第1話
第1話
封筒の糊が、まだ湿っていた。
朝七時、事務所の郵便受けに突っ込まれていた茶封筒を抜き取った瞬間、指先に微かな粘りを覚えた。配達員のものとは違う。郵便局の機械にかけられた封筒は、糊の縁がもっと均一に乾く。これは人の手で塗って、塗ってすぐに投函された。──いや、投函ではない。郵便受けに直接、押し込まれている。
私は封筒を片手にぶら下げたまま、外階段を上がって事務所の鍵を開けた。「芹沢探偵事務所」と粗末なアクリル板に印刷した表札の角が、湿気で少し歪んでいる。三畳の応接スペースと、その奥のデスク二つ。電気ポットの蓋を開けると、昨夜助手の若槻が淹れ残した麦茶の匂いがした。
デスクに封筒を置く。差出人はない。宛名は「芹沢柊様」、定規で引いたような直線で書かれている。筆記具は黒のサインペン。文字に勢いはなく、一画ずつ確かめるように引かれている。──几帳面な人間だ。だが、几帳面な人間が差出人を書かないのは、妙だ。
ペーパーナイフを使って、糊の継ぎ目をそっと開く。中身は二枚。
一枚は、新聞の切り抜き。三日前の日付。〈河川敷で会社員転落死、事故か〉という見出しの下に、被害者の名前が小さく載っていた。三十二歳、都内の専門商社勤務。深夜、酔って堤防上の遊歩道から転落した、という三行ほどの短い記事だった。
もう一枚は、A4の白い紙だった。中央に、十数個の記号が一列に並んでいる。○、△、縦棒、横棒、波線、それらの組み合わせ。アルファベットでも、数字でも、ハングルでも漢字でもない。意味のない落書きに見える。
だが、意味のない落書きを、几帳面な筆致で十数個並べる人間はいない。私は紙を蛍光灯の下にかざした。インクの濃淡が、左から右へ少しずつ薄くなっている。途中で休まず、一気に書き上げた証拠だ。手の運びに迷いがない。書き手は、この記号列の意味を、すでに完全に知っている。それも、列の配置に至るまで、頭の中で組み上げてから紙に下ろしている。
私はその記号列を二度、目で追った。三度目に、紙の右下隅に細い文字を見つけた。
『──朝凪堂より』
薄い、本当に薄い線だった。鉛筆の芯を寝かせて引いたような筆致で、蛍光灯を真上から当てなければ見落としていた。意図的に、見落とすか見落とさないかの境目に置かれている。──気づく人間にだけ気づいてほしい、という、書き手の傲慢さの匂いがした。
息を、止めた。
朝凪堂。私が二十年前まで暮らしていた家の、廃れた屋号だ。父が死んだ年に解散し、書類のどこにも残っていない。墓石にすら刻まなかった。──知っているのは、私だけのはずだった。
椅子の脚を引く音もしないまま、若槻が事務所に入ってきた。
「おはようございまーす……所長、顔色やばくないですか」
二十二歳、大学院を中退してこの怪しげな事務所に転がり込んできた助手は、私の手元の紙を覗き込み、それから新聞の切り抜きへ視線を落とした。明るい色のニットを着ているのに、本人は全然明るくない。今日もくたびれた顔だ。
「差出人不明。郵便受け直接投函。糊がまだ湿ってた」
「……朝、近所で誰か見ました?」
「いや。だが投函されたのはここ一時間以内だ」
若槻は記号列を凝視した。彼女は学部で記号論をやっていた。──だから雇った。
「暗号、ですね。これ。コードでも、サイファでもなくて、置換した上で更に並べ替えた合成型に見える。素人じゃない」
「だろうな」
「鍵がいりますね。鍵語、もしくは対応表。それがないと、どれだけ睨んでも開かないやつです」
若槻は紙の縁を指で押さえ、机の蛍光灯にぐっと近づけた。
「……でも、解いてほしくて送ってきたなら、鍵もどこかに仕込んでくるはずです」
「同封されてないってことは、鍵は別ルートで来る、ってことか」
「もしくは、所長がもう持っているはずだ、と差出人は思ってる」
その言葉に、私は曖昧に頷いた。心当たりはない。だが、心当たりがないことを認めるのは、まだ早すぎた。
「で、新聞記事は?」
私は河川敷の一件を指でなぞった。
「事故死で処理されている。だが、わざわざこれを切り抜いて同封してきた人間は、事故だと思っていない」
「事故じゃないかもしれないって、所長は思うんですか」
──そう聞かれて、私はすぐには答えなかった。
事故ではないかもしれない、と思った理由を、即座に言語化できなかったからだ。だが沈黙の数秒で、二つに分かれた。
ひとつ。記号列の存在。事故死を伝える記事を、ただの新聞記事として送りつけるなら、暗号は不要だ。暗号があるということは、「事故ではない事実」を符号化して伝える意図がある。
ふたつ。屋号の符合。差出人は私が芹沢柊であることを知っている。それも、戸籍上の名前ではなく、二十年前まで使っていた家の屋号で。──それは、警察にも、依頼人にも、若槻にも教えていない情報だ。私という個人を、背後の歴史ごと知っている誰かが、この記事を選んでいる。
「妙だ」
口に出すと、若槻が眉を寄せた。
「妙、で済まないやつですよね、これ」
「……ああ」
私は新聞記事をデスクに置き、その上に記号列の紙を重ねた。屋号の四文字を、もう一度見た。掠れたサインペンの線が、私の指の油でほんの少し滲んでいた。
──これは、挑戦状だ。
確信したのではない。観察から導かれた結論だ。差出人は私の過去を知っている。事件性を匂わせる新聞記事を選んだ。意味を取れない人間には届かない暗号で、意図を伝えてきた。これらが偶然に重なる確率は、ない。誰かが、私を、相棒か、競争相手か、あるいは標的として、選んでいる。
「若槻」
「はい」
「桐谷さんに連絡を入れる。──河川敷の件、警察の現場資料を非公式に見せてもらえないか聞いてくれ」
「桐谷さんって、あの元刑事の。所長、あの人とはもう関わらないって……」
私は答えなかった。
代わりに、自分の机の引き出しを開け、奥から黒い革表紙の手帳を出した。十年使っていない。私が紛失物探しと身辺調査だけで暮らすようになってから、一度も開かなかった手帳だ。革は乾き、角が白くなっていた。
──穏やかな日常を、望んでいた。
紛失した猫を探す。浮気の証拠を撮る。隣家の境界トラブルを記録する。それで充分だったし、それで暮らせていた。三年前、私はそう決めた。決めて、誰にも告げず、看板を小さくして、依頼を選り好みした。事件と呼ばれるものを、避けて、避けて、避けてきた。
迷い猫の三毛は無事に飼い主の腕に戻り、若い妻の不貞写真は離婚調停の証拠になり、隣家の生垣の杭はメジャーで測って三センチずらされた。誰も死ななかった。誰も泣き叫ばなかった。私は、自分の輪郭が薄まっていく感覚を、安堵だと言い聞かせて受け入れていた。──夜中に目が覚めて、天井の染みを数えるような暮らし。それが、悪くないと思っていた。むしろ、それでよかった。
それが、たった一通の封筒で揺らいでいる。
私は手帳を開いた。最初のページに、自分の字で一行だけ書いてある。
『事件を、解くな』
二十年前に書きつけた、自分への戒めだった。
万年筆のインクは紫がかって、最後の画が掠れている。書いた手は震えていた。当時の自分の手の震えを、私はまだ覚えている。父の通夜の翌朝だった。線香の匂いが、まだ袖口に残っていた。──あの匂いを、今、紙の上から嗅いだ気がした。
その文字の下に、私はサインペンで、もうひとつ書き足した。
『──ただし、人を、死なせるな』
ペン先を置き、手帳を閉じた。
「所長、なんて書いたんですか」
「信条だ」
「信条?」
「ああ。これからの俺の」
若槻が口を尖らせる気配がしたが、私はもう椅子から立ち上がっていた。新聞記事を内ポケットに、記号列を別の封筒へ移し、手帳を脇に挟む。
「所長、私も行きます」
「事務所を空にするな。電話番だ」
「桐谷さんへの連絡は、誰が」
「お前だ。固定電話を使え。携帯はだめだ」
「……所長」
「何だ」
「気をつけて、じゃ足りない気がします」
私は答えず、彼女の顔を一瞥して、ドアノブに手をかけた。アクリル板の表札が、風で微かに鳴った。階段の手すりに触れると、塗装の剥がれた鉄が朝露で冷たかった。
外はまだ朝で、湿った風が事務所のドアに吹きつけていた。──河川敷へ行く。
封筒を投げ込んだ誰かが、まだ近くにいるかもしれない、と思いながら、私は階段を下りた。
足音が、自分のものより、半歩遅れて聞こえた気がした。