Novelis
← 目次

観て、動け。

第1話 第1話

第1話

第1話

午前一時十七分、駅前ロータリー。

霧島透の右肩に、警備会社の制服のアイロン痕が食い込んでいる。三年前まで二十キロのプレートキャリアを背負っていた肩に、安物のポリエステルは軽すぎる。最終バスを見送った踏切が遠くで鳴る。煙草を一本だけ吸って、踵で潰した。鉄の味が舌に残る。

歩道橋の階段を下りきる。

その瞬間だった。

視界の隅で、四つの影が同時に動いた。

四人。

歩幅、視線、上着の膨らみ、互いの距離。透の眼が反射で識別する。素人ではない。歩幅は揃わないが、互いの間隔は揃っている。視線が合わないが、視線の死角は埋め合っている。プロの仕事だ。指揮系統の匂いがする。誰かが事前にプランニングし、誰かが現場で微調整している。素人の集団行動には絶対に出ない、あの研ぎ澄まされた静けさ。

舌打ち。

(関わるな)

雑踏に紛れたまま、歩く速度を変えない。コンビニの白い灯。タクシー乗り場の蛍光灯がジジ、と鳴って瞬く。湿った夜気が首筋に張りつく。雨の前触れだ。アスファルトの匂いが微かに立ち上がる。コンクリートに染み込んでいた昼間の熱が、夜の冷気に押されて、上へ上へと逃げていく。その隙間に、人間の汗の匂いが混じり始める。

退役して三年。

警備員のバイトで食いつなぐ生活。今日の予定はおにぎりと缶ビールと四時間の睡眠。それだけでいい。それだけが、生き延びるということだ。冷蔵庫の奥に半分残った缶ビール、そのぬるさえ今夜は救いに思えた。家までの徒歩十二分、エレベーターのない四階、玄関の鍵の歪んだ嚙み合わせ。それらの一つ一つが、戦場から最も遠い場所の証だった。

透は視線を落として歩く。前を行くスーツの男の背中が、三メートル先にある。三十代後半、革鞄、薬指に指輪の跡。歩幅は速い。リズムが乱れている。汗の匂いが、夜気に混ざって流れてきた。スーツの肩が小刻みに上下している。呼吸が浅い。誰かに追われている人間の歩き方だ。革鞄の持ち手を、左手が握っては緩め、握っては緩めしている。

男が、振り返った。

目が合った。

男の瞳の奥で、何かが叫んでいた。

——助けてくれ。

声には出ない。だが、透の眼はそれを読み取る。怯えではない。覚悟の混じった怯え。逃げ場のない人間の目。三年前、部下のリュウが死ぬ前に、同じ目をしていた。砂埃の舞う検問所、半壊した装甲車の影、リュウは血の混じった唾を吐き出しながら、それでも笑おうとしていた。あの笑顔の手前にあった、あの目。

透の足が、半歩遅れる。

(関わるな、霧島)

自分に言い聞かせる。スーツの男は他人だ。三年前に死なせた部下は、もう戻らない。今度は守れる、なんてのは甘い妄想だ。守るべきだったのは三年前で、今は違う。生き残った人間が抱えていいのは、缶ビールのぬるさと、四時間の睡眠と、明日も同じ制服を着る義務だけだ。それ以上を望めば、また誰かが死ぬ。

だが眼は止まらない。四人組の配置を、透の脳が勝手に再構成する。

紺のジャケット。男の十一時方向、距離六メートル。歩幅八十七センチ。利き手は右。腰の位置に違和感。隠した刃物のシルエット。鞘ではない。直接、ベルトに差している。素早く抜くための携行。プロの選択。

灰色のパーカー。男の七時方向、距離八メートル。フードを被っているが、視線は男の後頭部から外れない。退路を塞ぐ役。獲物が逃げた瞬間に最短距離で詰める位置取り。

ベージュのコート。スーツの男の二時方向、距離十二メートル。スマホを耳に当てているが、口は動いていない。聞き役、もしくは合図待ち。耳に当てた手の角度が不自然——画面が空を向いている。本当に通話しているなら、こうはならない。

黒いキャップ。透の九時方向、距離十五メートル。一番若い。二十代前半。歩き方の癖から、新人。多分、見張り役。視野の使い方が広すぎる。経験者は、見張りでもどこか一点を中心に置く。こいつはまだ、全方位を均等に怖がっている。

四人で囲んでいる。

男はそれに気づいているのか。気づいた上で、ここまで歩いてきたのか。

透は煙草を取り出すふりをしてポケットを探る。逃げ道を測る。コンビニの自動ドア、五メートル。タクシー乗り場、八メートル、ただし運転手の証言が残る。歩道橋の上り口、十メートル、ただし人通りが消える。背後の自販機の陰、三メートル、ただし袋小路。地下通路の入口、二十メートル、ただし途中で四人組の射線を横切る。

(ベストは、何もしないこと)

頭が答えを出す。透は男から視線を外した。

外そうとした。

外せない。

男の口が、わずかに動いた。

「すみません」

夜気の中、その三音が透に届く。距離二メートル半。男はゆっくりと、透のほうへ歩み寄ろうとしている。歩幅は短い。誰かに不審に思われない速度を必死で計算している。だが、足首が震えていた。革靴の中で、爪先が小刻みに地面を叩いている。

紺のジャケットが、群衆の隙間から速度を上げた。

時間にして三秒。

透の体が、勝手に判断を始める。

肺の底で空気が止まる。心拍数が、平常時の四十二から、戦闘前の六十八へ跳ね上がる。背中の筋肉が、体重の移動を準備する。三年間眠っていた回路が、一斉に灯を入れる。指先が、煙草の箱の角を、過剰なまでに正確に把握している。掌の汗が、ポリエステルの裏地に滲む。視野の周辺がわずかに暗くなり、中心の解像度だけが上がる。トンネルビジョン。戦闘モード。

(まずい)

頭は冷めている。だが、体は熱い。

スーツの男が、透の二歩手前で立ち止まった。バッグを胸に抱え直すふりをして、左手で何かを握り直す。爪の先ほどの黒い物体。透の眼は、そのプラスチックの稜線を捉える。

USBメモリ。

男はそれを、透のスニーカーの脇——舗装の継ぎ目に、滑り込ませようとしていた。指先が震えている。震えながら、それでも狙いを外さない。この男は、これを誰かに渡すために、ここまで歩いてきた。それだけのために、四人組に追われながら、足を止めずに来た。

男の唇が動く。声にはならない、ただの形。

「た——」

その一文字を、透は読み取れなかった。「頼む」か「助」か「託」か。あるいは別の言葉か。判別する時間はなかった。

男の背後、紺のジャケットが歩幅を二倍に伸ばす。黒い刃が、革鞄の影に隠れて、男の腎臓の高さに照準を定める。プロの位置取りだ。腎臓を刺せば、声を上げる暇もなく失血で倒れる。

(動けば、消される)

頭の声は冷静だ。動かなければ、男だけが死ぬ。動けば、男も透も、四人組の標的になる。背後の黒いキャップが、透の挙動を観察している。新人とはいえ、銃か刃物は持っているはずだ。十五メートルの距離は、走れば三秒。

選択肢は二つ。視線を逸らすか、踏み出すか。

透は深く息を吸った。

煙草の灰の匂い。アスファルトの冷気。男の汗。男の汗の中に、別の匂いが混じる。微かなアンモニア。恐怖で漏れた、男の小便の匂い。それは三年前、検問所のリュウからも漂っていた匂いだった。死を覚悟した人間の、最後の体液の匂い。

(——三年ぶりだな)

口角が、勝手に上がる。

笑っているのか。判別がつかない。だが、震えはなかった。指先も、膝も、声帯も。三年間、缶ビールのぬるさで麻痺させてきた何かが、今、ぴたりと静止している。

透はポケットから手を出した。煙草の箱を握ったまま。それを、男のほうへ差し出すように、腕を上げる。

「すみません。火、ありますか」

声を、上げた。

紺のジャケットの歩幅が、一瞬、崩れた。

判断に詰まる。第三者が介入したのか、ただの通行人か。プロほど、この一瞬で迷う。素人なら刺してから考えるが、プロは刺してからでは遅いことを知っている。

刃は構えたまま、視線が透に流れる。透は煙草の箱を振って見せる。男のほうへ一歩、踏み出す。男との距離、一メートル半。

スーツの男の眼が、見開かれた。

——逃げろ、と透は目で言った。

——逃がさない、と男の目が答えた。

男の左手が、最後の力で動く。爪の先のUSBが、透のスニーカーの脇に、確かに滑り込んだ。舗装の継ぎ目に、小さな黒が落ちる音。

紺のジャケットが、刃の角度を変えた。

男の革靴が、一歩、透のほうへ。

透の右手が、煙草の箱を握りつぶす。

夜の駅前広場で、雨が降り始めた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ