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朝凪堂の暗号

第2話 第2話

第2話

第2話

階段を半分ほど下りたところで、私は足を止めた。

朝七時十五分。事務所の入る雑居ビル前の通りは、通勤客の足音と、隣のクリーニング店のシャッターが上がる金属音以外、静かだった。シャッターの軋みは途中で一度詰まり、店主の舌打ちらしき短い息が、それに続いた。私は手すりに片手をかけたまま、視線を路上に走らせた。コンビニ袋を提げた老人。自転車を押す若い男。バス停で時刻表を見上げる女子高生。──いずれも、十秒以上同じ場所に留まっていない。封筒の糊がまだ湿っていたという事実から逆算すれば、差出人は十五分前に、ここにいた。だが、その十五分が、もう、過ぎている。手すりの鉄が、夜の冷えをまだ握りしめていて、私の手のひらに薄く張りついた。

私は階段を下り切り、郵便受けの前まで歩いた。集合郵便受けは六口。その下の床のタイルに、湿った靴跡らしきものが残っていないか、屈んで確かめた。──ない。あったとしても、通勤客の靴跡と区別がつかない。タイルの目地に溜まった砂粒だけが、靴底の押し圧で僅かに偏っている。が、それも昨夜の雨の名残かもしれず、根拠としては弱い。

ふと、郵便受けの口に指先を入れた。指の腹に、微細な紙の毛羽が残った。茶封筒の繊維だ。誰かが、勢いをつけずに、丁寧に押し込んだ。乱暴に投げ込んだ人間は、こんな繊維の残し方をしない。指先に残った繊維を、私は親指でゆっくりと擦り潰した。粉のように細かく、けれど確かに、人の手の温度を経由した跡だった。

几帳面な人間が、几帳面に投函した。それだけ確認すると、いま路上に留まる理由は無くなった。河川敷はどこにも行かない。だが、新聞記事と暗号は、もう一度、机の上で読み直す価値がある。動く前に、読み直す。読み直して、行先を絞ってから歩いた方が、無駄な足取りが減る。二十年、この仕事をしてきて、足で稼いだ事実より、机で気づいた違和感の方が、結局のところ、命の数に跳ね返ってきた。

私は階段を上がった。手帳を脇に挟んだまま外へ向かった自分が、結局十分も経たずに引き返してくることに、内心で苦笑した。アクリル板の表札が、また風で鳴った。乾いた、薄い音だった。父の代から二度替えただけの表札の、留め金の片方が、もう緩んでいる。

事務所に戻ると、若槻が固定電話の受話器を耳に当てたまま、私の顔を見て眉を上げた。

「──桐谷さんに繋がりました。折り返してくれるそうです、十時頃。それまでに、もう少し材料を揃えておけ、って」

「上等だ」

私は内ポケットから新聞記事を出し、デスクに広げた。紙は内ポケットの体温で、わずかに湿りを帯びていた。

「もう一度、読む。今度は、ちゃんと」

新聞は地方紙の都内版だった。三日前、四月二十五日の朝刊。十六面の社会欄、左下隅に、本当に小さく載っていた。〈河川敷で会社員転落死、事故か〉。本文は三段組の、三行半。

『二十四日午前三時頃、東京都荒川区の隅田川河川敷で、男性会社員(三十二)が転落しているのを、ジョギング中の通行人が発見、通報した。男性は搬送先の病院で死亡が確認された。荒川署は、堤防上の遊歩道から誤って転落したとみて、事故の可能性で調べている。』

私は記事の右肩に書かれた日付を、爪で軽く叩いた。爪と紙が触れるたび、こつ、こつ、と鈍い音が、机の上の静けさにひびを入れた。

「若槻。これ、変だと思わないか」

若槻はデスクの反対側に座り、私が指している場所を覗き込んだ。色付きのボールペンを耳に挟んだまま、目を細めた。蛍光灯の白が、若槻の額に薄く映り込んでいた。

「四月二十五日朝刊、ですよね」

「発見時刻は二十四日午前三時。発見から、朝刊の校了までに、何時間ある」

「都内版朝刊の最終校了は、たいてい二十五日の午前一時か二時です。──なら、発見から最大でも二十二時間弱」

「だが、新聞社が記事を確定させるには、警察の発表か、署への裏取りが要る。深夜三時の発見、午前一時校了として、警察側がコメントを出せた時間は、実質、二十二時間しかない」

若槻は記事を読み返した。読み返す若槻の喉仏が、一度、ゆっくりと上下した。

「『事故の可能性で調べている』──これ、警察が事故と発表した、っていう書き方じゃないですね」

「ああ。署が記者に対して、『事故の線で見ている』と、非公式に伝えた、ということだ」

「二十二時間で、それを伝えてる」

「そうだ。──普通なら、まず司法解剖の結果待ち、現場検証の結果待ち、で、最低四十八時間は『調査中』の一点張りだ。それを、半分の時間で『事故の可能性』とまで踏み込んで、記者にリークしている」

若槻が、唇の端で空気を噛んだ。短く、苦い表情だった。

「──早すぎる、ってことですか」

「早すぎる。誰かが、急いで『事故』に着地させたがった。だとすれば、急がせた理由がいる」

私は記事の余白に、ボールペンで二本の縦線を引いた。発見時刻と、校了時刻。その間に、二十二時間。普通の事件なら、まだ何ひとつ確定していない時間帯だ。線と線の間が、妙に白い。インクの黒が紙に滲み、滲んだ縁が、ほんのわずかに、外側へにじり寄っていた。

「若槻、もう一つ気になるところがある」

「どこですか」

「被害者の名前が、本文に出ていない」

若槻はもう一度、本文を頭から読んだ。「男性会社員(三十二)」。確かに、氏名は伏せられていた。耳に挟んだボールペンを、若槻は無意識に外し、人差し指と親指の間で回した。

「──遺族の意向、で外す場合もありますけど」

「ある。だが、遺族が二十二時間以内に新聞社に申し入れをして、それが受理される、というのは、これも、妙に早い」

「事故、で、名前を伏せたい人間が、急いだ」

「あるいは、急がせた」

私は記事をデスクの中央に戻し、その上に暗号の紙を重ねた。重ねた瞬間、新聞紙の埃の匂いと、上質紙の少し青い匂いが、机の上で短く混じり合った。

朝凪堂、と右下に薄く引かれた四文字を、私はもう一度、指で押さえた。鉛筆の痕は、蛍光灯の角度を変えると、消える。それでも、確かにそこにある。

「若槻。差出人は、この記事を読み込んでいる。読み込んだ上で、『事故ではない』と判断して、私に送ってきた。それも、私が朝凪堂の家の人間だと知った上で、わざわざ屋号で署名している」

「過去の所長を、知ってる人間、ですね」

「もしくは、過去の所長を調べた人間だ。──書類に残らない屋号を、調べ当てるだけの、執念か、伝手がある」

若槻が黙った。沈黙の重さの分だけ、壁掛け時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。

私は窓の外を見た。雑居ビルの三階の窓から、向かいのビルの壁面にかけられた工事用シートが、風で重く揺れていた。シートの皺の入り方が、左下だけ深い。風向きが変わっている。朝の風は、東から西へ、川の方から、街の方へ流れていた。

「──二十年前に解散した家の屋号を、書類に残らない形で知っている人間。新聞記事を読んで、警察の不自然な早さを見抜ける人間。暗号を作る訓練を受けたか、そうでなければ、暗号を作るほどの動機を、抱えている人間」

「条件、けっこう絞れますよね」

「絞れる。だが、絞った先に、俺の知っている顔がいない、というのが、いま一番、嫌な感触だ」

若槻はペンを置き、両手で額を支えた。指の付け根が、こめかみの骨を押し潰すように、白くなっていた。

「桐谷さんには、何を頼みます?」

私は少し考えた。考える間、舌の奥に、淹れたまま冷めた緑茶の渋みが、残っていた。

「司法解剖の結果と、現場検証の写真。それから──」

そこで言葉を切り、暗号の紙を、もう一度、見た。十数個の記号が、左から右へ、薄くなりながら並んでいる。書き手の筆圧は、左端で強く、右端で弱い。途中で、一度、息を継いでいる。

「──二十四日深夜、荒川署で当直だった刑事の、名前」

若槻が目を上げた。

「リークした人間を、特定する気ですか」

「特定はまだだ。だが、二十二時間で『事故』に着地させた誰かが、署の中にいる。それは、押さえておきたい」

私は手帳を取り、表紙の革をなぞった。乾いた手触りが、二十年前と変わらない。革の角の、擦り切れた一点だけが、人差し指の腹を引っ掛ける。父が、同じ場所を、同じ指で、撫でていたのだろう。

「事件を、解くな──これは、もう、置いておく」

若槻が、唇を結んだ。

「人を、死なせるな──これだけは、守る」

私は壁の時計を見た。九時半。桐谷からの折り返しまで、あと三十分。河川敷へ行くには、その電話を待ってからの方が、早い。

私は暗号の紙を封筒に戻した。糊の縁が、まだ、ほんの少し、湿っていた。──いや、湿りが、戻っている。封筒を握っていた私の指の汗が、糊に染み込んだのだ。そう、思いたかった。指先を鼻に近づけると、わずかに、知らない接着剤の、青臭い匂いがした。

電話が鳴った。

予定の時刻より、二十五分、早かった。一回目のベルが、二回目のベルを呼ぶ前に、若槻の手が伸びていた。若槻が受話器を取り上げ、相手の名を聞き取って、私の方を見た。受話器を握る若槻の指の関節が、白く浮いていた。

「──桐谷さんからです。声が、変です」

私は、手帳を握り直した。

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