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観て、動け。

第2話 第2話

第2話

第2話

雨が、降り始めた。

最初の一滴が、男のスーツの肩で弾けた。続く二滴目、三滴目が、革鞄の取手を伝って指の関節へ落ちる。アスファルトの匂いが立ち上がる。湿った塵の匂い。深夜のロータリーが、湿気で膨らむ。紺のジャケットの刃が、革鞄の影で角度を変える。透は煙草の箱を振り上げたまま、男との距離を詰めた。指先の温度が下がる。心拍が、耳の奥で一度だけ強く打った。

刹那。

肉に金属が入る音は、雨音にかき消されない。布が裂ける、低く湿った響き。男の脇腹で、白いシャツが赤く染み出す。腎臓ではない。プロが狙いを外した——いや、外させたのは透の介入。半歩、煙草の箱が刃の軌道を逸らした。それだけの差。

男の口から、最後の息が漏れた。

「頼む——」

声にならない声。透の耳が、その音を拾う。雨音の隙間、舌が上顎を打つ微細な摩擦音まで。

「アスカを」

男の革靴が、舗装の継ぎ目を蹴る。USBが、男の指先から放たれた。透のスニーカーの脇、舗装の窪みに、黒い稜線が落ちる。透の左足が、それを踏んだ。靴底の溝に、プラスチックの角が引っかかる。拾う動作はしない。靴底に挟んだまま、半歩、後ろへ下がる。視野の隅で、男の指が空を掻いた。最後の意思が、指先を通過していく。

紺のジャケットが、刃の二度目を振りかぶる。男の膝が崩れた。革鞄がコンクリートに落ちる。革の表面で、雨粒が黒い染みを広げる。男の眼は、もう透を見ていなかった。焦点が抜けた瞳に、街灯のオレンジだけが残る。瞼が、痙攣のように一度だけ動いた。それきり。

(死んだ)

頭の中の声は、感情を持たない。三年前、リュウのときも、同じ声が同じ語を発した。胸の奥が、わずかに冷える。それ以上は、動かない。動かないことを、透は自分に許した。

紺のジャケットが、男の襟首を掴んで引きずる。革靴の踵が、舗装に擦れて細い線を引いた。自販機の陰、歩道の死角へ。タクシー乗り場の運転手は、新聞を広げたまま、こちらを見ない。見せないように、誰かが事前に片付けたのか。深夜のロータリーに、目撃者は配置されない。プロの仕事の徹底。

灰色のパーカーが、革鞄を回収する。ベージュのコートが、スマホを耳に当てたまま、唇を動かした。声は届かない。黒いキャップが、群衆の隙間から、透の背中を見た。

——目が、合った。

新人の眼。瞳孔がわずかに開いている。判別がつく前に、消える。

透は雨に顔を上げるふりで、視線を空へ流した。睫毛に水滴が乗る。煙草の箱をポケットに戻す。指先で、箱の角がしっとりと湿っているのを確かめる。歩幅は変えない。靴底のUSBは薄い。歩行の体重移動で、いずれ位置がずれる。

コンビニの庇の下へ歩いた。雨の継ぎ目で、左足を強く踏み込む。USBが靴底から離れて、雨の溜まりへ滑った。しゃがむ。靴紐を結び直すふりをする。左手の指が、雨の溜まりからUSBを拾い上げた。掌の中、プラスチックの角が、皮膚に食い込む。冷たい。雨水の冷たさと、もう一段下の、何か別の冷たさ。

立ち上がる。膝の関節が、湿った空気の中でわずかに鳴った。コンビニの自動ドアが開く。

蛍光灯が頭の上で唸った。冷気が頬に触れる。乾いた空調の風と、揚げ物の油の匂い。店員はレジの奥でスマホを見ている。透のことなど見ていない。

カメラ。天井の隅、四箇所。レジ後方一台。出入口一台。動線を頭の中で再計算する。入口から飲料、飲料から雑誌、雑誌からトイレ。死角の繋がり方。一秒たりとも顔を正面に晒さない経路。

透はミネラルウォーターを一本掴み、レジへ向かった。冷蔵庫から取り出したボトルの表面に、瞬時に水滴が浮く。店員は顔を上げない。バーコードを読み、千円札を受け取り、釣り銭を渡す。透は釣り銭をポケットに突っ込み、トイレへ向かった。

狭い個室。便座のフタを閉じ、座る。膝の上で、両手の震えがないことを確かめる。震えていない。三年前と同じだ。

ペットボトルのキャップを開け、半分を一気に飲んだ。口の中の鉄の味が、ようやく薄れる。喉の奥に張り付いていた、男の血の匂いの記憶が、水と一緒に胃へ落ちていく。

USBを取り出す。

黒いプラスチック。容量表記なし。メーカーロゴなし。汎用品の擬装。側面に、小さな擦り傷。意図的な傷。組織内で複数を流通させるとき、混同を避けるための私的マーキング。爪で撫でると、傷の深さが均一だと分かる。鋭利な刃物で、一定の角度で引かれた線。

(——軍の流儀だ)

透の指が、止まった。

民間の犯罪集団は、こんなマーキングをしない。旧軍時代、補給物資の偽装には、こうしたシリアル代わりの擦り傷を使った。任務終了後、回収側が自部隊のものを見分けるための符牒。指の腹が、その傷を二度なぞる。記憶の奥で、訓練教官の声が一瞬だけ蘇り、すぐに沈んだ。

USBを、ベルトの内側に挟んだ。シャツの裾で隠す。冷たいプラスチックが、腰骨の上で体温に馴染んでいく。

トイレを出る。レジの店員は、まだスマホを見ていた。画面の青白い光が、店員の顎の下を照らしている。自動ドアが、再び開く。雨は、本降りに変わっていた。

サイレンの音が、遠くから近づいてくる。パトカー。一台、二台、三台。透は歩幅を変えずに、駅前広場を背にして歩いた。傘を差している人間と差していない人間が、半々。透は差していない。傘越しの視野は狭い。今は視野を狭めたくない。

横断歩道。信号は赤。だが、透は止まらなかった。停止すれば、背後の追跡者が距離を詰める。歩き続ければ、選択肢は減らない。赤のまま、車道を渡った。クラクションは鳴らない。深夜一時半、信号無視は咎められない。

歩道橋の影に入る。コンクリートの柱の陰で、一秒だけ立ち止まる。背後の足音を聴く。雨音。タイヤ音。傘の骨が軋む音。追跡の足音はない。柱のコンクリートに掌を当てる。ざらついた表面が、湿気を帯びて冷たい。

(まだ、判別がついていない)

黒いキャップの新人。あの眼は、透を見たが、追ってはこなかった。紺のジャケットが指示を出していない。あるいは、男の死体処理を優先した。

時間にして十分。透は駅前から半径八百メートルを、二度迂回しながら離脱した。靴の中で、靴下が雨水を吸って重くなっている。一歩ごとに、爪先で湿った布が鳴る。

四階のアパート、玄関の鍵が嚙み合わない。歪んだシリンダーを、左右に三回動かす。三回目で開く。内側からチェーンをかけ、ドアスコープを覗く。廊下に人影なし。靴を脱ぐ。靴底を確認する。血痕も、プラスチックの破片も、付着していない。良し。

部屋は六畳。冷蔵庫の音だけが鳴っている。透は明かりを点けず、廊下の隙間から差し込む街灯のオレンジで、台所まで歩いた。床板が、踵の下で一度だけ軋む。警備員の制服を脱ぐ。脇の下が雨で濡れている。シャツを脱ぐ前に、ベルトの内側からUSBを取り出した。

掌の上、黒いプラスチック。街灯の光で、表面が鈍く光る。

(——アスカ)

男の最後の声が、耳に残っている。頼む。アスカを。固有名詞。十二歳の女児か、暗号名か、判別はつかない。だが、男はその名を、命の最後の音にした。プロは無駄な音を出さない。アスカという音には、男にとって最大の価値があった。

冷蔵庫を開ける。庫内灯のひんやりした白が、足元のリノリウムに長方形の光を落とした。缶ビールが半分。おにぎりが二つ。透はビールに手を伸ばし——止めた。戻す。水道の蛇口をひねり、コップに半分注いだ。アルコールは判断を鈍らせる。今夜は、それを飲む夜じゃない。水道水は、配管の冷たさをそのまま伝えてきた。

部屋の隅、ノートパソコン。三年前、退役のときに支給品を私物化したものだ。透は床に座り、パソコンを開いた。スリープから復帰する画面の青白い光が、部屋の壁に投げられる。畳の縁の擦れた毛羽立ちまで、青く染まる。

USBを、机の上に置いた。そのまま、十秒。

(——刺せば、戻れない)

頭の中の声は、冷静だった。USBを刺せば、データが透のパソコンに記録される。組織が辿ろうと思えば、数日で辿れる。刺さなければ、ただの黒いプラスチックの拾得物だ。明日の朝、雨の側溝に投げ込めば、それで終わる。男一人を見殺しにした罪悪感だけが、缶ビールのぬるさと一緒に薄れていく。

選択肢は、それだけ。

透は窓の外を見た。雨は、まだ降っている。窓ガラスを伝う水滴が、街灯のオレンジで内側から光って見える。四階のベランダ、街灯のオレンジ、向かいのマンションの非常階段。三年間、毎晩同じ景色だった。

USBに、もう一度、視線を落とす。側面の擦り傷。軍の流儀。男の眼。リュウの眼。

(三年前、俺は守れなかった)

透は、USBを掌に握り直した。

プラスチックの角が、皮膚を押し戻す。冷たい。さっきまで雨に濡れていた表面が、室温で結露している。掌の体温と、プラスチックの体温が、ゆっくりと釣り合っていく。指の付け根の皺に、結露の水滴が一粒、伝った。

街灯のオレンジが、USBの稜線で割れた。鈍く、光った。

雨音が、窓ガラスを叩く。冷蔵庫が、ジ、と鳴って静かになる。廊下の電球が、一度、瞬いた。一瞬、部屋が完全な暗闇になり、すぐに戻る。

透は息を吐いた。肺の底にあった、駅前の鉄の味が、ようやく抜ける。

(——アスカ。お前は、誰だ)

掌の中で、USBは、まだ光っていた。

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