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捨てられた令嬢は北の聖女となる

第3話 第3話

第3話

第3話

王都の門を抜けたとき、馬車の窓から見えた空は、薄い灰色をしていた。

春の陽光がどこかにあるはずなのに、雲の層が厚く、光は拡散して方角を失っている。門番が形式的に敬礼するのが視界の端に映った。その鎧の胸当てに刻まれた王家の紋章が、曇天の鈍い光を受けて、磨かれた銀のように鈍く光った。出立の見送りは、誰もいなかった。父は書斎から出てこなかった。昨夜、廊下の向こうから微かに聞こえた紙を捲る音だけが、父がまだこの世にいる証拠だった。侍女たちは荷造りを手伝い終えると、一人、また一人と別の仕事に戻っていった。最後の一人が部屋を出るとき、振り返りかけて、やめた。その半端な動作の意味を、私は考えないことにした。王宮の控えの間で最後に顔を合わせた典礼官は、「道中ご無事で」とだけ言った。その声音に込められていたのは、祈りではなく処理完了の安堵だった。

馬車の車輪が石畳から土の街道に変わる瞬間、振動の質が変わった。硬く均一な揺れが、柔らかく不規則な揺れに移る。王都の秩序が遠ざかり、道が道としての素朴さを取り戻していく。車窓の外を、名も知らない鳥が一羽、低く横切った。

私は一人だった。

一人。その事実を、今初めて味わっている。

王宮では常に誰かの視線があった。公爵邸では使用人が控えていた。社交の場では百の目が私を測っていた。けれどこの馬車の中には、私しかいない。御者は御者台にいて、壁一枚を隔てた向こう側の存在だ。革張りの座席と、閉じられた窓帘と、膝の上に置いた手袋と、私。それだけの空間。革の匂いに混じって、街道沿いの若草の青い香りが窓帘の隙間から入り込んでくる。王宮の香には決してなかった匂いだ。

声を出す必要がない。表情を作る必要がない。背筋を伸ばす理由すらない。

なのに、体は勝手に姿勢を保っている。膝を揃え、手を重ね、顎を引いて正面を見つめる。誰も見ていないのに、十七年の鋳型が体を支配し続けている。自分の体が自分のものではないような感覚。操り糸を切られた人形が、糸がなくても立っている。筋肉が形を記憶しているから。

泣こうとしてみた。

大広間での殿下の声を思い出す。あの朗々とした、感情のない宣告。「そなたとの婚約をここに破棄する」。最後の一語が広間の天井に反響し、消えるまでの数秒間、私は自分の呼吸の音すら聞こえなかった。廷臣たちの視線。哀れみと好奇心が混じった、香水の匂いのする残酷さ。白い神殿衣の少女の震える指先。あの指先だけが、あの場で唯一、正直な感情を晒していた。

胸の奥に何かが動く。けれど、涙は出ない。

目の奥が熱くなる気配すらない。まぶたは乾いたまま、呼吸は規則正しく、心拍だけがわずかに速い。泣き方を、本当に忘れてしまった。いや、忘れたのではない。最初から教わらなかったのだ。公爵令嬢に涙の流し方を教える教師はいない。涙を止める方法だけを、繰り返し叩き込まれた。

馬車が小さく跳ねた。轍にでも嵌まったのだろう。その衝撃で、膝の上に重ねていた手がずれた。

右の掌が上を向く。

淡い光が、そこにあった。

大広間で見たのと同じ、乳白色の明滅。脈打つように、呼吸するように、強く、弱く、強く。蛍火よりも微かで、けれど確かに自分の内側から発しているもの。心臓の鼓動と寸分たがわず連動し、胸の奥から腕を伝って掌の中心に灯っている。

私はじっとそれを見つめた。

今度は一瞬では消えなかった。馬車の薄暗い車内に、掌の光が小さな影を落としている。指の輪郭が壁に映るほどの光量ではないが、目を凝らせばはっきりと見える。暖かい。体温より少しだけ高い温度が、掌の中心に溜まっている。触れているのに触れられない、自分自身の内臓の熱に手を当てているような、奇妙な親密さがあった。

感情が揺れると、光が応じた。

大広間のことを思い出す——光が強くなる。意識を手元に戻す——光が弱まる。胸の奥の、名前のつかない感情の潮位に合わせて、この光は満ち引きしている。

聖女の光。

大広間で辺境伯が呟いたかもしれない言葉を、私は知らない。けれど、聖女の素質を持つ男爵令嬢の存在が私の婚約を壊したという事実は知っている。あの少女の掌にも、この光が宿っているのだろうか。もっと強く、もっと眩く。

私は掌を握った。光が指の隙間から漏れ、そして閉じた闇の中に消える。

これが何であれ、今の私にとっての意味は一つしかない。誰にも知られてはならないということだ。王都を追われた公爵令嬢が聖女の力を持っていたなどという話が広まれば、父が政治の道具にするか、神殿が回収にくるか、あるいはその両方だ。いずれにせよ、また誰かが私の使い道を決めることになる。

嫌だ、と三日前に思った。あの感情は、今も胸の底に沈んでいる。

掌を開く。光はもう消えていた。閉じれば消え、開けばまた灯る。まるで、感情を閉じ込めれば隠せて、解き放てば現れる——そういう仕組みのように思えた。

窓帘の隙間から、景色が変わっていくのが見えた。王都の整然とした街並みが、なだらかな丘陵地帯に変わり、やがて見慣れた楡の並木が現れる。ヴァレンシア領の入口だった。この並木道を馬車で通るたびに、私は背筋をさらに伸ばしたものだ。領民の前では、より完璧な公爵令嬢でなければならなかったから。

今日は、伸ばす気力がなかった。いや、伸ばす理由がなかった。

馬車の速度が落ちた。砂利を踏む音が変わり、車輪が門の敷石に乗り上げる振動が伝わる。ヴァレンシア公爵邸の正門だ。

窓帘をわずかに開くと、邸の前庭が見えた。

誰もいなかった。

使用人の整列もない。出迎えの楽師もいない。当然だ。婚約式の前日に王都へ発ったときは、二十人余りの使用人が整列し、料理長が道中の菓子を手渡し、庭師が切り花の束を馬車に飾った。王太子妃候補の出立にふさわしい送り出しだった。帰りは違う。戻ってきたのは、婚約を破棄された娘だ。出迎える価値のない荷物だ。

御者が降りて扉を開ける。差し出された手を借りず、自分の足で馬車を降りた。靴の踵が敷石を叩く音が、静まり返った前庭に響く。

その音に応じるように、正面玄関の扉が開いた。

一人の女性が現れた。

灰色がかった亜麻色の髪をきちんと結い上げ、質素だが清潔な侍女服を着ている。年の頃は三十半ばだろうか。幼い頃から私の身の回りの世話をしてくれた侍女——マルテだった。他の使用人たちが持ち場に戻る中、この人だけがここにいる。

マルテは階段を降りると、私の前で深く頭を下げた。

「お帰りなさいませ、リーシェ様」

その声を聞いた瞬間、掌がまた熱を持った。

握りしめる。光を閉じ込める。泣くわけにはいかない。泣き方を知らないのだから。

「ただいま戻りました」

私の声は平坦だった。完璧に。十七年の訓練通りに。

マルテが顔を上げた。その目は赤くなかった。泣いた痕もない。ただ真っ直ぐに私を見て、微かに頷いた。この人もまた、泣かない人だった。私の代わりに泣くことも、私に泣くことを許すこともしない。ただ、ここにいる。それだけのことが、今の私にはひどく重い。

「お部屋の支度は整えてございます。道中お疲れでしたでしょう。まずはお茶をお持ちいたします」

「——お願いします」

声が掠れかけたのを、咳払いで誤魔化した。マルテは気づいたはずだが、何も言わなかった。

マルテに導かれて玄関をくぐる。見慣れた広間。見慣れた階段。見慣れた壁掛けの織物。何も変わっていない。三日前と同じ邸に、三日前とは別の私が帰ってきた。廊下を歩く自分の足音が、以前より大きく聞こえる。おそらく、邸が静かすぎるのだ。

自室に入ると、窓際に小さな花瓶が置かれていた。庭園の片隅に咲く、名もない野花が二輪。マルテが活けたのだろう。飾りとしては素朴すぎるが、この部屋に花を置こうとした意思が、そこにあった。

私は窓辺に立ち、外を見た。公爵邸の裏庭に、古い薬草園が広がっている。祖母の代に作られたと聞いたが、今は手入れする者もなく半ば荒れ果てていた。枯れかけた薬草の茎が、夕暮れの風に揺れている。

掌を開いた。

光は消えていた。だが、この手の中にある「何か」が消えたわけではないと、もう知っていた。怒りが灯れば現れ、心が凪げば隠れる。私の内側にあって、私の感情に連動するもの。

あの薬草園の枯れた花に、この掌を伸ばしたら。

何が起こるのだろう。

思考を振り払う前に、夕日が薬草園を橙色に染めた。枯れた茎の影が長く伸びて、まるで手を差し伸べているように見えた。

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