えていなかった。泣いたのだろう。私の代わりに。唇をきつく引き結んだその表情には、悲しみよりも怒りに近いものが滲んでいた。

「ありがとう、エルザ。——荷は最小限で構いません。帳簿の写しと、王妃教育の教本だけ」

エルザが一瞬、不思議そうな顔をした。衣装も宝飾も要らないのかと、その目が問うている。

「あれは殿下の婚約者としての衣装です。もう、私のものではありません」

言いながら、胸の奥で小さな火が灯るのを感じた。悲しみではない。怒りですらない。もっと静かで、もっと確かなもの。自分の意志で選び、自分の足で歩くという、ただそれだけの当たり前が、三年ぶりに胸の底から甦ってくる熱だった。

——ようやく、自分の足で歩ける。

その夜、私は王宮で最後の眠りについた。明日にはこの部屋も、この回廊も、すべて過去になる。

そして大広間の片隅で、一人の青年が夜会の喧騒に背を向けていた。地方貴族の三男を名乗るその青年は、先刻の光景を反芻するように目を細め、誰にも聞こえぬ声で呟いた。

「——面白い女だ」

その視線の先には、もう誰もいない回廊の扉だけが、静かに閉じられていた。

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