第3話
第3話
受話器を、若槻から受け取った。
プラスチックの表面が、若槻の手の汗で、わずかに湿っていた。私は耳に押し当て、自分の名を短く名乗った。受話器の向こうで、桐谷が一度、息を呑んだのが分かった。──息を呑む音を、電話越しに聞き取れる関係というのは、二十年が経っても、消えていない。
「芹沢」
桐谷の声は、低かった。低さの種類が、いつもと違っていた。元刑事の、職務上の低さではない。喉の奥に何かを詰めて、それを噛み殺しながら出している、私生活の低さだった。
「お前、いま、何の依頼を受けた」
「依頼じゃない。郵便受けに投げ込まれた」
「……投げ込まれた、か」
「茶封筒。差出人なし。中身は、四月二十五日の朝刊の切り抜きと、暗号らしき記号列。屋号で署名がある」
「屋号、というのは」
「朝凪堂だ」
受話器の向こうで、桐谷の呼吸が、一拍、止まった。止まったあと、ゆっくりと、長く吐かれた。煙草を吸っている人間の、煙を逃がす吐き方だった。私は、桐谷が二年前に煙草をやめたはずだと思い出し、それを口にしないでおいた。
「──十時に、お前の事務所に行く」
「資料は」
「持っていく。だが、この電話は切る。──固定電話か」
「ああ」
「俺の方の番号は、もう使うな。あとで別の番号を渡す」
通話は、それだけで切れた。受話器を置いた私の指が、わずかに冷たくなっていた。電話越しに伝染する温度というものを、私は信じない。だが、桐谷の声には、温度を奪う何かが、確かにあった。
「桐谷さん、どんな声でした?」
若槻が訊いた。私は受話器の上に手を置いたまま、しばらく動かなかった。
「──煙草を、また吸い始めた声だ」
桐谷が事務所に着いたのは、九時五十二分だった。
階段を上がる足音が、いつもより重い。革靴の踵の減り方の、左右差が出ている。私はドアを開ける前に、足音だけで、それを聞き分けた。ドアが開くと、桐谷は紺のジャケットに、灰色のスラックスという格好で、片手にA4の茶封筒を抱えていた。封筒の口は、テープで二重に塞いであった。
「悪いな、芹沢。早く着いた」
「上等だ。麦茶しかないが」
「水でいい」
桐谷は応接スペースの椅子に、腰を下ろさなかった。立ったまま、自分の抱えてきた封筒を、デスクに置いた。テープを剥がす指が、少しだけ震えていた。元刑事の指の震え方は、加齢のものとも、寒さのものとも違う。中身を出すことに、ためらいがある時の震え方だった。
「被害者の身元」
桐谷は、最初の一枚を、私の前に滑らせた。証明写真のコピーが、左上に貼られていた。
「峰岸 隆司、三十二歳。勤務先は、日本橋の専門商社『立花物産』。輸入雑貨課の、課長補佐」
「家族は」
「妻と、四歳の娘。──奥さんが、二十四日の昼前、署に出向いて、名前の公表を見送ってほしい、と申し入れた」
「昼前、というのは、発見から、九時間後だ」
「そうだ。普通の遺族は、九時間で、新聞社の朝刊締切と、公表の段取りを、思いつかない」
桐谷は二枚目を出した。現場の写真。隅田川の堤防上、遊歩道のコンクリートの縁が、写真の右下に写っている。縁の角が、わずかに欠けていた。欠けの新しさを、私は見た。コンクリートの破断面が、白い。風雨に晒された古い欠けは、もっと、灰色に沈む。
「これは、二十四日の朝、現場検証で撮った写真だ。──堤防の縁の、この欠け。鑑識は、転落の際に、被害者の靴の踵が引っ掛けて出来たものだ、と書いている」
「お前は、どう見る」
桐谷は、写真を指で押さえたまま、答えなかった。代わりに、三枚目を出した。被害者の靴の写真。革靴の踵は、ほとんど無傷だった。
「──踵で、コンクリートを欠けさせるなら、踵側にも、相応の傷が残る」
「だが、この踵は」
「綺麗だ。新しい欠けは、別の何かで、別の角度から、つけられた可能性が、ある」
私は写真を、若槻にも見えるよう、机の上で回した。若槻は、唇を結び、何度か、目を細めた。
「桐谷さん、──司法解剖は」
「結果は、まだ来ていない。だが、来ても、たぶん『転落による頭部外傷』で、押し切られる」
「押し切られる、というのは」
「上から、そう書け、と、来ている、ということだ」
桐谷は、それだけ言うと、椅子の背に手をかけて、しばらく俯いた。俯いた頭の、つむじの白髪が、二十年前より、確かに増えていた。私は、立っている桐谷の靴の先を見た。革靴の爪先が、デスクの脚に、ほんの少しだけ触れている。触れたまま、動かない。動かないことで、自分の足の震えを、止めようとしている。それが、分かった。
「桐谷さん」
「──芹沢」
桐谷は、顔を上げなかった。
「お前を、巻き込みたく、なかった」
私は、答えなかった。答える前に、桐谷の言葉の重みを、机の上に、置きたかった。
「あの河川敷の件は、署内でも、扱いが、変だ。捜査本部は立たない。担当も、絞られている。当直で最初に現場に入った刑事の名前は、書類から、抜かれている」
「抜かれている、というのは」
「報告書のフォーマットが、書き換えられている。当直担当者の欄が、空欄のまま、上に通っている。普通は、絶対に通らない欄だ」
「お前が、調べた」
「調べた。──調べたから、お前のところに、来ている」
桐谷は、ようやく顔を上げた。元刑事の目には、二十年前、私の父の通夜の夜に見た目と、同じ陰が、あった。
「朝凪堂、という署名で、暗号が来た、と言ったな」
「ああ」
「──芹沢。お前の親父さんが死んだ年に、何があったか、もう一度、思い出した方がいい」
私は、桐谷の顔を、まっすぐに見返した。喉の奥で、線香の匂いが、薄く、立ち上がる気がした。二十年前、袖口に染みついて、何度洗っても落ちなかった、あの匂いだった。
「桐谷さん、それは、いま、話すことか」
「いま、話さなければ、たぶん、話す機会がない」
「──だが、まだ、聞かない」
桐谷は、何度か、瞬きをした。瞬きの回数で、桐谷が、安堵したのか、落胆したのか、私には、判別がつかなかった。
「分かった」
桐谷は、四枚目の紙を、デスクに置いた。立花物産の、組織図のコピーだった。輸入雑貨課に、赤いボールペンで、二つ、丸が打たれている。一つは、峰岸隆司。もう一つは、その隣の、課員。
「峰岸の同僚だ。──二十四日の、峰岸が河川敷に行く前、最後に会っていた人間が、こいつだ」
私は、その名前を、口の中で、一度、転がした。聞き覚えのない名前だった。聞き覚えのない名前が、いま、私の机の上で、二つ目の標的の顔として、待っている。
「桐谷さん」
「何だ」
「──ありがとう。それから、すまない」
「謝るな」
桐谷は、ようやく、麦茶の入ったコップを、手に取った。コップの縁に、桐谷の指紋が、はっきりと残った。指紋の渦の中心が、わずかに、濡れていた。
桐谷が事務所を出たあと、私はデスクに残された四枚の紙を、暗号の紙の隣に、並べた。
新聞記事。被害者の写真。現場の写真。組織図。──そして、十数個の記号列。並べ終えた机の上は、朝の事務所の静けさを、半分、奪っていた。残り半分の静けさが、若槻の浅い呼吸の音に、すり替わっていた。
「所長」
若槻が、ようやく、口を開いた。
「桐谷さん、最後の、あれ──親父さんが死んだ年に、何があったか──」
「聞かなかった」
「聞かなくて、いいんですか」
私は、暗号の紙の右下、朝凪堂の四文字を、もう一度、指で押さえた。指の腹に、鉛筆の芯の、ざらりとした感触が、戻った気がした。気がしただけで、実際には、何も、戻ってはいない。
「──いずれ、聞く。だが、まだだ。先に、人を、死なせない」
若槻は、頷きはしなかった。代わりに、組織図の、二つ目の丸を、指で囲んだ。
「この同僚、今日、立花物産に、出社しているでしょうか」
私は、壁の時計を見た。十時四十分。日本橋の商社の朝礼は、たいてい、九時半に終わっている。
「出社しているなら、昼休みに、会いに行く」
「会いに行って、何を、聞きます?」
私は、答える前に、暗号の紙を、もう一度、蛍光灯にかざした。記号列の左から三番目と、四番目の組み合わせが、薄い影を、紙の繊維の奥に、落としていた。──その影の形が、昨日まで、ただの落書きにしか見えなかった。だが、桐谷が置いていった組織図の、ある一行を、私は、もう一度、見た。
立花物産、輸入雑貨課、所在地。日本橋、室町三丁目、八番。
「──若槻」
「はい」
「この記号列の、最初の四つ。これは、地名と、時刻だ」
若槻が、息を、止めた。
私は、椅子の背を、強く、握り直した。握った指の関節が、白く、浮いた。