第2話
第2話
三日は、あっという間に過ぎた。
あるいは、私の中ではとうに終わっていた儀式を、世界がようやく追認するだけのことだったから、待つという感覚すらなかったのかもしれない。
王宮の控えの間で、私は鏡の前に立っていた。深い紺色のドレス。王家の紋章のない、ヴァレンシア家の色だけを纏った装い。生地は上等な絹だが、刺繍は最低限にとどめてある。華やかさではなく、正しさを示すための衣装。侍女が最後の仕上げにと差し出したサファイアの耳飾りを、私は静かに断った。
「それは返却品の中に入れてあります」
「ですが、リーシェ様。せめてお耳元だけでも——」
侍女の声がかすかに湿っていた。泣いているのだろうか。泣かないでほしい。あなたが泣けば、私が泣かせたことになる。
「結構です」
鏡の中の私と目が合う。薄い化粧の下に、三日前と変わらない顔がある。眠れなかった夜の痕跡は、粉で丁寧に消した。感情の痕跡は、もとより消す必要もない。十七年の訓練が、すでに処理を終えている。
大広間への廊下を歩く。靴音が石壁に反響する。窓から差し込む午後の光が、廊下の石畳に格子模様を落としている。空気はひんやりと乾いていて、どこか遠くから聖堂の鐘が一つ鳴った。式の刻限を告げる音だった。すれ違う廷臣たちが足を止め、会釈し、そしてすぐに目を逸らす。その仕草の一つひとつに、哀れみと好奇心が等分に混じっていた。ある婦人は扇で口元を隠しながら連れの耳に何か囁き、若い文官は書類の束を胸に抱え直して壁際に退いた。誰もが、疫病にでも触れるかのように距離を取る。
私は背筋を伸ばしたまま、真っ直ぐに歩いた。視線の重さは知っている。幼い頃から社交の場で浴び続けてきた。ただ、今日のそれは種類が違う。賞賛でも嫉妬でもなく、憐憫。この娘はもう用済みなのだという、温かい形をした残酷さ。
大広間の扉が開かれた瞬間、光が目を射った。
高い天井から吊るされた三連の燭台。磨き上げられた大理石の床に映る百を超える人影。貴族たちが左右に整列し、その中央に敷かれた深紅の絨毯が、玉座の手前まで一直線に伸びている。
婚約式のときと、同じ広間だった。あのときは白い花が飾られていた。百合と薔薇が交互に並び、甘い香りが広間を満たしていた。今日は何もない。祝うものが何もないのだから、当然のことだ。花の代わりに漂うのは、蝋の焦げる匂いと、大勢の人間が密集する生々しい熱気だけだった。
私は絨毯の上を歩き始めた。
正面に、オスカー殿下が立っていた。
金の髪。冬の湖のような青い瞳。まっすぐに前を向いたその横顔は、三日前の婚約式と寸分も変わらない。美しく、冷たく、私を映さない。玉座の一段下、儀礼用の軍装に身を包み、腰には象徴としての剣を佩いている。胸元の勲章が燭台の光を受けてちらりと瞬いた。その立ち姿だけで、絵画のように完成していた。私がどれほど隣に立とうと、あの絵の中に入れてもらえたことは一度もなかったのだと、今さら理解する。
その隣に、見慣れない少女がいた。
栗色の髪を緩く編み込み、白い神殿衣を纏っている。年の頃は私と同じか、少し下だろうか。伏せがちな睫毛の下で、大きな瞳が不安げに揺れている。男爵令嬢。聖女の素質を認定された娘。名は確か——いや、名前などどうでもよかった。
彼女は怯えていた。この大広間の空気に、貴族たちの視線に、自分が立たされている舞台の意味に。両手を胸の前で組み、祈るような姿勢で立っている。白い指先が微かに震えているのが、ここからでも見えた。
私は一瞬だけ、その少女を見た。憎む気にはなれなかった。彼女もまた、誰かに選ばれてここに立たされているのだ。聖女という名の新しい駒。私と同じように、盤上に置かれた石。違うのは、彼女の石にはまだ神殿という後ろ盾がついているということだけだ。
絨毯の終わりまで歩き、定められた位置で足を止める。
オスカー殿下が口を開いた。
「ヴァレンシア公爵家長女リーシェ。神殿の託宣により、余は新たに聖女の素質を持つ者を伴侶に迎えることとなった。よって、そなたとの婚約をここに破棄する」
声は朗々と広間に響いた。一片の感情も混じっていない。政務報告と同じ調子。私との十七年間の繋がりを断つ言葉が、まるで予算案の読み上げのように滑らかに流れていく。
広間がしん、と静まった。数百の目が私に集まる。
哀れみ。好奇心。ほんの少しの嘲笑。そして——期待。この娘がどう崩れるのか見たいという、社交界特有の上品な残酷さが、香水の匂いに混じって漂っている。
私は深く、ゆっくりと礼をした。
腰を折り、右手を胸に当て、公爵家の令嬢に許された最も格式の高い辞儀。角度は四十五度。三秒間、静止する。この礼を完璧にこなすために、私は十二歳のとき三百回以上練習した。師範は「鏡を見なくても角度が分かるようになりなさい」と言った。今、私の体は鏡がなくても正確にそれを再現できる。
体を起こし、殿下の目を真っ直ぐに見た。
冬の湖。あの日と同じ冷たい青。そこに私は映っていない。最初から映っていなかったのだと、今なら分かる。
「殿下のご多幸を、心よりお祈り申し上げます」
声は一筋の震えもなく広間を渡った。
殿下の瞳が、ほんの一瞬だけ揺らいだように見えた。見間違いかもしれない。見間違いであってほしかった。今さらそこに何かを見出してしまえば、この三秒で積み上げた全てが崩れる。だから私は、それ以上見なかった。
広間の空気が揺れた。私が泣き崩れると思っていた者たちの、わずかな落胆が波紋のように広がるのを感じた。期待を裏切ったことへの小さな苛立ちが、衣擦れの音に混じってざわめきに変わる。
それだけを告げて、私は踵を返した。来た道を戻る。深紅の絨毯の上を、一歩一歩、正確な歩幅で。背中に刺さる視線が、さざ波のように広がっていくのが分かる。囁きが始まる。扇の陰で交わされる言葉が、虫の羽音のように広間を満たしていく。
「見事な礼でしたこと」
「あれで十七歳とは」
「けれどお気の毒に。あの方にはもう——」
聞こえている。すべて聞こえている。けれど振り返りはしない。公爵令嬢は、一度見せた背中を返さない。
扉に手をかけたとき、右手の掌に奇妙な熱を感じた。
痛みではない。火傷に似ているが、もっと内側から来るもの。骨の髄を通って指先に這い上がるような、脈に沿った熱。握りしめた指の隙間から、何かが漏れ出ようとしている。胸の奥で、三日前に押し込めたはずの感情が呼応するように疼いた。怒りなのか、悲しみなのか、あるいはそのどちらでもない、名前のつかない衝動だった。
私はちらりと掌を見た。
淡い光が、あった。
蛍火よりも微かな、乳白色の光。掌の中心に、脈打つように明滅している。心臓の鼓動と同じ間隔で、強く、弱く、強く。一瞬だけ——本当に一瞬だけ、それは私の指先を照らし、そして消えた。
何だ、これは。
心臓が跳ねた。だが体は動かさない。表情も変えない。十七年の鋳型がそうさせる。どんな動揺も、まず体の表面に出さないこと。感じてから反応するまでの空白に、理性を差し込むこと。それが公爵令嬢の作法だと叩き込まれてきた。私はただ扉を押し開け、大広間を出た。
控えの間に戻る廊下で、呼吸を整える。掌をそっと開いてみる。光はもう消えていた。肌の上には何の痕跡もない。夢か幻覚か、あるいは燭台の光が手に映っただけなのか。
けれど、あの熱は確かに内側から来た。体の奥、胸の底、三日前に灯った怒りと同じ場所から。
考えている暇はなかった。控えの間に戻れば、すぐに馬車の手配が始まる。今日中に王都を発たねばならない。用済みの駒が王宮に留まる理由はない。
私は掌を握り直し、歩き出した。
知らなかったのだ。
大広間の一角、列柱の陰に立っていた一人の男が、あの光を見逃さなかったことを。
黒い外套を纏い、北方の寒風に晒された肌を持つその男——辺境伯カイル・ノルトハーゲンは、リーシェの掌に宿った光を見て、わずかに目を細めた。
「聖女の、光——」
呟きは誰にも届かなかった。廷臣たちの囁きの波に紛れ、柱の影に溶けて消える。
カイルは腕を組んだまま、リーシェが消えた扉をしばらく見つめていた。やがて背を壁から離し、人混みに逆らうように大広間を横切り始める。
北の国境で、原因不明の病が広がり始めていた。神殿に助けを求めても、新しい聖女は王都を離れられないの一点張り。打つ手がなかった——つい、先刻までは。
あの光が本物なら。
辺境伯の足取りは、迷いなく北を向いていた。