第3話
第3話
USBが、机の天板で乾いた音を立てた。
透の指が、プラスチックの稜線から離れる。掌に残ったのは、結露の冷たさと、男の最後の眼の残像。雨音は窓を叩き続けている。冷蔵庫のモーターが低く唸り、部屋の影を、ほんの少し揺らした。蛍光灯の傘の下で、埃が一粒、ゆっくりと舞い降りる。三年間、誰にも触れさせなかった部屋の空気が、今、別の重さを帯びていた。
(——刺せば、戻れない)
頭の中で、もう一度、言葉を組み立てる。組み立て終わる前に、右手が動いた。USBの根元を摘み、ノートパソコンの側面、USBポートへ、ゆっくり差し込む。
プラスチックの角が、金属端子に触れる。摩擦の手応え。指先で、それを最後まで押し込んだ。挿入の最後の一ミリで、わずかな抵抗。それを超えた瞬間、芯まで差し込まれた感触が、指の腹に伝わった。
ピ、と短い起動音。
画面右下に、ドライブのアイコンが現れた。名称は「無題」。容量、十六ギガバイト。使用領域、十一ギガバイト強。汎用品の形をしているが、中身は埋まっている。透はマウスのカーソルを、そのアイコンへ運んだ。
ダブルクリック。
開かない。
代わりに、灰色のダイアログが立ち上がった。パスフレーズの入力欄。八桁以上、英数字記号混在。下に、小さな注意書き。
『三回失敗で全消去』
透の口の端が、わずかに上がった。
(——軍仕様だ)
民間の暗号化ソフトでは、ここまで攻撃的なロックは設定しない。三回で消える。試行錯誤を許さない。第一線で運用される機器の、敵手鹵獲を前提にした設計思想。男は、ただの内部告発者ではない。
机の縁、USBを摘み上げる。指先で、側面の擦り傷を、もう一度なぞった。爪の腹で、溝を辿る。三本。一本目と二本目の間隔は短く、二本目と三本目の間隔はその二倍。短、長。三年前、教官が最初に教えた符牒の一つ。
——マーキングは、アクセスキーである場合がある。
教範の一節が、舌の奥で蘇り、すぐに沈んだ。教官の声色まで、はっきりと耳の奥で再生される。痩せた顎、煙草で焼けた声、教場の黒板の前で繰り返された言葉。三年間、麻痺させていたはずの記憶が、薄皮を一枚ずつ剥がして起き上がってくる。
「単純化しろ」
声に出した。三年ぶりの、自分の現場の声。
透はパスフレーズ欄に、半角で打ち込んだ。
「ASUKA0012」
エンターキー。
ロード中の表示が、二秒。
開いた。
フォルダ構造が、画面に展開する。透の眼が、瞬時に走査した。階層は三段。最上位に「01_LIST」「02_MAP」「03_PHOTO」。番号付きの三つ。中身を、上から順に。
「01_LIST」。
エクセルファイルが一つ。透はそれを開く。表計算ソフトの白い罫線が広がった。一列目、氏名らしき漢字とカタカナの並び。二列目、所属の略号。三列目、住所の都道府県。四列目、契約金額。五列目に、最後の取引日。
百行を超える名簿。
透の眼が、所属欄で止まった。略号「DSP-3」。「TKM」。「JBI」。三年前、自衛隊内部で使われていた、対外業務委託先の略称体系。防衛装備庁の関連、民間の警備会社、情報通信系のシンクタンク。略号の並びを上から下へ追うほど、胃の奥が、じわりと冷えていく。
(——内通者リストか)
頭の中で、声が乾いた。
百人を超える名前が、ここに記載されている。所属、住所、金額、取引日。組織は、彼らに金を渡し、何かを買っていた。情報か、便宜か、沈黙か。五列目の日付を眼で追うと、最も古い取引は十年前、最も新しいのは三日前。継続的、組織的、長期的。金額の桁を、もう一度見直す。最低でも七桁、上は九桁にまで及ぶ。一個人に、一回で振り込まれる額ではない。背後にある決裁系統の重さが、数字越しに匂ってきた。
二つ目のフォルダ「02_MAP」。
PDFファイルが、五つ。透は順番に開いた。
一つ目、東京都内の地図。赤い丸印が、七箇所。霞が関、市ヶ谷、横田、横須賀、座間、その他二箇所。軍と国家中枢の交差点。
二つ目、神奈川。同じく赤い丸、四箇所。三つ目、愛知。四つ目、福岡。五つ目、北海道。すべて、防衛関連施設、情報通信ハブ、自衛隊駐屯地の周辺。赤い丸の隣には、それぞれ小さな英数字のコードが添えられている。緯度経度の末尾と、施設識別記号。座標精度は、メートル単位まで。
地図の隅に、小さな企業ロゴが透かしのように印刷されている。透は画面に顔を近づけた。眼を細める。液晶のドットが粒状に浮き上がるほど近い距離で、ロゴの輪郭を識別する。
防衛省関連企業。航空宇宙系の老舗、通信機器メーカー、情報セキュリティ企業。三つのロゴが、それぞれの地図に対応している。
(——民間の犯罪集団じゃない)
胸の奥で、温度が一段下がった。背中の筋が、わずかに張る。三年前、検問所で感じた、あの「規模」の匂い。一個小隊では絶対に潰せない、もっと大きな何か。
三つ目のフォルダ「03_PHOTO」。
透の指が、一瞬止まる。マウスカーソルが、フォルダのアイコンの上で停止した。心拍が、耳の奥で一度、強く打った。喉の奥で、唾を飲み込む音が、自分のものとは思えないほど大きく響く。
クリック。
中には、JPEGファイルが二枚。
一枚目を開く。
画面いっぱいに、薄暗い室内の写真が広がった。コンクリート打ちっぱなしの壁。蛍光灯の白い光が、頭上から落ちている。床は灰色のリノリウム。中央に、木製の椅子。
椅子に、少女が座っていた。
縛られている。両手首が後ろ手に、麻縄で。両足首は、椅子の脚に。胸元にも、太い縄が一本、巻かれていた。白いブラウス。襟元に、わずかな汚れ。袖口が、片方だけ捲れている。髪は肩までの黒髪。前髪が、額に張り付いていた。汗か、水か、判別はつかない。縄の結び目は、二重の引き解け結びと、その上から固定の本結び。簡単には解けない。素人の仕業ではなかった。
顔。
画面の中央で、少女がカメラを見ていた。
眼が、見ていた。透の方を。
——逃げないで、と。
口は、テープで塞がれていない。塞がれていない代わりに、唇が固く結ばれている。涙の跡が、頬を伝った筋として残っている。だが、瞳には涙はなかった。乾いた瞳。覚悟の混じった、十二歳の眼。
(三年前と、同じ眼だ)
透の喉の奥で、音が止まった。胸郭の中で、心臓が一度、ねじれるように軋む。三年前、検問所の小屋の奥で、最後にリュウと交わした視線。あれと、同じ温度の眼差しが、いま画面の中から透を射ていた。
二枚目を開く。
同じ部屋。同じ椅子。同じ少女。だが、画角が違う。少女の膝の上、白い紙片が広げられている。鉛筆書き。雑な筆致。
『アスカ 12歳 期限 七十二時間』
その下に、もう一行。
『連絡なき場合、処分』
透の指が、トラックパッドから離れた。
掌が、汗で湿っている。膝の上、ジーンズの布地に、その汗が滲む。冷蔵庫のモーターが、また唸って止まった。窓の外、雨音が、わずかに弱まった。「処分」の二文字を、もう一度眼でなぞる。事務的な書体。命に対して、消耗品に対するのと同じ語が当てられていた。
立ち上がる。膝の関節が、軋んだ。
スマホを、手に取る。
ロック画面の時刻、午前二時十一分。男が殺されてから、五十四分。期限七十二時間から、五十四分を引く。
透の親指が、画面の上をなぞった。一一〇番。三桁を打ち込めば、警察が動く。組織は、警察の中にもいる可能性がある。だが、それでも、十二歳の命を秤にかけるなら、まず通報すべきだ。それが、まともな大人の選択だ。
(——まともな大人)
口角が、また、ほんの少しだけ上がった。
三年前、リュウが死んだとき、透も「まともな手順」を踏もうとした。司令部の判断を待った。応援を呼んだ。本部の許可を仰いだ。その間に、リュウは死んだ。手順を踏んだ結果が、それだった。あのとき無線越しに聞いた、最後の呼吸の途切れ方を、透の鼓膜はまだ覚えている。
スマホの画面に、自分の指が映り込んでいる。震えていない。三年間、缶ビールのぬるさで麻痺させてきた指が、今、ぴたりと静止していた。
——まともな手順では、アスカは死ぬ。
頭の中の声が、初めて、断定的に響いた。
透は、スマホを机に置いた。画面を、伏せて。
押し入れの引き戸が、湿気で渋る。両手で、横へ押す。中段の奥、毛布の下に、緑のダッフルバッグが沈んでいた。退役のとき、最後の支給品を詰めて持ち帰ったまま、一度も開いていない。
引きずり出す。床板が、重みで一度きしんだ。
ファスナーを開ける。湿気とオイルの匂いが、立ち上がった。鼻腔の奥に、三年前の駐屯地の朝が、一瞬だけ蘇る。整備班の油、洗濯したての迷彩、湯気を立てる金属皿。すべての匂いが、一つの記号として束ねられて、透の脳に届いた。
布で巻かれた長いもの。無線機の角張ったシルエット。その奥に、ラミネート加工の偽造ID。透の指先が、ナイフの柄を確かめる。グリップのチェッカリングが、三年ぶりに掌の皺と噛み合った。
机の上、ノートパソコンの画面では、アスカの眼が、まだ、こちらを見ていた。